年始の挨拶と出稽古

「あけましておめでとうございます」
「ああ、おめでとう。今年もよろしく」
 待っていた者がやっと来たと期待して鱗滝が出迎えに行く背中についていったのに、聞こえてきたのは女性の声だった。
 そのすぐ後に義勇の声も聞こえたので鱗滝の後ろから声をかけると、嬉しそうにこちらを見た義勇の隣に知らない女性が立っていた。
 どこか見覚えがある気がするし、こんな目立つ見た目を早々忘れはしないだろうと思うのだが、少しばかり悩みながら会釈をすると彼女は笑みを向けて名をしのぶだと名乗った。思わずどきまぎとしてしまったのは仕方ないことだと思うが、気恥ずかしさを覚えてしまった。
「あーっ! 義勇くんのお嫁さんだ!」
 部屋から出てきた従姉妹が騒ぎながら年始の挨拶とともに義勇へと飛びつき、それを義勇が難なく受け止めた。毎年見る光景だが、こっちは会うたび成長しているはずなのに義勇は毎年よろめきもしなかった。年齢が違うので仕方ないが年々面白くなくなっている。
「結婚とあけましておめでとう! 私たちも結婚式呼んでほしかった……」
「ごめん」
 義勇が後頭部に手のひらをぽんと置くと、飛びついた真菰が離れてから女性へと挨拶をした。和やかな空気が流れている気がする。鱗滝の先導で居間へと足を踏み入れた義勇たちは、すでに来ていた蔦子を見て笑みを向けた。
「いらっしゃい、義勇、しのぶちゃん。あけましておめでとう」
「おめでとうございます」
 今年からは親族だと嬉しそうに言った蔦子に女性は少々照れたように頬を染めながらも笑みを返した。写真で見た義勇の花嫁は確かに綺麗な人だと思ったし、今見ている姿も同一人物であることが理解できた。本当に義勇のお嫁さんなのだとどうにも感慨深い気分になる。まあ従兄弟だろうと年上なのだが。
「錆兎と真菰だ」
「ええ、義勇さんが格好良くて可愛いと仰ってた子たちですね」
 頷く義勇に錆兎は羞恥を感じ、誤魔化すように唇を尖らせた。真菰は嬉しそうにしているが、素直に褒めてくる義勇の言葉は時々受け止めるのに苦労する。蔦子も一緒になって褒めてくるのだから、錆兎にとって冨岡姉弟は少々対応に困るのだ。せめて義勇のお嫁さんが止めてくれたら良いのだが、何となく一緒になって褒め殺してきそうな気配がする。
「しのぶちゃんのご実家に挨拶は?」
「年末に行きました。両親も姉も大騒ぎしてしまうので帰るのが大変で」
 何やらお嫁さんの実家で義勇は大人気らしく、日帰りだと言ったにも関わらず泊まらせようと家族総出で説得されたらしい。アルバムだとか色々と見たがりそうなものを出してきては引き留められ、義勇と彼女はすっかり疲れきったらしい。
「しのぶさんのアルバム楽しそう。私も見たい」
「義勇のに写ってるわよ」
 真菰の一言に蔦子が答え、目を瞬いて首を傾げた。曰く、二人は幼馴染なのでお互いの幼少期はアルバムにたくさん写っているのだという。そうだったのか、知らなかった。
 とはいえ、写っているのは幼少期のみ。義勇が十歳の頃に引っ越して何年も会っていなかったのだが、偶然再会して狭霧荘に下宿していたらしい。真菰のテンションが凄いことになっていた。漫画の世界のようだと大騒ぎである。
「あー、下宿楽しそうだなあ。高校生になったら私もできるかな?」
「産屋敷高校に通う生徒限定じゃなかったか?」
「そんな制限はないが……近いから多いだけで」
 今年中学三年になる錆兎と真菰は受験生で、進学先は色々と考える時期だった。とはいえ産屋敷高校は二人とも家から通える範囲であり、わざわざ下宿する必要もない。確かに楽しそうではあるが、親が了承するかどうかはまた別の話だ。
「高校か。義勇の母校だし剣道部が強いから考えてるけど、真菰もそうなのか?」
「まだ何にも考えてないよ。あんまり成績良くないし……」
 鱗滝と義勇の母校である産屋敷高校は、義勇の代に強い連中が剣道部に集まりやたらと強くなったのだと聞いていた。未だに憧れて入ってくる者がいるらしいと蔦子が教えてくれたので知っている。今の狭霧荘にも義勇に憧れた奴がいるらしい。
「そうだ、錆兎強くなったんだよ。義勇くんに稽古つけてもらったら?」
「む。俺はまだ弱いから義勇と手合わせできない」
「手合わせじゃなくて練習だよ。前回の試合も表彰されてたもん! 部活で相手になる子がもういないんだって」
 目を瞬いた義勇の表情が少しばかり曇り、珍しい気がして錆兎は首を傾げた。錆兎を見る目が窺うように覗き込んでくる。何か言いたいのはわかるが何だろう。
「……部活は楽しいのか」
「楽しいぞ。うちの中学は確かにあんまり強くないけど、皆気合いが入ってるからな」
「トーナメントして勝ちまくってつまんないって言ってたくせに」
「公式試合の後は意識が変わったんだ。団体戦でこてんぱんにやられて泣いてたけど、監督が諭して皆勝ちを目指すようになった。それからは俺も楽しい。一人でやってても面白くなかったし」
「……そうか」
 どこか複雑そうな笑みを錆兎に向けた義勇は、相変わらず多くを語らず黙している。だが錆兎の言葉に何か思うことがあったらしく、しばらくして義勇は口を開いた。
「知り合いに剣術道場の息子がいるが、錆兎が行きたいなら出稽古を頼んでみるか」
「えっ、本当か!? 門下生がいるのか?」
「門下生の数は知らないが、そいつの弟が錆兎と同じくらいの歳だった」
 テーブルに手をついて腰を浮かせた錆兎は、目を丸くして義勇を見つめた。行きたいなら言っておくと呟いた義勇に一も二もなく錆兎は大きく頷き、その勢いに真菰が笑った。不満があったんじゃん、と何故か得意げにされた。
「不満じゃなくて、新しい相手と手合わせできるのが嬉しいだけだ。そいつ強いのか?」
「自分の目で確かめるといい」
 道場主も良い人で、最近の門下生事情に少々嘆いているらしいことを口にした。義勇は弟の稽古にも付き合ったことがあるらしいが、腕前を教えてはくれなかった。
「いつ行ける? 冬休みの間に行けるかな? 義勇、早く頼んでくれないか」
「錆兎が乗っちゃったからオッケー出るまで帰れないよ」
「………」
 義勇は視線を彷徨わせ、ポケットに手を突っ込んで何かを取り出そうとした。スマートフォンで連絡を取るのだろうかとそわそわし始めた時、目の前に差し出されたものに錆兎は固まった。
「……何だこれ」
「お年玉」
「わー、ありがと義勇くん。わ、しのぶさんも? ありがとう!」
 錆兎と真菰、二人の前に差し出された四つのポチ袋。それが義勇としのぶ二人からのものであることは、本人たちが目の前で手渡そうとしてくるので考えなくてもわかる。真菰は嬉しそうに二人からのお年玉を受け取ったが、錆兎は苦々しく顔を歪めた。こんな交換条件のような渡され方は初めてだ。
「渡してこないから今年は諦めたのかと思ったのに……」
「そんなことはしない。今年から倍になるだけだ」
「はい。今年から私も用意したんです。受け取ってもらえると嬉しいんですけど」
 睨みつけても義勇は涼しげな表情を変えることはなく、しのぶはしのぶで笑みを見せたまま変わることがなかった。ちょっと油断すればこれだ。年上だからか従兄弟だからか、錆兎は義勇や蔦子相手に折れることが多いのだ。今年からはもう一人譲る相手が増えてしまうらしい。
「……しのぶさんだって未成年だと聞いてる」
「そうですね。でも社会人ですから」
 社会人じゃなくてお嫁さんだろう。言い返したい気分だったが、錆兎は不貞腐れながらも礼を告げて受け取った。こんなことをされるのも来年までと決めている。高校生になったら腕ずくでも断るつもりだった。できるかはわからなくなったが。
「早く出稽古頼んでくれ」
「……わかった」
 肩を震わせて笑っている義勇を睨みながら、今度こそスマートフォンを取り出したのを見届けてお年玉を鞄に仕舞った。
 知り合いというのは高校の後輩らしく、昔は良く義勇も出稽古に行っていたらしい。錆兎とも仲良くなれると思うと呟きながら端末を操作し始めた。
「何ていう道場なの?」
「煉獄道場」
 義勇の後輩の煉獄といえば、錆兎も映像で見たことのあるあの選手だろう。義勇とは正反対の剣筋だったが同じくらい強い選手だった。中学生の弟がいるというが、錆兎は試合で煉獄という名を見たことがなかった。試合に出ていないのだろうか。
「うわ」
 操作していたスマートフォンをテーブルに置いてすぐ振動で通知を知らせ、思わず声を漏らした義勇は眉を顰めた。錆兎たちにそんな反応を見せたことがなかったが、後輩相手だとあるのだろうか。振動は電話だったらしく、通話を押して耳に当てようとした。
 ——いつでも良いぞ! 千寿郎も喜ぶ! 先輩も胡蝶を連れて来ると良い!
「うるさい」
 本当にうるさい。耳に当てようとしていたのだからスピーカーにしていないはずなのに、錆兎たちにも普通に内容が聞こえるほどの大声だ。しのぶも知り合いなのか少々苦笑いを漏らしていた。
 煉獄はおおらかな性格なのか、今日来ても良いとまで言っているかのようだった。さすがに正月はやめておくと義勇が断ると、聞こえていた声が少し元気をなくしたように小さくなった。
「冬休み中に行きたいのか?」
「できれば。部活で出稽古の提案もできるかもしれないし」
「そうか。何日か提案するから、煉獄の都合の良い日を決めてくれ」
 短いやり取りだったのにやたらと印象が強い。とはいえ義勇と同じ年にレギュラーを務めたほどの猛者だ。煉獄とも稽古ができるだろうか。楽しみで待ちきれなくなってきた。


「やあ、きみが錆兎少年か! 冨岡先輩からは強いと聞いている。今日は来てくれて嬉しい!」
「よろしくお願いします!」
 にこにこと笑う煉獄は、映像で見た雄々しい剣筋からは想像していなかったほど朗らかだ。その隣には道場主だという四十代くらいの男性がいて、少し後ろには彼らと同じ髪色をした少年がこちらを窺うように眺めていた。背格好も錆兎と同じくらいだ。
「いらっしゃい。杏寿郎がすまないな」
「いえ。こちらこそ急に頼んでしまったので」
「驚きはしたがうちは歓迎する。門下生もめっきり減って割と暇だし……」
 遠い目をして呟いた道場主を窘めるように煉獄が背中を叩いた。何やら煉獄道場にも色々と悩みがあるらしい。錆兎は道場があるのなら毎日でも通いたいくらいだが、サッカーや野球といったメジャーなスポーツを楽しむ同級生が多いのも事実だった。
「千寿郎と同い年なんだな」
「よろしくお願いします」
 お辞儀をして笑みを向けた煉獄の弟は、煉獄とは違い少し気弱そうな印象だった。やはり試合には出ていないらしく、道場で稽古を受けるだけの生活だといった。
「冨岡さんにも稽古をつけていただいたんですが、やっぱり競うのが怖くて……」
「怖いとは情けないな。男ならもっと堂々としているべきだ」
 錆兎が見ても強いとわかる煉獄の当主と兄がいて、義勇にも稽古をつけてもらったというのだから自信を持っても良いと思うのに。気の持ちようだと発破をかけていると、様子を見ていたらしい煉獄の笑みが深くなったのが視界に映った。
「きみの従兄弟は男らしいな」
「錆兎は格好良い」
「成程、先輩のお墨付きか! 将来は大きな男になりそうだな!」
「………」
 義勇がこちらを窺っているのが見えて目を向けたが、何も言わず道場の端へと行ってしまった。弟を置いて煉獄が義勇のそばへと向かっていった。

*

「……今は楽しいと言ってたが、少し前まで部活がつまらないと思ってたらしい」
「成程、だから連れてきたのか。千寿郎ともお互い良い刺激をもらえそうだ。うちの門下生は皆千寿郎より年上だし」
 千寿郎は心根こそ優しく気弱ともいわれがちだが、決して剣の腕がないわけではない。稽古自体は好きでも誰かと試合で勝敗を決めることが嫌らしく、稽古はするが試合には出たくないと小さい頃は泣いていたものだった。強い者や初めてやり合う者と剣を交えるのは心が踊り勉強にもなるが、千寿郎は何かを学ぶよりも怖さや嫌悪が勝つのだろう。人それぞれということだ。
 同い年や歳が近い者同士での切磋琢磨は心も鍛えると煉獄は思う。錆兎が部活はつまらないと思っていたということに危機感を持った冨岡は、千寿郎と稽古をさせるために彼を連れてきたのだろう。同じレベルでの強さを持つ相手がいない者が孤独を覚えてしまうのは仕方のないことだが、それを冨岡は止めたいようだ。剣道を辞めてほしくないからというのも想像できる。冨岡のそばには似た理由で剣道をしなくなった者が一人いるのだから。
 父の審判のもと、まずはお互いの実力を図るために三本勝負をすることになった。錆兎は待っていたといわんばかりにやる気に満ち溢れているが、千寿郎は不安そうだ。錆兎をよく知る冨岡は千寿郎を呼んで口を開いた。
「錆兎は確かに強いが、千寿郎が劣るということはない。稽古どおりにやれば良い。この試合の勝ち負けで何か起こるということもない」
「……はい。ありがとうございます」
 不安げに揺れていた目に少し光が戻り、千寿郎は準備をして位置へと戻っていった。錆兎は立っていた場所から冨岡の助言があったことに気づき、フェアじゃないと文句を言っているが、冨岡は気にせず無視していた。
「錆兎は誰であろうと見くびらない。男らしくないと判断すると蔑んでくるが」
「そうか。それは素晴らしい」
 門下生を含めてもずっと年下であり続け、煉獄や父と比べても内向的で人に強く出られないからか、千寿郎をないがしろにする者がいなかったわけではなかった。煉獄が注意をするのは簡単だったが、それでは千寿郎のためにはならないと見守り続けて来た。良い友人になってくれることを信じて二人を見つめた。
「勝者は錆兎くん」
 一礼をしたあと面を乱暴に外して錆兎はずんずんと千寿郎の前まで進んでいき、同じく面を外して顔を上げた千寿郎は驚いたように肩を震わせた。
 三本勝負は結果からすれば錆兎の勝ちではあったが、千寿郎が何もできなかったというわけではなかった。充分稽古の成果を出せていたし、実際錆兎が手こずっているところも見た。錆兎は一本千寿郎に取られていた。
「お前、千寿郎といったな。それだけやれれば充分試合でも通用するだろ」
「ええと……勝負はしたくないです」
「試合は優劣を決めるんじゃない。自分がどこまでできるかを試す場だ。勝とうが負けようが自分の心持ち次第で得られるものがある。それなのに怖いからと避けて通るなんて勿体ない」
 驚いたように目を瞬いて、千寿郎は錆兎の顔を凝視した。父も驚いていたが煉獄自身も同様に驚いていた。冨岡が格好良いというだけのことはある。将来が楽しみな少年だ。
「男だったら怖い、嫌だなんて理由で尻込みするな! 試合に出たくても出られない奴だっているんだ。団体戦なんか部員から五人だけ厳選するんだからな」
 眉尻を下げて俯いた千寿郎が何も言わないことに、ふと我に返った錆兎は言い過ぎたとでも思ったのか少し罰が悪そうにしたものの、言い放った言葉を撤回することはなかった。
「……きっと、僕が出るのを良く思わない人もいます。兄と比べても僕は特別強いわけじゃありませんから」
「そんなの言わせておけば良いだろう。大体何で兄と比べるんだ。兄弟だからといって全部同じになれるわけないだろ。いたのか? そんなことを言う奴が。そこまで言うのならさぞ実力のある特別な選手なんだろうな。嫌味や妬みを女々しく言うなんて男の風上にも置けん奴だ。俺が性根を叩き直してやる!」
「錆兎」
 ヒートアップしてきた錆兎の肩を掴み、冨岡が少々慌てて止めに入った。離せと冨岡の手を外そうと藻掻き、取っ組み合いに発展しそうな二人を眺めていると、冨岡が足を払って床へ錆兎を転がした。
「落ち着け」
「……お前、いつも実力行使するな……」
 悔しげに唇を噛みながら、冷静でいられなかったことを恥じたのか少々頬が赤かった。未熟、と一言呟いてその場に正座して深呼吸をした。反省の仕方が冨岡と同じなのが微笑ましい。
「……俺は間違ったことを言ったとは思ってない。妬むのはそいつの心が貧しいからだ。お前が悪いのは恐怖から逃げることだけだ」
「……すみません」
「俺に謝っても意味がない。俺には何も迷惑はかけられてないからな。ただ……、公式戦で当たらないのは少し残念だ」
 錆兎は千寿郎と戦いたい一心で言い募っていた。千寿郎もそれは察していただろうと思う。まるで自分のことのように怒りを見せた錆兎と同様、煉獄もまた憤りを腹の内に燻らせたのだ。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることでもない。俺が勝手に思っただけだし」
 結局錆兎は千寿郎ともう一戦した後、父と煉獄にも教えを請い稽古をつけた。錆兎が稽古を受けている間、千寿郎は冨岡と何やら話をしているようだったが、煉獄にはあまり聞こえなかった。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。是非また来てくれ」
 父の挨拶に二人揃って頭を下げ、冨岡と錆兎は歩き出した。小さくなる背中を見送り家へと入ると、うちに入らないだろうかと父が一言呟いた。錆兎を気に入ったらしい。
「門下になるかどうかはわかりませんが、出稽古なら来てくれそうな気がします。そういえば進学先は決まっているのだろうか。先輩の母校でもある産屋敷高校に来るなら嬉しいですが!」
 あわよくば部活に入ってくれればもっと良い。彼ならいくらでも強くなれるだろうし、千寿郎の良き友になってくれるだろうとも感じていた。