許婚
後ろ姿に声をかけると、振り向いた顔に満面の笑みが乗るのを見た。
隣の下宿屋は年老いた男性が営んでおり、男性と住んでいた家族はしのぶより年上の姉弟が二人。見た目は一軒家のように見えるが、部屋数が多く知り合いに下宿させて収入を得ていたのだと後になって知った。
しのぶが幼い頃は近所に家を借りていて、その姉弟が一番歳が近かった。姉と一緒に四人で遊んだり、はたまたしのぶだけで下宿屋に遊びに行ったりとして、姉と同い年の男の子には随分懐いていたことは覚えている。
「しのぶは義勇くんに良く懐いてるなあ」
「そんなに好きなら許婚にでもなっちゃおうか」
揃って首を傾げた義勇としのぶに両親は微笑ましげに笑みを見せ、将来結婚しようって約束する関係だと教えてくれた。結婚といえば、確か目の前の両親のようにずっと一緒にいることができるものだ。義勇へ目を向けると不思議そうにしのぶの両親を見上げ、どうかな、と問いかけられていた。
「よくわからないけど、一緒にいたいから良いよ」
「本当に? 義勇くんがしのぶのお婿さんになってくれるなら頼もしいわあ」
嬉しそうな両親を眺めてからしのぶへと目を向けて、義勇も嬉しそうに笑顔を見せた。おかげで嬉しくなったしのぶは両親が騒ぐのを聞きながら、義勇へと抱きついて喜んだ。
「……いや、まあ、確かに、そういうことがあったのは覚えてるけど」
昔のことだとわかってはいても、両親が話す中身が少々恥ずかしかった。
許婚がどうのと言っていたのは十年前、まだしのぶが五歳の時である。近所に子供はその下宿屋にしかおらず、三つ年上の優しい男の子はよく遊んでくれて、その子の姉も優しくて、しのぶは二人が好きだった。しのぶの姉であるカナエも二人を好いていたことを知っている。
八年前胡蝶一家が遠方に引っ越してからずっと会うことはなかったが、両親の元を離れてしのぶはこちらにある高校に入学する。その付近の寮やアパートを探していた時、あの時近所にあった下宿屋がまだ人を受け入れているのではないかと思い立った両親が電話をして住む場所が決まったのだ。
色々置いてけぼりのまま決められてしまったが、昔の所業はともかく八年ぶりにあの姉弟に会えるというのは楽しみだった。引っ越しの時、忘れないでと泣いて抱きついたことも覚えているし、姉と一緒にずっと手を振っていたことも覚えている。アルバムまで引っ張り出して当時の顔を思い出した。穏やかでいつも笑っていた姿が写り込んでいて、可愛いなあ、と荷造りの合間に少し思い出に浸ることもあった。
「わあ、狭霧荘」
門の横に取り付けられた表札に書かれた懐かしい名前。当時は読めなかったが年配の大家に読み方を教えてもらったことがあった。建物を見上げると古びていてお世辞にも綺麗だとは思えなかったが、趣があって落ち着く。
ここで今日から三年世話になる。
あの姉弟は今日はいるだろうか。ほんの少し緊張したように心臓が早鐘を打ちつつも、門の前で立ち竦んで眺めていた狭霧荘の敷地内へと足を踏み入れた。前庭は右側が駐輪場になっており、数台自転車が停まっている。塀と松の木に遮られた奥に物干し竿が立てられていて、もう少し奥に洗濯機があった。玄関のそばに水道がありホースが取り付けられている。
「出かけるならアイス買ってきてくれよー」
「ただの掃除だ」
見渡して眺めていると突然声がして、玄関の引き戸が開かれた。驚いて固まってしまったしのぶの目の前に、同様に驚いた表情をした若い男性が顔を出していた。
「………、……あ、す、すみません。私今日からこちらに下宿する胡蝶です」
「………。ああ」
納得したような返事をしたものの、どこか放心というか呆然としているような気がした。手にしていた箒を広い玄関の端に立てかけ、大きな靴箱を指して一人一段と口にした。
「大家の冨岡だ」
「よろしくお願いします。……え、大家さんですか。両親が連絡した時は年配の方だったと」
「代替わりだ。今年から俺が大家になった」
顔を見た時点で薄々思ってはいたが、名乗ったことで確信した。しのぶが懐いていたあの時の男の子が今目の前にいる。
何だか昔より随分愛想がなくなって、想像していた成長した姿とは少し違っているけれど。
「……先代からここのことは聞いてるか。下宿人のこととか」
少し困ったような顔をして冨岡が問いかけた。
両親から聞いたのは下宿を今もやっているということと、昔話に花が咲いたと喜んでいたことくらいだった。あとは婚約関係を結んで来いとかいう訳のわからないことを言い含められたくらいである。
「いえ、特には。昔近所に住んでたのでそれで話が盛り上がったとしか。覚えてらっしゃいます?」
「ああ。胡蝶姉妹の妹だろう」
頷いて答えた。どうやら冨岡はしのぶたちのことを覚えていたようで、何となくほっとしてしのぶは笑みを向けた。
さすがに許婚のことまで聞く勇気はなかったが、とりあえずはしのぶを覚えてくれていたので良しとする。
「先月一人出ていって、今は男しか居ないんだが。部屋に鍵はかかるが風呂や洗面所は共同になる。トイレは一応男女別にあるが」
「……ああ、成程。大丈夫です」
アパートとは違い共同生活になるので、部屋以外の場所はすべて下宿人と大家も使用するらしい。先代の大家はここを出て隠居しており、歳の近い男性しかいなくなっているという。
「お姉さんはいらっしゃらないんですか」
「姉は結婚して出ていった」
完全な男所帯になった狭霧荘に、しのぶが一人住むことが少し気になっているらしい。間違っても何か起こるはずはないが、嫌なら考え直してもらっても構わないと冨岡が言った。
「いえ、今から他を探すには遅いでしょうし、大家さんが間違いがないと言うなら大丈夫ですよ」
「……そうか」
きっと下宿人も良い人たちなのだろうと思ってしのぶが口にすると、安堵したように冨岡は小さく口元を綻ばせた。
愛想がなくなったと思っていたのに、ほんの少しだけ笑みが見えてしのぶは思わず凝視して一つ瞬きをした。
「俺が確認したいのはそれだけだ。下宿するにあたっての決まりはまた説明する」
居間だという部屋のドアを開けると、寛いでいたらしい男性三人が不思議そうにこちらを見た。新しい下宿人だと紹介されてしのぶは会釈をして自己紹介する。
「右から宇髄、不死川、伊黒だ」
「紹介雑すぎんだろォ」
「一番長く居座ってるのが宇髄、伊黒も三年ほど住んでる。不死川は半年ほどだ」
「居座ってるとか言うな!」
「実際無駄に居座ってるのは事実だろう」
「伊黒もそろそろ宇髄のようになる」
気心の知れた掛け合いを見せられ、しのぶは何だかおかしく感じて笑いを零した。冨岡が手渡した紙を受け取り、しのぶは目を通した。
「下宿にあたっての注意事項だ。食事時間と、夜十一時以降騒ぐのは禁止。一応門限は九時だが、玄関の鍵は渡すから、それ以降になる場合はきちんと施錠するようにしてくれれば遅くても構わない」
「はい」
「風呂の時間は脱衣所にも貼ってある」
朝昼晩三食の食事時間に間に合わなければ食べ損ねるようだ。部活やアルバイトをする予定はないが、することになれば少し大変かもしれない。風呂時間など女子が先になっており、帰りが遅かったら入れるかどうかもわからない気がする。遅くまで帰らないようなことはしないつもりではあるが。
「大家の部屋はそこのドア。下宿人の部屋はこっちだ」
居間を出て下宿人の住まう部屋のある二階へと案内され、並んだドアにプレートが掛けられているのを見つけた。プレートのない部屋は空き部屋なのだそうだ。
階段から二番目の部屋に通され、しのぶは室内を見渡した。
和室の古い部屋だが埃もなく畳の匂いが落ち着く。しのぶの実家にある自室より少し広いくらいだが、荷物が大量にあるわけでもないので何とかなるだろう。実家からすでに送られてきていた段ボールが置かれている。
「名前を書いて掛けておいてくれ」
「わかりました」
プレートを受け取ってしのぶは頷いた。昼食の時間は十二時から一時間のため、時間になったら居間に来ると良いと告げて、部屋の鍵を手渡して冨岡は出ていった。
静かに部屋の真ん中に座り込み、持っていた荷物を下ろした。筆記具を取り出してプレートに名前を書き、部屋のドアに掛けてから中に入って閉めた。
昔と違って殆ど笑わなかったが、ほんの少しだけ綻んだ口元をしのぶは思わず凝視してしまった。何というか、あれが見惚れたというのだろうか。初めての経験に少々恥ずかしくなって手のひらで目元を覆った。
「お前まじで受けたのか。絶対嫌がると思った」
「煉獄に言われたら断れない」
正午になり居間へと足を向けたしのぶは、あれからずっと居たらしい彼らの声を耳にした。
長く居るという宇髄や伊黒と、歳が近いからか不死川とも仲が良いようだった。ドアを開けると視線がしのぶへと集まってくる。
どこでも良いらしいダイニングテーブルの空いている席へと座り、テーブルに置かれた皿に直接おたまが現れた。目の前で炒飯がおたまから皿に乗せられ、思わずしのぶは目を瞬いた。
「ほら、お前が横着するから驚いてんじゃねえか」
「すまない。慣れてもらえると助かる」
「やめる気ねェしよォ」
「いえ、びっくりしましたけど大丈夫です」
さすがにスープは直接注ぐには難しいのか、コンロに置いた鍋から掬ってカップを手渡された。
「胡蝶は今年高校入学?」
「そうです、産屋敷高校。ここから二十分くらいの」
「ああ。俺らそこの卒業生」
「あら、そうなんですか。やっぱり近いから集まるんですか?」
「俺はそうだな、不死川なんかは冨岡が呼んだんだけど」
「まァなァ。色々あって世話になっちまったわ」
しのぶのように入学を機に下宿し始めたわけではないらしく、何か訳があるようだった。
伊黒と不死川、冨岡が同い年、宇髄は冨岡たちの二つ年上らしい。友人同士でルームシェアでもしているような気安さがある。
昼食を食べ終えひと息ついていると玄関のドアが開く音がして、誰かの足音が聞こえた。居間に顔を出したのはどこか懐かしさや見覚えのある年上の女性だった。
「こんにちは。義勇、差し入れ持ってきたの。新しい下宿人さん?」
「そう。ありがとう」
紙袋を冨岡に手渡しながら嬉しそうに笑みをしのぶへと向ける。名前を口にすると柔らかく微笑んでいた目が輝いた。冨岡の姉だと名乗った女性は昔の面影があり、彼女も昔のことを覚えていたらしく良く遊んだと口にした。しのぶも頷いて笑みを見せた。
「何だ、また知り合いが入居したのか。幼馴染?」
「幼馴染……会うのは八年ぶりだが」
ずっと会っていなかったのに幼馴染と呼んで良いものか。しのぶが少し気にしていたことを冨岡も考えていたらしい。
足音がまた聞こえ、顔を出したのは年配の男性だった。また見覚えのある顔が増えた。先代の大家だと思い出したしのぶは挨拶のために立ち上がった。
「ああ、許婚殿か」
咳き込む音が複数から聞こえ、しのぶは頬に熱が上がってくるのを自覚した。先生、と少し慌てたような声音で人を呼ぶ声がしたが、それより大きな声が掻き消した。
「まじかよ、許婚って!?」
「嘘だろ冨岡ァ……」
「成程、入学を機にこちらへ呼びつけていたわけか。やることが早いぞ貴様」
口元を手のひらで覆いながら俯いている冨岡が視界に映ったが、この空気はまずい。ただでさえしのぶは許婚の話を深く掘り下げようなどとは、……少ししか思っていなかった。というより、冨岡がどこまでその話を覚えているかがわからなかったので、話題には出さないようにしていたのに。
「……親が勝手に言い出したことだ。真に受けるな」
「まあ、義勇ったら」
「……当人同士の気持ちもあるから、儂はこれ以上は言わんが」
胡蝶家のご両親はがっかりするだろう。一言呟いてから年配の男性は大家の私室へ用があると言い残し居間を出ていった。
真に受けるな。真に受けるな、か。確かに子供の好きという感情に、両親はならばと提案しただけのことである。事実しのぶは下宿する話が出るまで忘れていたくらいだった。すぐに思い出して少々気にしてしまってはいたが、冨岡は面倒に思っていたのかもしれない。
少々浮かれていたような気分が、重しでも乗せられたかのように一気に動けなくなってしまった。
「献立に関して何かあるなら言ってくれ。あまり凝ったものは作れないが、時々宇髄たちも要望を出してくる」
「はい、ありがとうございます」
「洗濯は各自で。庭の物干しとベランダは好きに使って良い」
伝え忘れていたことを部屋の前で聞き、しのぶは頷きながら冨岡の顔を眺めた。気づいた冨岡の目が少し困ったように翳った気がして、しのぶは気を取り直して会釈をして部屋に入ろうとした。
「……昼間のことだが、先生と姉の言ったことは気にしなくて良い。子供の口約束だ」
「あ、はい。いえ、ええと……私も言われてはいたんですけど、ぎ、……冨岡さんが知っているのかもわからなくて」
わざわざ話を掘り返さなくても良かったのに。気を遣っているのは何となくわかるが、今はあまり聞きたくなかった。無下にはできず返事をしたものの、つい視線を逸らしてしまい顔が見られなかった。
「覚えてはいたが……。八年も会わなかったんだから、好きな相手がいる可能性のほうが高いだろう」
大抵居間にいると一言呟いて、驚いて固まってしまったしのぶに気づかないまま冨岡は廊下を歩いていった。
そんな言葉が出るのだから、冨岡には好きな相手がいるのかもしれない。両親の楽しそうな様子に押されてはいたけれど、胸の奥底でしのぶは嫌とも迷惑とも思っていなかった。むしろ八年ぶりに会う冨岡に緊張して心臓が普段より早い動きをしていたくらいだったのだ。
「そうか、好きな人……」
ドアを閉めて部屋の中へと戻り、しのぶは静かに座り込んだ。