誤解

「胡蝶に俺が甘露寺を好きだと思われてるんだが」
「へっ」
 何故だろうか。そう呟いた冨岡に甘露寺は驚いて目を瞬いた。
 学校の先輩だった冨岡と伊黒の下宿先である狭霧荘に足繁く通うようになって一年、甘露寺は用事のない休日は殆ど狭霧荘に遊びに行っていた。
 冨岡と会ったのは入学して最初の始業式の日、遅刻しそうになっていた甘露寺が近道に路地を通っていた時だ。飛び出した先の歩道を歩いていたのが冨岡だった。思いきりぶつかって水溜りに尻餅をつきそうになった甘露寺を支えようと手を掴んでくれたのだが、バランスを崩して冨岡が水溜りにダイブしてしまった。泣きそうになりながら謝ると、困った顔をしながら気にしていないと口にした。濡れて汚れた衣服のクリーニング代を出すと言っても聞いてくれず、結局連絡先を聞いて菓子折りを持っていくと約束してその場を後にした。
 電話をしてお詫びに行くと言った甘露寺の勢いに流されたのか冨岡は住所を教えてくれ、翌日菓子折りを持って狭霧荘へとやってきた。そこで出会ったのが伊黒である。
 お詫びに来たはずの甘露寺はいつしか伊黒に惹かれてしまい、ずっと冨岡を通して狭霧荘へ遊びに行く許可を貰っている。在学中から良くしてくれるので、甘露寺は毎日幸せな日々を送っていた。
「冨岡さん、私のことが嫌いだったの!?」
「いや、まあ、甘露寺のことは好きだが」
 ほっと胸を撫で下ろして甘露寺は笑みを見せた。
 そういう意味ではなく、と続けた冨岡に甘露寺は耳を傾けた。珍しく冨岡から話しかけてくれた上、何やら甘露寺の好きな話題なのである。伊黒とのことを応援してくれている冨岡の話なら親身になって聞かなければ失礼というものだ。
「しのぶちゃんは冨岡さんが私に恋をしてると思ってるのね」
「そう言ってる女子生徒がいたとも言われたが、何でそうなったのかわからない。微笑ましく見てたからか」
「や、やだ、恥ずかしいわ」
 照れて熱くなった顔を仰ぐがあまり効果はなかった。変ではないと言うのでとりあえず安心して甘露寺は少し考えた。
 冨岡は優しくて女子生徒からモテることも知っているけれど、女の子と仲良くしているところを学校でも見たことがなかった。ひょっとしたら甘露寺以上に親しい女子がいないのかもしれない。だからそういう話が出たのではないだろうか。
「冨岡さんは私以外の女の子とは話したりしてたの?」
「……いや、特に」
「じゃあそれのせいかも。そういえば私もたまに聞かれたことあったもの」
 冨岡と仲が良いのかとか、どうやって知り合ったのかとか。特に気にせず答えていたけれど、勘繰られていたのかもしれない。
「………? 甘露寺が伊黒を好きなのは学校でも周知されてたんじゃなかったのか」
「私は隠してなかったけれど、恋をするのに相手がいるかどうかは関係ないんじゃないかしら」
 例えば伊黒と甘露寺が恋人同士なのにも関わらず、甘露寺が冨岡に恋をするのは駄目だと思うけれど。自分で例えておきながら、伊黒との関係を想像してまた頬に熱が集まっていく。
「成程」
 納得したように頷いた冨岡は、溜息を吐きながら湯呑みを傾けた。応援するとまで言われたと呟き、甘露寺の頬はもう赤みが引かずに熱いままである。
 伊黒から聞いて気になっていたことを甘露寺は問いかけようと口を開いた。
「どうしてしのぶちゃんはそんなことを? 冨岡さんとは許婚同士だって聞いたわ」
「……それは親が勝手に言ってることだ」
「でも、冨岡さん。しのぶちゃんに誤解されたくなさそうだわ」
 どこか寂しそうにも見える冨岡を眺め、甘露寺は言葉を紡いだ。目を丸くして見つめた後、冨岡は少し困ったように視線を逸らした。
「……それは、そうだが。かといって許婚の話は別だ」
「そうなの? 好きだから許婚の話本当にしましょうってならないかしら」
「……八年前だぞ。他に好きな相手がいてもおかしくないだろう」
「でも冨岡さんはしのぶちゃんのこと好きなのよね」
 眉を顰めて額を押さえた冨岡は、甘露寺の言葉にどう返すかを考えているようだった。
 許婚などというものに囚われずに恋愛をしてもらいたいのはわかるけれど、それはそれとして冨岡はしのぶのことが好きなのだ。しのぶがどう思っているかは計りかねているようなので、全てはしのぶの気持ち次第ということだろうか。
 何度か狭霧荘で会い、学校でもたまに顔を合わせる。しのぶは可愛くて美人で男子から声をかけられているのを見たことがある。
 学校よりも狭霧荘で会う時のほうが自然体に見えたし、冨岡と話している時は楽しそうに見えた。許婚関係、そのままでも問題ないのでは、と甘露寺としては思うのだが。
「だったらしのぶちゃんに好きな人がいるか聞けばいいのよ!」
「いないと言ってた」
「あっ。も、もう聞いてたのね」
「話の流れで」
 どんな流れだったのか少し気になるけれど、しのぶはどうやら好きな人はまだいないようだ。ならば冨岡との許婚も気にせず継続で良いのではないだろうか。
「好きでもない相手が許婚など邪魔なだけだろう」
 ああー、そっち……。
 甘露寺は項垂れそうになるのを堪えながら冨岡を眺めた。普段と変わらない愛想のない涼しげな顔をして湯呑みに口をつけている。
 消極的な冨岡としては当然の考え方なのだろう。しのぶの気持ちを優先して、冨岡の気持ちは後回しである。甘露寺からすれば両方優先するべきだと思うのに。
 というか。
 そもそもしのぶは許婚が冨岡であることを嫌だと思っているのだろうか。
 ふと気になってしまい甘露寺は目を瞬いた。
 そう、一番重要なことである。はっきりとは言わないが冨岡はしのぶのことが好きなのだし、しのぶが許婚であることに拒否感を持っていなければ、それで解決ではないか。
「わかったわ! 許婚が嫌かどうか私しのぶちゃんに聞いてみるわね!」
「いや待て。それはしなくて良い」
「遠慮しないで! ちゃんと任務遂行してくるもの」
「甘露寺!」
 席を立って二階へと向かう。その時玄関が開く音がした。居間から顔を出すと用事の終わった伊黒がこちらを見て笑みを向けてくれた。
「伊黒さん、こんにちは! 今からしのぶちゃんと女子会をするの」
「伊黒、甘露寺を止めてくれ」
「何事だ? 甘露寺が妙なことをするはずないが、貴様何をした。というか女子会なら冨岡が割って入るのはおかしいだろう」
「胡蝶の許可はまだ得てない。さっきまで居間で話をしてたのは俺だ。甘露寺!」
 伊黒が冨岡と話をしている隙に素早く階段に向かい、引き止める冨岡の声を無視して二階へと上がった。
 冨岡には伊黒とのことで世話になった。本当に世話になっている。だからどうにか冨岡の気持ちを、せめて知ってほしいのだ。きっとしのぶも冨岡のことを嫌っていない。甘露寺のただの勘ではあるが。
 どうやら部屋まではついてこないようで、冨岡は二階に来ることはなかった。しのぶの名前が書かれたプレートを見つけてドアをノックする。返事がして甘露寺は部屋のドアを開けた。
「甘露寺さん。どうしました?」
「うん、ちょっと、女の子同士でお話したくて」
 不思議そうにしていた顔が少しばかり引き締められ、しのぶはどうぞと室内に入るよう促した。
 物はそれほど多くないけれど、綺麗に整頓されている。ひっそりとぬいぐるみがあったりと、普段しっかりしているしのぶの女の子らしいところが垣間見えて少し嬉しくなった。
「下宿楽しそうね。私も住んでみたかったなあ」
「今からでも頼めば住まわせてくれるのでは? 冨岡さんですし」
「うちそんなに遠くないから、下宿なんて許してくれないわ」
 甘露寺の家は狭霧荘から三十分程度しか離れていない。そんなところに住みたいなんて言ったら、何が目的なのかと両親は訝しむだろう。遊びに来るのが関の山だった。
「伊黒さんから聞いたの。冨岡さんとしのぶちゃんって許婚なんですってね」
「ああ、そうですね。まあ昔の話ですし、冨岡さんは興味なさそうですが」
「しのぶちゃんは冨岡さんが許婚なのは嫌かしら」
「え、いえ、その、……冨岡さんには、好きな人がいるんだと思いますし」
 しのぶの言葉に少々眉尻を下げて甘露寺は困ってしまった。何というか、二人とも相手の気持ちばかりを考えて、自分がどうしたいかを口にしないのだ。それは凄く勿体無い気がする。
「……それって、私のことかしら? 違うのよ、冨岡さんは私のことは、」
「お聞きになったんですか。隠してるならご本人に好きだなんて言わないのでは? 特に甘露寺さんは伊黒さんと両想いのようですし、自ら協力されてると聞きましたし」
 突然話題に出された自分のことに思わず甘露寺の顔から湯気が出そうなほど熱くなった。恐らく真っ赤になっていると思う。慌てて甘露寺はどもりながらも会話を続けた。
「ち、違うのよ。本当に冨岡さんは、」
「この話はやめませんか。何というか、平行線だと思いますよ」
 めげるわけにはいかないと意気込んでいたのに、しのぶの寂しそうに笑う顔を見て甘露寺は言葉に詰まった。何て顔をしているのか、自覚しているのだろうか。普段はもっとしっかりしていて凛としていて、年下なのに格好良いと思えるくらいなのに。今はまるで心細さのような気持ちがわかりやすく表情から見えていた。
 しのぶは冨岡のことが好きなのではないか。
 願望の混じった憶測でしかなかったけれど、甘露寺には見えた気がしたのだ。
「あ、すみません、ちょっと」
 振動しているスマートフォンを手に持って、画面を操作して耳に当てた。電話していることに思い至り、甘露寺は電話口から聞こえる女性のような声音を聞いていた。気安い様子でしのぶは会話をしている。
「……すみません、姉が来るというので迎えに行きたいんですが」
「あっ、そ、そうなのね! ごめんなさい、時間を取らせてしまって」
「いえ。また次にでも女子会しましょう」
 笑みを向けて上着を羽織り、しのぶは甘露寺に申し訳なさそうに謝りながら部屋を出て一緒に階段を降りた。姉が実家から様子を見にこちらへ来てくれたのだという。
「はあ……」
 玄関に向かったしのぶの後ろ姿を見送り、甘露寺は大きな溜息を吐いた。はらはらとした顔で冨岡が見つめてくる。不思議そうにした宇髄と不死川も降りてきた。
「ちゃんと誤解が解けなかったわ……」
「もう良い。気にするな」
 落ち込んでしまった甘露寺の肩を軽く叩いて、冨岡は困ったような顔を向けた。先程からずっと困惑している冨岡に申し訳ない気分になりながら、甘露寺はごめんなさい、としょんぼりしながら謝った。
「貴様が誤解されるほど甘露寺のことを見てたせいだろう。今後は見るなよ」
「そこまで見てたわけでは……」
「良くわかんねえけど、こいつ好きなやつのことは良く見てるじゃん」
 ことの経緯を問いかけられて少し逡巡していると、ここにいる面々以外には誰にも言わないという宇髄の言葉の後、しのぶが冨岡の好きな人が甘露寺だと思っているらしいという話を冨岡自ら口にした。
「まじかお前、何でそうなった?」
 驚いた宇髄が声をひっくり返して冨岡へ問いかける。不死川も眉を顰めていたが黙って静観していた。女子生徒が言っていたという言葉やしのぶ自身が感じたらしいことを冨岡が口にすると、宇髄は思いきり眉と口元を歪めて冨岡を眺めた。
「胡蝶は節穴だな。お前も言われた時点で否定しとけば良いだろ」
「否定はしたが。甘露寺は友達だ」
「あそ。なら胡蝶が馬鹿だな」
 まあ普段から表情が読みづらく口数も少ないので疑うのも仕方ない。そう言って宇髄は専用の湯呑みを取り出して茶を淹れ始めた。
「最初から俺の許婚ですって顔しとけば良いのによ」
「それとこれとは別だ」
「良く目が合うっつってただろ。向こうもお前を見てるってことだ。お前ら本当に面倒臭えな」
 手のひらで顰めた顔を隠しているが、冨岡の頬が少し色づいているのが甘露寺の目にはっきりと映った。
 初めて見る照れた表情に目を輝かせて感嘆の声を上げてしまったが、これは仕方ないと甘露寺は思う。学校でも狭霧荘でも、出会ってから冨岡が照れているところなど見たことがなかったのだから。
「貴様俺のことを煽っておきながら自分はそれなのは何なんだ一体」
「お前はねちねちするくせに俺を挟むからだ。話は聞くが、もうここでのことは許可を求めなくて良い。甘露寺も」
「でも、ここの大家さんだし、冨岡さん学校に来るから……」
「……学校で冨岡に許可もらってたのか?」
「え? ええ、遊びに行っても良いか聞いて許可を貰ってから、伊黒さんに伝えてもらってたわ」
 少し考えるように天井を仰ぎながら、宇髄は言葉になっていない声を漏らした。首を傾げた甘露寺がどうかしたのかと問いかけると、面倒臭そうな表情を変えないまま宇髄が口を開いた。
「それたぶん周りに人いたよな」
「そういえばいたかも。あまり気にしてなかったわ」
「大抵放課後の下駄箱とかで声をかけてきてた」
「原因はそれだな」
 しのぶが誤解している原因。どういうことかと詰め寄ると、宇髄は大きな溜息を吐いて茶を啜った。
「こいつ連れとか好きなやつには大分態度軟化させるだろ。それを見たことない生徒が見て、甘露寺を好きなんじゃねえかって勘繰った。そしたら胡蝶の耳に入って誤解っていう流れだろうな」
「貴様甘露寺に色目でも使ってたのか?」
「使ってない。いつ来ても良いし一日中いても良いといつも言ってた」
「……まァ知らねェ奴が聞いたら驚くかもなァ」
 黙っていた不死川が感想を口にした。
 要するに、甘露寺が学校で冨岡に遊びに行く許可を貰っていたのがまずかったようだ。なんてことだ、冨岡の恋を応援しようと思った矢先、自分のせいで妙に拗れてしまっていたとは。顔色が変わるのが自分でもわかってしまった。
「……ご、ごめんなさい。私ったらここに遊びに来たいばっかりに……」
「いや、甘露寺のせいでは……」
「今すぐ誤解を解いてきます!」
 居間を飛び出して玄関へ走り、靴を履いてドアを開けたところで冨岡の手が甘露寺の腕を掴んだ。落ち着け、と冨岡の珍しく焦った声が聞こえ、泣きそうになりながら甘露寺は冨岡を見上げた。
「で、でも、私のせいだわ! 冨岡さんにはちゃんと幸せになってもらわないと」
「それなら俺は充分満足してるから気にするな」
 廊下から複数の足音が聞こえた。勢いのまま飛び出そうとした体を少し落ち着かせようと冨岡の服の裾を掴んで俯き、ふと甘露寺は玄関の外へと目を向けた。
 そこには見覚えのない綺麗な女の子と、どこか茫然としたように目を丸くしたしのぶの姿があった。