疑惑

「あっ! 冨岡先輩来てる!」
 聞き知った名前が耳に入り、しのぶは顔を上げた。上級生の一人と話をしている冨岡がいる。
 在学中は剣道部に所属していたらしい冨岡は、手の空いている時のみコーチをしてほしいという後輩のたっての希望で、週の半分はこうして母校に訪れているらしい。卒業したばかりで顔見知りの後輩や教師が多いせいか、しのぶが見かける時は誰かと話をしていることが多かった。
 ジャージがやたらと似合うなあ、なんてことを考えながらぼんやり眺めていると、女子生徒が一人近づいていった。
「こんにちは、冨岡さん、煉獄さん!」
 元気に挨拶をした女子生徒に相槌を返している。どうやら知り合いのようで仲が良さそうに見えた。
「冨岡さん、またお邪魔しても良いかしら。次の土曜日、とか」
 もじもじと胸の前で両手の指を動かしながら女子生徒は頬を染めて口にした。あんなに可愛い仕草が似合う女の子を初めて見た気がして、しのぶはつい見入ってしまった。
「いつ来ても構わない。何なら朝から一日中居てもいい」
「ほ、本当ですかっ!? 嬉しいっ」
 しのぶは驚いた。
 冨岡の目元が女子生徒を見て柔らかく和んでいるように見えた。
 確かに再会してから性格を全て把握できていたかといわれると頷くことはできないが、女子生徒にあんなことを言うとは想像していなかった。狭霧荘では風紀と書かれた紙を居間に貼り付けていたし、剣道部に入部したクラスメートは堅物だとか言っていたし。
 近くに立っていた他の女子生徒二人がざわついている。
「冨岡先輩の好きな人って甘露寺さん……!? あの断り文句まじだったの」
「あの好きな人がいるってやつ? 完全にそういう設定なのかと思ってた。皆割と疑ってたし」
「でも、確かに仲良かったよね。いやでもさ、甘露寺さんって……」
 長くて明るい髪が人柄を表しているような、朗らかで女の子らしく、冨岡を見上げて頬を染める姿が驚くほど目を奪われた。
 あの人が冨岡さんの、好きな人。
 しのぶは納得した。あんなふうに言うのだから、そういう相手がいるのかもと考えてはいたけれど。
 三つ上ということはもう十八歳、高校も卒業したのだからいずれ十九になる。彼女の一人や二人や三人、いておかしくないのだ。
 案外わかりやすいのだなあ。じわりと広がる胸の痛みを誤魔化すように、冨岡の女子生徒への態度について心中で言及しながら校門へと足を動かした。

 溜息が出る。
 洗濯機の騒がしい音を聞きながらしのぶはしゃがみこんでいた。
 冨岡は朝と放課後の部活に顔を出しているらしく、剣道場の近くを通ると姿を見る。こちらに気づいた冨岡はしのぶへひっそりと目で挨拶をしてくるが、しのぶはどう返すべきか迷った末会釈をすることにした。
 まあ、それは良いのだ。何だか知らないがいつの間にか口下手に育ってしまっているようなので、最初は目で何かを訴えられていることに気づかずどぎまぎとしてしまったものの、目は心の窓だとか思っているらしいことを知ってからは見つめてくる行動に溜息を吐いて納得した。
 ダサいと揶揄われているジャージを着ていようが、剣道着を着ていようがつい目で追ってしまう。だから目が合って挨拶をされてしまうのだ。
 憂鬱なのはそのせいではない。本日は土曜日、この間見かけた光景で冨岡が約束していた日だった。
 そもそもこんなにもやもやとすることがおかしいのだが、興味のないふりをしながらもしのぶは内心気になって仕方がなかった。気にするなとは言われたけれど、許婚であることはまあ、両親の間では公認なのだし、冨岡に好きな人がいるならいるで、それを報告して関係を解消してもらわなければならない。なので今彼の好きな人が誰なのかを正確に把握する必要がある。そう、必要があるのだ。好きで知りたいわけではない。
「おはようございます! ……あっ、新しい下宿人さんね!」
 きゃあ、可愛い、と騒ぎながら学校で見かけた女子生徒がしのぶへと駆け寄ってきた。驚いたしのぶは表情を窺いながらも、朗らかで明るい女の子に好感を持った。
 自己紹介をして笑い合ったあと、甘露寺は狭霧荘に遊びに来たのだと口にした。
「同じ高校の人が多くて、色々とお世話になってるの、勉強とか」
「成程。確かに先輩ですしわからないところは聞けそうです」
 皆優しく教えてくれたと嬉しそうに笑う甘露寺は、テスト前はいつも狭霧荘に来て勉強していたらしい。苦手科目を家庭教師のように手伝ってくれたのだという。
「うふふ。それから、人に会いに来てるの」
「冨岡さんですか?」
 しのぶの問いかけにきょとんとした顔を見せたあと、確かに許可は貰いにいっていたけれど、と呟きながら首を振った。何故そんな質問をするのかと不思議そうにもされてしまった。
「化学を教えてくれた人なんだけど、とっても優しいの」
 甘露寺は冨岡とは別の人間に会いに来ている。
 冨岡の好きな人が甘露寺なのだとしたら、冨岡の片想いということだろうか。
「冨岡さんには私が伊黒さんのこと好きなの知ってるから、協力してくれてるのよ」
「協力……」
 そうだったのか。優しいのだとしのぶに笑いかける甘露寺は、この狭霧荘に迎え入れてもらうのが嬉しいらしく、更に会いたい人に会えるこの時間が幸せなのだと言った。
 好きな人は甘露寺ではなかったのか。ならあの時見た和やかな目元は一体何だったのだろうかとしのぶはぼんやりと考えた。
 甘露寺とともに居間に入ると冨岡と伊黒が寛いでおり、こちらへ目を向けた瞬間伊黒の姿勢がぴしりと伸びた。
「おはよう、甘露寺」
「おはようございます! 今日はパソコン使ってないんですね」
「ああ、たまには冨岡と話をしてやるのも良いかと思ってな」
 眉を顰めて体を震わせた冨岡は、ちらりと視線を壁掛け時計に向けて席を立ってしのぶへと顔を向けた。
「すまないが、少し手伝ってもらえるか」
「え? あ、はい。何でしょう」
「おい待て貴様!」
 慌てたように伊黒が音を立てて席を立ち冨岡の腕を掴み、ぼそぼそと小声で冨岡へ呟き始めた。
「本当に余計な気を回すな。貴様この俺が二人きりで緊張しないとでも思ってるのか」
「いや、思ってはいないが……」
 冨岡の視線が甘露寺へと向かう。伊黒と冨岡を不思議そうに眺めた甘露寺は、邪魔だったかと少し落ち込んだように足下に視線を落とした。それに気づいた伊黒が冨岡の腕を離して甘露寺へと近づき、茶請けの菓子を薦めている。
 甘露寺を見る冨岡の視線が何より柔らかいような気がするのは気のせいなのだろうか。下宿し始めてからしのぶは冨岡が昔と同様優しいこともわかっているが、あんな優しい目を向けられたことがないように思えたのだ。
 しのぶはひっそり仮説を立てた。
 好きな人がいるというのはやはり本当のことで、相手が甘露寺だというのも事実なのではないか。甘露寺が伊黒を好きだということも知っているけれど、好きな人には幸せになってもらいたい一心でこうして甲斐甲斐しく二人の時間を作ろうとしているのではないか。
 そんないじらしい一面があったなんて。いやまあ、ただの仮説ではあるが。
 だがしのぶの中ではもうほぼ確定なのではないかと考えていた。目は心の窓だとか言うのだから、冨岡の目は雄弁に語っているのではないか。
 でもこれ、どこを応援するべきなの?
 伊黒と甘露寺の初々しいやり取りは見ていて可愛らしいし、何より二人とも嬉しそうだ。それを邪魔するなんて悪いし勿体無い。かといって冨岡の恋を諦める姿を見ているのも、少々悲しい。
 冨岡の好きな人が、せめて甘露寺ではなく。
 しのぶは視線を自分の手に向けた。必死になった伊黒に止められ仕方なく席に座り直した冨岡は、しのぶにも手伝いは不要だと呟いて溜息を吐いた。
「何溜息を吐いている!」
「あ、冨岡さん、このお菓子私もこの間食べて凄く美味しかったと思ったわ!」
「そうか、好きなだけ食べろ。まだ必要なら出してやる」
 せめて他の人であったならば、冨岡だってもう少し違う気持ちを持てたかもしれないのに。

 伊黒と甘露寺が居間で話をしている光景を見ることが多くなった。
 基本的に土日のどちらか、朝から遊びに来た甘露寺が居間に来ると伊黒がすでに寛いでいる。
「そろそろ俺を挟まないでほしい」
 しのぶが物干し竿に洗濯物を干していると、日課の掃き掃除を始めたので居間にいなくて良いのかと問いかけると、現在不死川が居間に軟禁されているのだと言う。そして一言心底困ったような声音で呟いた。
 溜息を吐きながら箒に腕を乗せて空を仰いだ。
 甘露寺は狭霧荘に遊びに行きたいと毎回冨岡に打診して来るらしく、伊黒に言えば良いと口にすると顔を真っ赤にして、狭霧荘の大家にまずは許可を得るのが筋だと返答したそうだ。先代が大家だった頃なら確かに毎度冨岡も聞いて伝えてはいたらしいのだが、何度も来てわかっているのだから必要ないと言っても、冨岡から伊黒に伝えてほしいと頬を染めて頼まれる。伊黒に言ったら言ったで何故毎度冨岡から甘露寺の話を聞かなければならないのかと憤慨するくせに、自分から連絡を取ろうとはしない。しているのかもしれないが、狭霧荘で会う時は必ず冨岡経由であり、しかも当日は誰か必ず居間に軟禁される。いい加減もう良くないかと言った冨岡の声音は何だか呆れているようにも感じた。
「可愛いとは思うが、もうだいぶ経つ」
 外出すれば良いのに。不貞腐れたような表情を見せた冨岡は、双方から長時間互いの話を聞かされるのだとも口にした。甘露寺は直々に協力を仰がれていたし冨岡も二つ返事で了承したし、伊黒自身のことも応援したいと思ってねちねちと悪態と説教と惚気のようなものを延々聞かせてくるのを黙って聞いているらしい。
「胡蝶も来たし、甘露寺は女同士のほうが言いやすいんじゃないか」
「そうかもしれませんけど、甘露寺さんは冨岡さんに聞いてほしいんでしょう?」
 冨岡が全面協力してくれているのだから、甘露寺は冨岡にしか言わないのだと言われたらしい。冨岡が甘露寺を好きだと知ったら、甘露寺はどうするのだろうか。
「冨岡さんが優しいから甘えてらっしゃるんでしょう」
「……話を聞いてるだけだ」
「協力されてるようですし。それに冨岡コーチが甘露寺さんにだけ優しいと女子生徒たちが話してるのを聞きました」
 何で? と言いたげな顔を見せて冨岡はしのぶへ視線を向けた。冨岡の顔を見上げたしのぶは、少しばかり緊張しながら更に口を開いた。
「冨岡さんの好きな人が甘露寺さんじゃないかって」
「………。……何故」
 たっぷり間を空けて冨岡は困惑しながら呟いた。
 その沈黙がどういう感情から来たのかは推し量るしかできないが、指摘されて驚いたのかもしれない。しゃがみこんだ冨岡の隣にしのぶも座り込み、見てきた様子から教えてやった。
「でも、甘露寺さんのこと見てる冨岡さんは優しい顔してらっしゃいますよ。好きなのかなって思うくらい」
「………」
「甘露寺さん自身が伊黒さんを好きだから、ちょっと悲しくなりますけど、別に好きなのは好きで良いと思いますし」
 人の感情など制御できないだろうし、協力していても好きになること自体は問題ないはずだ。伊黒が知れば大層怒り狂うだろうけれど、本人にさえ言わなければ良いだろう。黙り続けて辛くなるのならしのぶは聞いてやりたいとも思う。
「……俺が甘露寺を好きなのは確定事項なのか」
「違うんですか?」
「………」
 黙り込んで地面へ視線を向けた冨岡の表情からは何を考えているのか読み取れない。頷くか否定するかを迷っているのかもしれないと思い、誰にも言いませんよ、と付け足しておく。再会して日数もさほど経っていないのであまり信用ならないかもしれないが、見ているのが辛い時などはそばで気を紛らわせることだってできるはずだ。
「誰を応援すれば良いのかわからなくて。だったら冨岡さんを応援しようかなって思ったんですけど」
 幼馴染といえるかはわからないけれど、昔を知っていて一応は許婚などという関係にあって、伊黒や甘露寺よりも付き合いは長い。縁があるし世話になっているので幸せになってほしいとも思っている。自分ではなく誰かと一緒になりたいと言うのなら、しのぶはそれを祝うつもりもある。あの二人の仲睦まじさに割って入るのは難しいかもしれないけれど、諦めるのもきっと辛い。しのぶには理解できる。
「……そうか」
 彷徨わせた視線が揺れたような気がして目を覗き込んだが、再びしのぶへ向けられた目には揺らぎも何もかも凪いだような静けさが戻っていた。
「それは有難いが、甘露寺のことは友達だと思ってる」
「友達? そうですか……」
 どうやら冨岡は甘露寺に好意を抱いているものの、恋愛感情を持っているわけではないらしい。本心を素直に伝えているのかとしのぶは疑いの目を向けてしまうが、本人がそう言うのなら深く聞くことは憚られた。
「………、胡蝶はどうなんだ」
「え、私、ですか?」
「ああ。入学してひと月経つ。そろそろ人付き合いも増えただろう」
 確かに、クラスメートとも話すようになり友人は増えたと思う。女子の友人もでき話しかけてくる男子もいる。かといってクラスに好きな人ができたかといえばそうでもない。
 気になる相手はいるけれど、それは学校で出会った者ではなかった。昔から知っている目の前にいる相手。冨岡以上に気になる人は今のしのぶにはいない。
 かといってそれを伝えるには少々気恥ずかしく、本人は否定したが冨岡の甘露寺への想いも考えると口にはできなかった。
「……いえ、特には」
「そうか」
 さほど食い下がることもなく、冨岡は話を切り上げた。あまり言いたくないし聞きたくないのかもしれない。もし食い下がられたら、しのぶは気になる人の存在くらいは伝えようかと思っていたが。
 許婚のことは真に受けるなとはっきり最初に言われてしまった手前、今更気になっているなどと伝えても迷惑かもしれないし。