大家夫妻と新一年生の下宿人

 狭霧荘と書かれた表札を眺め、今日から世話になる下宿先である屋敷を見上げ、玄関のインターフォンを押した。息を吸い込みできるだけ溌剌とした声を意識して、炭治郎は大きく口を開いた。
「ごめんください!」
 中からばたばたとした音が聞こえ、目を丸くした男性が玄関扉を開け放った。
 目の前の彼とは一度顔を合わせたことがあり、それ以前から一方的に知っている人でもある。お世話になりますと一言告げて深く頭を下げた炭治郎を見て、納得したように表情を緩めて狭霧荘へと迎え入れてくれた。
「ああ、来られると言ってた子ですね。こんにちは」
「こんにちは。竈門炭治郎です」
 部屋のドアから顔を出したのは若い女性で、居間のドアを開け中へ入るよう促し台所で茶の準備をし始めた。
 鱗滝から紹介された狭霧荘は古い家ではあるものの清潔にされているようで、受け継いだ義勇が大切に管理していたのがよくわかった。最近夫婦でやりくりし始めたと聞いていたが、彼女がそのお嫁さんのようだ。
「新しい下宿人か。喧しい奴が来たものだな」
「すみません、元気良く挨拶をしようと思って……」
 居間には見覚えのある人がおり、炭治郎を見て呆れたように言葉を漏らした。座るよう促され居間のテーブルに腰を下ろし、狭霧荘での決まりが書かれた紙を手渡された。
「先生から何か聞いてるか」
「あ、ええと、産屋敷高校の卒業生が数人住んでると聞きました」
「一人減った。まだ来てないがお前と同い年の男子も入居する予定だ」
「わあ、そうなんですか。仲良くなれるかな」
「さあな。こいつは伊黒、もう六年ほど住んでる」
「伊黒さん! よろしくお願いします!」
「声のボリュームを下げろ。喧しくてかなわん」
 伊黒は騒がしいのが嫌なようで、炭治郎に声量を落とすよう注意して溜息を吐いた。すみません、とまた一言謝りながら、女性から手渡された湯呑みを受け取った。
「一応食事時間は決まってるが、夕飯は残っていれば好きに食べて良い。夜十一時以降騒ぐのは禁止。門限は九時。玄関の鍵は渡すから、それ以降になる場合はきちんと施錠すれば問題ない」
 渡された紙に目を通しながら義勇の言葉に相槌を打つ。風呂の時間は特に決まっておらず、入浴中のプレートが掛けられていたら女性が入っているので注意するようにとのことだった。
「誰を連れてきても良いが、泊めたいなら事前に言ってくれ」
「はい、ありがとうございます」
 妹を連れてきても泊めてくれるらしく、炭治郎は有難く義勇の言葉に頷いた。
 居間を見渡すと壁に風紀と書かれた紙が貼っており、それに気づいたのか義勇から学生らしい節度ある行動をするようにと一言告げられた。疑っているわけじゃないとも付け足され、言わなければならないことを言っているらしい。炭治郎は特に風紀を乱すような行動をするつもりなどないので、普段通りの生活であれば何かを言われることはないだろうと考えた。
「部屋はこっちだ」
 茶を飲み終えた炭治郎についてくるように言い、義勇の後ろについて廊下を歩く。居間の向かいのドアは大家の部屋、風呂とトイレの場所を聞きながら階段を上り、ドアの並ぶ二階の廊下に上がった。
「ここがお前の部屋だ。名前を書いてドアに掛けておいてほしい」
「はい、わかりました!」
 部屋の鍵と狭霧荘の玄関の鍵を渡され、帰ってきたらまた下宿人は紹介すると口にした。定期的に人が遊びに来るので賑やかになることが多く、居間は大抵井戸端会議場になるのだそうだ。
「楽しそうですね。俺も賑やかなのは好きです」
「だろうな」
 実家のことを鱗滝から聞いているのか、それとも炭治郎自身を見てそう思ったのかはわからないが、納得したように義勇は頷いて口元を綻ばせた。
 大抵居間にいると口にして、義勇はドアを閉めて階下に降りていった。
 家族の多い炭治郎にとって初めてといえる一人の部屋である。窓を開けると隣家が見え、畳の匂いが鼻に届いて落ち着く。綺麗に掃除された部屋は決して広いとはいえないのだろうが、一人部屋にわくわくしてそんなことは気にならなかった。
「よォ、連れてきたわ。今日から頼む」
「ああ、さっきもう一人も来た」
 炭治郎が階下に向かうと、居間の扉が少し開いていて声が漏れ聞こえてきた。覗き込んで扉を大きく開くと、人数が二人増えていた。
「竈門炭治郎だ。今年から産屋敷高校に通う」
「初めまして、竈門炭治郎です!」
「不死川だ、三年住んでる。その隣が、」
「弟の玄弥だァ。同い年か」
 よろしく、と頭を下げた玄弥に炭治郎は笑みを返した。兄弟である二人は同じ部屋で寝泊まりするらしく、一部屋だけなら食費分を多く徴収するだけで済むのだそうだ。
「友情料金ですね!」
「いや、毎回そうしてる」
「あ、そうですか。破格だと思います」
 玄弥にも紙と説明を聞かせ、部屋と玄関の鍵を渡した。先に部屋の案内をしてくると口にして不死川は玄弥を連れて居間を出ていった。どうやら狭霧荘の案内は不死川がするようだ。
「炭治郎くんは嫌いなものはありますか?」
 名前をしのぶだと教えてくれた義勇のお嫁さんは、朝晩の食事のために気を利かせてくれているようだった。
 炭治郎は好き嫌いはなく何でも食べる。アレルギーもなく健康そのものである。
「いえ、何でも好きです」
「そうですか。皆さん偏食がなくて助かりますね」
「食事はしのぶさんが作るんですか?」
「今年からは家事の大半は私が担当します。義勇さんは剣道部に行きますから」
「剣道部! 入部したら義勇さんに稽古をつけてもらえるんですね」
 鱗滝に映像を見せてもらったことがある。義勇と会ったことがあるのはそれがきっかけだった。
 水の流れのような動きで相手から瞬く間に一本を取り、炭治郎は思わず目を奪われてしまったのだ。試合を見に行くという鱗滝に炭治郎も無理を言ってついていき、生で見た試合に炭治郎は興奮した。結果を残した義勇を連れて食事に行くところに炭治郎もお邪魔したのである。興奮しすぎたせいか義勇は炭治郎の勢いに少々困惑していたことを思い出した。
 高校の時の試合も見せてもらったことがあるので、見覚えのある彼らが当時の選手だったことに炭治郎は気づいていた。同じ下宿先にいるなんて凄い、と今日もひっそりと興奮していた。

*

「義勇さん!」
 剣道場の中にいた部員の面々が驚いたように入り口へ一斉に目を向けたことに、口を抑えて慌てたように少年が頭を下げた。
 驚いたのは声が大きかったからではないが、黙って見学者の列に座ったので少年はそう思ったのだろう。きらきらと輝いた目が向かう先には先程名を呼んだ男、冨岡義勇がいる。
 この真面目で堅物で厳しい剣道部のコーチ、冨岡を下の名前で呼ぶ少年は何者か。彼の様子から並々ならぬ憧れを抱いて剣道部に来たことは何となくわかる。正直彼のように期待して入部してくる奴は少なくない。産屋敷高校史上最強と名高い剣道部のレギュラーを務めていた選手がコーチとして来ているわけだし。
「何で置いてくんだよー」
「善逸。お前も見学に来たのか」
「剣道部はモテるって聞いたから」
 金髪の知り合いらしき少年は浮ついた気持ちで見学に来ているようだが、そんなことを言ったのはどこの誰だろう。剣道部など臭いし痛いしむさ苦しいだけで、剣道をしているからモテる奴などひと握りである。大抵顔が良かったり優しかったり、剣道とは全く関係のないところでモテているだけなのに。まあ、両方兼ね備えているような奴もいるが。
 会話が聞こえたらしく早速部員から目をつけられている。あまり仲良くはないが、初めてできる後輩しごきを好んでする奴もなかにはいるわけで。あーあ、と村田は少々げんなりとした。
「居やがった! おいお前、俺と勝負しろ!」
 剣道場の入り口から騒がしく現れたのは、女子と見紛うほどの可愛らしい顔をした男子生徒だった。制服は男物だし早速着崩してボタンが全開である。その上声が野太い。頭が混乱する。
 そいつは真っ直ぐ冨岡のそばまで走っていき、胸倉を掴もうとしてあえなく床に転がされていた。
 今年の一年は恐れ知らずが多いなあ。村田は逆立ちしたってやれっこないことを平然とやってのけている彼らを眺めながら、問題児だらけじゃないか、と溜息を吐いた。
「見学者はあっちだ。並べ」
「今の何だ!? 見学じゃなくて勝負しろってんだよ!」
「静かにしろ」
 襟首を掴んで冨岡は生徒を引きずり、金髪の隣に転がした。悲鳴を上げて金髪がその隣の生徒へしがみついている。
「朝ここででけえおっさんと勝負してたのお前だろ! 俺は相手になりに来たんだよ!」
「おい、やめろ。義勇さんが困ってるだろう」
 困っているようには到底見えないが、もしかしたらそうなのかもしれない。というか村田も初めて関わる人種である。入学して早々剣道部のコーチに喧嘩を売るとは見上げた奴だ。真似しようなどとは小指の先ほども思わないが。
「あ!? 誰だよ」
「竈門炭治郎だ。お前こそ誰なんだ」
「俺は嘴平伊之助だ! よーく覚えとけ!」
 友達じゃないらしい。怯えきっている金髪を挟んで二人は自己紹介をし始めた。騒ぐなと止めるべきなのか逃避すべきなのか少々悩んでしまった。
「お前は誰だよ」
「えっ。我妻善逸だけど……」
「知らね」
「聞いといてその態度なんだよ!」
 気持ちはわかる。だが村田は察した。一癖も二癖もありそうな奴らが来ているが、誰よりも問題児なのはこの嘴平伊之助である。一体誰がこれを手懐けて真人間に育てられるというのだろう。悲鳴嶼ならばいけるのだろうか。
「村田。始めろ」
「あ、はい……」
 ひと通り見学者が並び、主将である村田からいくつか話を始めた。その度に口を挟まれ話の腰を折られ暴れられ、どこかから調達してきたロープが冨岡の手によって嘴平に巻きつけられ、更衣室に転がっていた誰かの篭手を口にくっつけられ大人しくなった。剣道経験者にはわかるが、あんなもの口元に持ってこられたら臭くて死ぬ。
「今年も沢山来てくれたようだな」
「あ、悲鳴嶼先生」
 顧問の悲鳴嶼を見て新入生はその見た目に驚く。毎年のことながら実は面白かったりするのだ。まあ村田自身も経験しているが。
 口頭での説明が終わり、実際の練習を見せ、悲鳴嶼は見学者に合わないようならばここで帰るよう口にした。何人かは冷やかしか思っていたのと違ったか帰っていったが、ずらりと未だ並んでいる見学者たちに笑みを見せた。
 入部したところで何人生き残るのかは知らないが、入部者ゼロなどということにはなってほしくない。図らずも客寄せパンダのような存在にもなっている冨岡がいるのでゼロは毎年ないらしいが。
「毎年凄いな。経験者は大抵入部理由にお前たちの名前を書く」
 今日は見学日として剣道場を開放しているが、最初から入部を決めている者たちの入部届も預かっていた。入部理由の記入は任意ではあるが、最強だったといわれている頃の選手に憧れて入ってくる者が多い。長年顧問を務める悲鳴嶼に教えを請いたいという者もいるほど産屋敷高校の剣道部は有名だった。
「こんにちは! む、そうか、仮入部の時期か。多いな!」
「煉獄」
 月に一度顔を出してくれている煉獄に見学者がざわついた。最強の布陣だった頃にも大将を務めるような強者である煉獄に憧れる者は多く、彼を目当てに来ている者が多いおかげで道場内は騒がしくなった。冨岡を親しげに呼んだ生徒も目を輝かせていた。
「何故縛られてる者がいるんだ?」
「冨岡コーチに食ってかかったので……」
「骨のある少年だな! 先が楽しみだ」
 楽しそうな煉獄は更衣室へと向かった。命知らずな奴は後々馬鹿を見るかそれとも化けるか、村田にもわからないができれば強くなってほしいと思う。勝負しろと騒ぐくらいなのだから腕に自信はあるのだろう。剣道ができるかは知らないが。
「入部を決めた者はこちらへ。入部届を書いてもらう」
 一番早く立ち上がったのは竈門炭治郎だった。
 どういう知り合いなのか知らないが、挨拶もしっかりしているし悪い奴ではなさそうだ。我妻は怯えた表情のまま竈門の後ろを追いかけた。入部届を記入する列を眺めながら、ロープに縛られ蠢いている嘴平を助けるかどうするか、村田はちらりと冨岡を見た。淀みなく歩いて近寄りロープの端を掴んで口に突っ込んだ篭手を離した。
「落ち着いたか」
 落ち着けるか。死にかけの嘴平に問いかけるが唸り声が聞こえるだけだった。更衣室から煉獄が戻ってきた。
「……朝の勝負……あれお前とあそこのおっさんだろ……」
 まだ言ってる。どうしても確認したいらしいが覇気がない。どうやら篭手は相当効いているらしい。今後部員を起こすための冨岡の気付け方法に水ではなく篭手が選択肢に上がったらどうしよう。
「だったら何だ」
「凄え、強かった。俺と勝負しろ……」
 少々目を丸くして冨岡は嘴平を眺めた。音でも鳴りそうな瞬きを一つしたあとまた問いかける。
「剣道のルールを知ってるか」
「んなもん知らなくたって良いだろ」
 良いわけあるか。経験はなくても良いが、ルールは覚えてもらわなければ何もできない。こいつ本当に何も知らないで強さだけを感じ取っているらしい。野生児のような感性を持っている。
「朝?」
「悲鳴嶼先生と打ち合いしてた」
「何と。俺も頼んでこよう」
 聞きつけた煉獄はすぐさま踵を返して悲鳴嶼へ直談判しに行った。礼儀正しく真面目であるが、考え方は嘴平に通じるものがある。相変わらず剣道馬鹿だ。本人に馬鹿など間違っても口にできないが。
「俺は剣道以外で勝負はしない」
「あ!? だったら今すぐ教えろ!」
「一朝一夕で覚えられるものじゃない」
 はらはらと不安そうに眺める竈門と我妻、部員たちも野次馬のように眺めている。村田に止められるだろうか、正直嘴平にあまり近寄りたくないのだが。何か怖いし。問題児ではあっても、悪い奴……ではないと思うが。
「お前がルールに則って試合ができるようになったら相手をする」
 ロープを外し、冨岡は立ち上がって悲鳴嶼の元へと歩き出した。何人か羨望の目で見ている奴がいるが、冨岡のしごきを目の当たりにしても大丈夫だと良いのだが。
「ところで、朝練も参加し始めたのか?」
「いや、今日は見学用に手伝いをしてただけだ。時間があったから頼んだ」
「せっかくだから二人に一本試合を見せてもらおうか。見たい者もいるだろう」
 悲鳴嶼の言葉に喜んだ見学者と部員たちが騒ぎ始める。久しぶりだの生は初めてだの嬉しそうだ。かくいう村田も楽しみである。
 冨岡は少々困惑しているが、煉獄が乗り気なので何も言わずに防具を身に着け始めている。
「お前さ、冨岡コーチと知り合いなの?」
 近くに立っていた竈門に声をかけ、気になっていたことを質問した。村田主将、とすでに覚えたらしく少しばかり嬉しくなった。
「はい。義勇さんのところに下宿してます」
「ああ、そういえば下宿屋なんだった」
「はい、優しいです! 俺義勇さんの試合見て憧れてここに入りました!」
「あ、うん……書いてたもんな」
 入部希望にははっきり冨岡に憧れたと書いてあった。優しいかどうかまでは別に聞いていなかったが、剣道関係が厳しいだけで、まあ悪い人ではないことも知っている。
「ふうん。あそこ確か不死川さんや伊黒さんが住んでるんだよな。仕事があるからって滅多に顔出さないけど」
「はい、皆さん良くしてもらってます。不死川さんの弟も同い年で」
「へえ。そういや不死川って名前は見なかったな」
「玄弥……弟さんは別の部に入るらしいんです。ちょっと期待してたけど駄目でした」
 兄弟揃って剣道部には来てもらえなかったようで、竈門はがっかりしながらも良い奴だと笑った。
 防具をつけ終えた二人が対面に向かい合い、悲鳴嶼が入部届を纏める手を止めて審判を務める。先程まで和やかだった空気は霧散し、外野は静まり返ったように固唾を呑んでいる。
 はっきりいって、ルールを覚えて血の滲むほどの努力をしたところで二人のような選手に全員がなれるわけではない。むしろ試合にも出られず挫折して落ちていく奴のほうが多いはずだ。村田自身平凡な選手だが、何の因果か主将なんてものをやっているが。
 やはり好きな気持ちがなければ努力しようとは思わないし、何を得られるかはわからなくても、剣道は続けたいと思うのだ。こうして圧倒的な勝負を目の当たりにできることが楽しいとも思うくらいには。