狭霧荘の夏休み

「そういうわけで、夏休みの間旅をすることになった。その間二人の孫を頼む」
 目を丸くしたのはしのぶだけではなく、義勇も驚いて黙り込んでいた。
 狭霧荘に顔を出した先代の大家である鱗滝は、友人だという年配の男性とこれまた年配の女性を連れてやってきた。久しぶりに顔を合わせたが相変わらずきびきびと動いて元気な方だった。彼から手土産という名の大量の野菜を受け取り茶を淹れた。
「貴方のことは孫から聞いとる。あいつは怖がりであまり良いことは言わんが剣の腕が素晴らしいことはきちんとわかっとる。まあ甘えただから厳しいだの怖いだの散々なことしか言わんが、そのくらいでないとじゃじゃ馬共は纏められんだろうしなあ。若いのにしっかりしておられるようだ。鱗滝の孫とは思わんかったが」
「いえ……」
「この婆さんの孫なんかずっと騒いでなかなか寝ないらしい! 強者の見極めはできとるらしいが落ち着きは足りんな」
 桑島は楽しげに話し続け、お婆さんは相槌を打ちながら微笑んでいる。湯呑みの茶を啜りひと息ついた頃、鱗滝が口を開いた。
「お遍路に行こうと言い出してな。嘴平さんは難しいのではないかと言ったんだが、四国に親戚がいるらしく会いに行きたいと途中まで付き合うことになった。孫は部活があるから家に居させたいんだが、一人だと心配だと」
「……成程。それでうちですか」
「二ヶ月分の家賃と、あれの世話も大変だろうから少し多めに」
「え……いえ、それは」
 宿泊日数の家賃以上の金銭を義勇が断ろうとすると、桑島は快活に笑いながら無理やり封筒を差し出した。お婆さんの出した封筒と一緒に、鱗滝も貰っておけと口にした。
「可愛い孫が世話になるのだからこれくらいは。変なことをしたら容赦なく叩きのめしてくれて良い。……まあ普段から管理されているようだがな」
 居間に貼っている風紀の文字を眺めながら、部活でのことも聞いているらしい桑島は楽しそうに義勇を見た。鱗滝の孫なのになあ、と小さく悪態をついて鱗滝から背中を叩かれている。
「本人は良いと言ってるんですか?」
「ここにあれの友達がおるだろう。話を聞いて羨ましそうにしておったからな。それに嘴平さんとこの孫は貴方に懐いとるらしいじゃないか」
 どうやら伊之助は家で義勇の話を良くしているようだ。体育祭で一緒に競技に出ていたところはしっかりと見ていたとも言っている。照れているのか義勇の表情は固くなった。
「来たいと言ってるのなら……」
「そうか、有難い!」
「道中、熱中症にはお気をつけくださいね」
「ああ、ありがとう」

「頼もう!」
 朝早く狭霧荘に響いた声はまるで道場破りのようで、一人ではなく複数の声が重なっていた。慌てて義勇と二人で来客を迎えに玄関まで駆け寄っていき、驚いた伊黒と不死川兄弟が居間から顔を出してこちらを覗いていた。先程の声はどうやら桑島と伊之助だったようだ。
「おはようございます」
「おはよう。早速だが宜しく頼む」
 鱗滝たちに挨拶を済ませてその後ろにいる二人へ目を向けると、頭を下げた善逸と竹刀を持ち歩いて来たらしい伊之助が立っている。少し大人しいのは朝だからか何か言い含められているのかはわからない。
「勝負だ義勇!」
「ヒィッ!」
 大人しいのはほんの一瞬だけだったようで、眼前に突き出された竹刀を掴んで、義勇は力任せに伊之助ごとひっくり返した。真横で繰り広げられた光景に善逸の口から悲鳴が上がった。
「おお……見事だな」
「儂の孫だ」
 どこか誇らしげな鱗滝にしのぶは思わず笑いそうになったが、何とか堪えて彼らを招き入れようと声をかけた。
「いや、我々はすぐ出発する」
「爺ちゃん、やっぱ俺もついてって良い?」
「何言っとる! お前がここに泊まりたいと言うから頼んでやったのに!」
 やめておけば良かったと嘆く善逸と呻いている伊之助に、義勇は一枚ずつ紙を渡して良く読んでおくよう伝えた。下宿人に必ず読ませるあの注意事項だ。善逸は素直に目で追い始めたが、伊之助は握り締めて紙に皺が寄ってしまった。
「こんな長ったらしいもん読んでられるか!」
「読みもせず守れないのなら、夏休みの間部活はなしだ」
「ぐうっ、」
 伊之助には部活なしという言葉が良く効いているようだ。不貞腐れたままぐしゃぐしゃにした紙を広げ、大人しく読み始めた。途中何度か漢字について善逸に問いかけている。
「さすがに扱い慣れとるのお」
「そりゃ猛獣使いとか言われてるし……」
 紙に目を落としながら善逸がぼんやりと呟いた。体育祭でも教師が口にしていたことだ。しのぶも少し思ったことはあるが、何をしていても義勇は噂になるらしい。
「あっ。義勇さーん! 連れてきました!」
 狭霧荘の外から現れた炭治郎が鱗滝たちに気づき元気に挨拶をして、女の子の手を引いて近寄ってくる。紙から顔を上げた善逸が目を剥いてぎしりと固まった。
「何だ。他にも増えるのか」
「はい、炭治郎の妹だそうですが」
「禰豆子です! 二週間ほど泊まらせてもらうことになりました」
 お辞儀をして顔を上げた女の子はにこやかに挨拶をした。炭治郎に良く似て朗らかで可愛らしい子だ。兄の様子を見に竈門家から派遣されたらしい。玄関先に立っている皆の姿を物珍しげに眺めている。
「善逸と伊之助も来たんだな。皆に迷惑はかけるなよ」
「そうだな、頑張るよ。ところで禰豆子ちゃんっていうんだね、お前の妹」
 先程まで怯えて帰りたがっていたのが嘘のようにしゃっきりしている。善逸は炭治郎と禰豆子に擦り寄りながら、まさに猫なで声といえる声音で話しかけている。炭治郎が少し不審そうに善逸を見た。
「じゃあ行ってくるから、人様に迷惑はかけるなよ善逸!」
「わかってるってば!」
「注意事項さえ守れば何しても良いんだな! さっさと勝負しろ!」
「しない。まだ言い含めることはある」
「行ってらっしゃい、お気をつけて」
 騒がしくなり始めた玄関先から老人一行が出かけていき、伊之助を宥めすかして少年たちを屋内へと招き入れた。しのぶが下宿していた時も女の子はなかなか来なかったので、二週間とはいえ少し楽しみである。
「ええと、お世話になるからと母から渡すよう言われたものが、」
 居間に通して人数分の茶を淹れていると、禰豆子は持たされたらしい手土産をリュックから取り出した。青春十八切符を利用してのんびりこちらまで来たのだそうだ。無事辿り着けて良かったと笑っている。
「お菓子とタオルとハムのセットにお酒の飲み比べ五本セットと、」
「待て。多すぎる」
 驚いた義勇が思わず止めると、禰豆子は少し照れたように眉尻を下げた。母が絶対渡してくるようにと言っていたのだと慌てている。禰豆子の宿泊だけではなく、炭治郎の礼も兼ねてのもののようだが、しのぶとしても多すぎると思う。
「お母さん、挨拶に行けないの落ち込んでたので」
「先生が会ってたはずだが」
「そうなんですけど、大家さんは違う人だって聞いてその人にも挨拶しなきゃって」
 鱗滝とは面識もあり挨拶を済ませているのだから、義勇としてはこれ以上のものは必要ないと禰豆子に伝えようとしている。困ったような表情は変わらず、禰豆子は炭治郎へと目を向けた。
「禰豆子、義勇さんも困ってるし少し持って帰るか? また考えて違うものを渡そう」
「でもお母さんと結構悩んだんだよ。それに持って帰ったらハムとか痛みそうだし……」
「ならお酒は? 重いだろうけど帰りも頼めるか?」
「うーん……お母さんもお父さんもお酒飲まないし……」
「………。……わかった、受け取る。ありがとう」
 義勇の良心をどすどすと突き刺すような言い方を、わざとしたのか天然なのかはわからないが、炭治郎はうまく誘導したようだ。おかげで断るはずだった義勇が折れて贈り物を受け入れた。顔を見合わせて喜ぶ兄妹の様子を眺めて、恐らく狙ったのだろうとしのぶは感じた。禰豆子とは義勇も初対面のようなのにこの把握ぶり、炭治郎が色々と話していたのかもしれない。呆れた視線を伊黒が送っていることに気づいた。
「ま、しばらく人数も増えますし、ハムとか食べ物は有難いですよ。お酒だって義勇さんたちは飲まれるでしょう。禰豆子さん、ありがとうございます」
「いえ……」
 惚けたような顔をした禰豆子に首を傾げつつ、差し出された複数の箱を受け取った。纏めて持つと普通に重いが、良く背負って来られたものだと思う。
「案内ついでにこれ、洗面所にお願いします」
「ああ」
 新しく卸したタオルを手渡すと、義勇は炭治郎を含めた四人を引き連れて居間を出ていった。何段にも積まれたいただきものの箱を見ながら小さく溜息を吐くと、不死川と伊黒も溜息を吐いていた。
「押しに弱すぎる。部活中の頑固さはどこへ行った」
「ありゃ剣道と風紀限定だァ」
「年下の可愛い子たちからお願いされては無下にできませんよ」
 年上の綺麗な女性にも同年代の同性にもさほど強くは出られないので、炭治郎のようなごり押してくる者に滅法弱いだけだ。煉獄とその母然り。
「でも随分賑やかになりそうですね。どんどん平均年齢が若くなって」
「そろそろ出ていってやらねばならんかもな」
「部屋が余ってしまいますから駄目ですよ。義勇さんも寂しがりますから」
 宇髄が出ていった当初は義勇も、伊黒や不死川すら少し寂しそうにしていたので、やはり長年住んでいた者が退去するのは寂しい。更に友人なのだから余計だろう。
 まあ宇髄は結局頻繁に顔を出してくるし、伊黒も不死川もそうなりそうではあるのだが。
「ああ、そうだ。お風呂のプレート」
 昔宇髄が作ってくれたしのぶ専用だった入浴中のプレートは、禰豆子がいる間彼女にも渡さなければならない。新しく作るかどうしようか。やたらと可愛く仕上げてくれたしのぶのプレートと同じものは用意できないが、しのぶなりに可愛く作れば喜んでくれるだろうか。
「二人で使えば良いんじゃねェか」
「ああ、それでも良いでしょうか。でも専用を作ってくれたのは嬉しかったですし」
「そういえばクラスの女子から何かシール大量に貰いました」
 玄弥が思い出したように呟き、取ってくると言って居間を出ていった。不死川は少し驚いたように後ろ姿を見送っていた。
 女子の持っていたシールならば可愛いものがありそうだ。禰豆子も気に入ればプレートに貼り付けて作れるかもしれない。
「あいつモテるのか?」
「クラスメートなら話すことくらいあるんじゃないのか」
「よく気が利きますし背も高いし、モテてもおかしくないでしょう」
 思春期かと思うような節はあるものの、炭治郎と二人で良く気遣われているしのぶは玄弥が良い子であることもわかっている。何やら思うところがあるような素振りで不死川は相槌を打った。
「昔は俺の後ろついてまわってきてたのになァ」
「寂しがるな。成長くらい見守ってやれ」
「体育祭だって散々嫌がりやがってよォ」
 しのぶは姉と仲が悪くなるようなことはなかったが、年頃の兄弟ならば色々とあるだろう。少々不貞腐れたような不死川がおかしく笑ってしまった。
「大体兄弟なぞ思春期を越えたら話などしなくなるし同室など嫌がるものだ。貴様らが仲が良すぎるんだ」
「一応気を遣って衝立置いてやってるわ。仕事あんだからずっと一緒じゃねェよ」
「仲が良いといえば炭治郎くんと禰豆子さん、手を繋いでこちらに来ましたね」
「はァ。羨ましくなんかねェけどな」
 どう考えても羨ましく感じていそうだが、これ以上掘り下げると不死川が爆発しそうだ。伊黒の表情がまた呆れたものになっている。
 そうこうしていると玄弥が義勇たちとともに戻ってきて、提案したシールをしのぶへと手渡した。複数枚のシートに色とりどりの花やリボン、キャラクターが描かれているシールだ。
「あら、可愛い。禰豆子さん、何か気に入るものありますか?」
 しのぶが声をかけると禰豆子は瞬いて近寄り、テーブルに並べたシートを眺めた。どれも可愛いと楽しそうだ。
「入浴中のプレート、私と共用でも良いんですが、どうせなら可愛いものを作ろうかと。簡単な作りですみませんが」
「いえ! 二週間しかいないのに良いんですか?」
「ええ、せっかくですから。また使用することもあるかもしれませんし」
 再度泊まりにくるかもしれないし、もしかしたら狭霧荘に下宿することになるかもしれない。そう口にすると禰豆子の目が輝いた。
 入浴中と書いたプレートを渡すと、座ってシールを選び始めた。
「全室埋まったのは初めてですか?」
「いや、埋まってない。嘴平は吾妻と同室だ」
 伊之助は家でお婆さんと寝室が同じらしく、一人部屋をもらったことがないらしい。一人はつまらないと文句を言い、善逸の泊まる部屋へ無理やり荷物を置いたのだそうだ。げんなりした表情で善逸が項垂れている。
「衝立あっても寝相で倒しそうだし、お前と同室とか本当やだ」
「夜は騒ぐなよォ」
 友人二人では毎日修学旅行のような気分にもなりそうだし、伊之助は興奮すると騒がしくなる。少し不安だが義勇の警告は覚えているだろうから、とりあえずは数日様子見をすることにしたらしい。善逸が音を上げるか注意事項を守らないならば部屋を分ける、もしくは制裁が待っているということに落ち着いたそうだ。
「できた!」
 禰豆子の嬉しそうな声が上がり、手元を覗くと可愛らしくデコレーションされたプレートが出来上がっていた。女の子らしくリボンや花がふんだんに使われており、残ったシートとともに玄弥へ礼を伝えて返した。
「いや、俺要らないから……あげる」
 どうやら貰ったものの持て余していたようで、玄弥は禰豆子にシールを全て突き返した。実家に送り妹にでもあげようと思っていたらしいが、使ってくれるのならと渡すつもりのようだ。少し逡巡してから禰豆子は嬉しそうに礼を言うと、玄弥は少々照れたように頬を染めた。やはり思春期はまだ越えていないようだ。