カナヲの名付け騒動としのぶの刀
「ただいま!」
「おか……何だ、その……毛玉」
「女の子に毛玉なんて酷いわねえ錆兎くん」
子供の両親との会話は無理だったが、ある意味正当に子供をこちらへ引き入れることができてしまったのである。
「今日からうちの子です!」
「まさか孤児か?」
「まあ、そんなものね。アオイ! 早速だけどお風呂手伝ってくれる?」
「姉さんはまだやること残ってるでしょ。私たちで入れてくるから」
「えー、はあい」
本日のカルテの整理がまだだったことを指摘され、カナエは渋々しのぶの言葉に頷いて背中を見送った。
アオイの部屋はすでに準備してある。あの子供の部屋はないが、カナエと同室か、アオイとでもいいだろう。
突然子供を連れてきたカナエに錆兎は驚いていたけれど。
いつまでもあの三人に頼ってばかりではいられない。悲鳴嶼も義勇も、柱としてやらなければならないことは沢山ある。カナエの我儘で始めた蝶屋敷に巻き込み続けるのは申し訳ない。しのぶの研究もあるのだから、せめてカナエが休む時以外は一人で対応できるようになっていかなければ。
「錆兎くんだって水柱の継子としてやること沢山あるだろうし、私も頑張らないと」
「これ以上頑張るのか……義勇なら蝶屋敷は仕事として、というよりあって当然のものとして割り切ってるぞ。この点は悲鳴嶼さんがそうだし」
「………、またそんな甘えちゃいそうになるようなことを……」
義勇としては頼りにされて嬉しいのかもしれない。悲鳴嶼はカナエたちを気にかけてくれているし、頼めば即答で快諾してくれるのは二人ともだ。元々の性格が優しいのだが、何だか微笑ましいやら羨ましいやらで不思議な気分だった。
冷や汗をかいていたのはカナエだけではなく、アオイもとにかく必死になって半紙を遠ざけていた。
別に嫌がらせではない。アオイがわざと半紙を踏んで滑るわけがないとしのぶも思っているからできる芸当だったとは思うが、カナエも存分に褒めてやりたくなったくらいだ。
連れて帰ってきた子供の名付け。騒動はこれが原因である。
騒動といっても喧嘩に発展したわけではない。しのぶが書いた名前候補の半紙を選ぼうとした子供をどうにかしようとして、アオイは半紙を踏んで転ぶという暴挙に出た。尻餅をついたアオイは何度も頭を下げていたし、しのぶはそんなアオイの体を気にかけていた。再開してカナエの候補を選び直した子供には、少し残念そうにしていたが。
カマス、とびこ、タナゴ。人の、ましてや女の子の名前として挙げるには独特過ぎる候補は、さすがにカナエもどう止めるべきかを焦った。アオイがなりふり構わず頑張ってくれて助かったのである。
そのような騒動もどきがあり、子供の名前はカナヲに決まったのだ。
「じゃあ次名字ね!」
「……選択肢多くないか?」
客間に顔を出した錆兎が並べられた半紙に目を向け、呆れたような声音で一言呟いた。
「そう? 悲鳴嶼とか冨岡とか必要でしょ。いつも手伝ってくれてるんだし」
「いやー……百歩譲ってその二人はともかく、俺の名字まで要らないだろう」
柱の名字候補くらいなら錆兎としては問題ないらしい。
カナヲの前に並べられた半紙には自分たち姉妹の名字である胡蝶、悲鳴嶼や義勇、錆兎の名字に加えてアオイの名字も並べてある。そして響きがカナエのお気に入りだからという理由で、ついでのように栗花落と書かれた紙が置いてあった。
「じゃ、選んでね。直感でいいのよ直感で」
しばしの沈黙の後、カナヲの手はゆっくりと悲鳴嶼の紙に伸ばされたように見えた。
――胡蝶は駄目かあ。まあ仕方ないわね。今日からこの子は悲鳴嶼カナ、
ばしん!
「え!?」
紙を叩く音が響き、その場にいた全員の目がカナエへと向けられた。
音を鳴らしたのはカナエだ。悲鳴嶼と書かれた紙を手で思いきり叩き、カナヲから遠ざけていた。しのぶもアオイも驚いて固まっている。
「い、いやほら! カナヲは栗花落がよかったみたいだから!」
暑い。いや熱い。焦り過ぎているからか、カナエは自分の顔に熱が集まっているのがよくわかった。不審げに眉を顰めたしのぶは首を傾げつつ、カナヲにそれでいいのかと問いかけている。
「か、神崎も悩まなくていいの? 本当に?」
「はあ……」
「な、何よぉ」
「別に」
同じ名字にしたいらしいアオイが可愛いことをしている。これで皆誤魔化されてくれると助かったのだが、そうもいかなかったようだ。
錆兎は大きな溜息を吐き、またも呆れたような顔をした。カナエが何に焦ったのかをしかと気づかれているような気がする。
「……楽しそうだな」
客間の騒ぎに顔を覗かせた義勇が一言呟いた。そのまま去っていこうとした義勇に慌ててアオイが立ち上がって呼び止めた。
「あの、その節はありがとうございました、本当に、」
「俺は何もしてない」
にべもなく言い放ってそのまま去っていった義勇の背中を見送ったアオイは、少しばかりしょげて俯いた。義勇が怒っていたのかと勘違いしているようだった。
「たぶんそのうちわかってくると思いますが、……根気良く付き合ってるうちにきちんと話すようになりますよ」
「元々口数が少ないからな。普通にしてれば慣れてくる」
「はあ……だと良いんですが……」
半信半疑というような目を向けながらも、アオイは素直にしのぶと錆兎の言葉を信じることにしたようだ。アオイもカナヲも皆と仲良くしていければきっと楽しく過ごせるだろう。少なくともここにいる間は。
*
蝶屋敷で世話になるようになってからひと月は経った。
アオイが蝶屋敷で過ごすようになってから、鎹鴉は確かに指令を持ってこなくなった。ここに来たばかりの頃、カナエは何とかすると言ってくれていたし、恐らく鬼殺隊の当主と交渉してくれたのだろう。
ここに来なければ今もアオイは指令を受け、任務で何もできないまま、きっと鬼に殺されていたのだろう。仲間を危険に晒した状態で。
他の隊士に顔向けできないと考えつつも、アオイの心は救われていた。医療処置もカナヲのことも、沢山やることはある。それでも刀を振るうより余程充実した気分だった。
この蝶屋敷にいる彼らの人となりも大体把握してきていた。
まず蝶屋敷の主人である胡蝶カナエ。彼女は第一印象と普段の様子も変わりなく、朗らかで優しい菩薩のような人だった。柱という過酷だろう階級に身を置いているにも関わらず、忙しさも顔に出さずに隊士たちの怪我を診ている。本当に凄い人だ。
それから、妹の胡蝶しのぶ。彼女はカナエと違い常に笑顔を見せているわけではなく、騒ぎを起こしそうな隊士のところでは怒って怒鳴ったりもする厳しい人だ。時折怒り過ぎて言い過ぎることもあり、そういう時はカナエに窘められている。アオイとは一つしか違わないのにカナエの継子でもあるのだ。
蝶屋敷の管理はこの二人の姉妹が請け負っている。
そして二人では大変だろうと、昔馴染みだという三人の隊士が手伝っているのが現状だった。そこに入ったのがアオイとカナヲだ。忙しなく手伝っているうちに、彼らの手伝いをする機会もあった。そうして関わっているうちに感じたアオイなりの見解はこうである。
柱は皆のんびり屋。
任務も治療も稽古もない時、驚くほどのんびりしている。
特に悲鳴嶼と冨岡が。アオイがまだ見ていないだけかもしれないけれど、それにしたって二人のほほんと茶を飲んでいる時、物騒なことなど何もないかのような空気が流れる。そこにカナエが混じると更にほわんとした空気になる。アオイが来てのんびりする時間が取れるようになったと言われて喜ばしく感じたものだが、柱とは皆こうなのだろうかと考えたものだった。
落ち着く。
そう、落ち着くのだ。ここに来てよかったと心底感じられた。不安だった冨岡や悲鳴嶼との関わりも、彼らは穏やかな声音でアオイに接してくれる。特に悲鳴嶼は隊士に恐がられることを気にしているらしく、慣れるまでカナエやしのぶがいる時を見計らって声をかけてくれていた。
優しい。冨岡もカナエも、悲鳴嶼も。しのぶも錆兎もそうだ。ここに来てよかったとしみじみ思う。
カナヲもそう思えると良いのだが。あまりに安心できる場所なので、心配はしていないけれど。
*
「こういうやつが欲しいです」
鍛冶師に頼みたいことがあるとしのぶは口にした。
日輪刀は一振り一振り鍛冶師が丹精込めて打った刀だ。悲鳴嶼のような特殊な呼吸を使う者でなければ、大抵の日輪刀は日本刀の形をしている。それを振るって鬼の頸を斬るのだ。
「突きに特化した刀が良いです。いくら稽古では型が使えるようになっていても、実戦だと竹刀よりかなり重いですから。私の腕も悪いんでしょうが、全然鬼が倒せない」
悲鳴嶼のように自分だけが使う日輪刀が必要なのだという。半紙に描かれているのは刃をできる限り削ぎ落とした形のものだ。どちらかといえば槍、もはや針に近い形状だった。
「身軽さを刀が邪魔してる形か」
しのぶの腕が悪いということは決してない。稽古でもカナエに一本取るようになっているし、身軽さは義勇たちの中でもひと際、速さも相まって訓練では捕まえるのが至難だったりする。それを刀が邪魔しているというのは確かに問題だった。ここまでずっと試行錯誤していたのだろう。
「刃に塗るのではなく、柄に仕込みたいんです。鬼によって毒の強さも変わってくるので」
「……任務ごとに調整してたのか」
「任務ごとというか、鬼ごとに変わります。基本は鬼側の情報共有の対策のためですけど、効かなかったらもっと強くしないと駄目ですし。……何ですか? 子供扱いしないでください」
凄い。重い刀を振り回して、任務などそれだけで大変だろうに、しのぶは戦いながら計算しなければならないことがあったらしい。戦いの最中に考えることは恐らく誰でもあるだろうが、義勇では決して真似出来ないことをやってのけている。頭が良いことはわかっていたが、あんまり驚いたのでつい義勇はしのぶの頭を撫でた。むすりとしつつも跳ね除けないのはしのぶの温情なのだろう。
毒の効き目は五人で試して問題ないことはわかっている。しのぶが藤の毒を用いて鬼を殺したことを知った産屋敷は、それも討伐数に数えることを提案し実行されている。おかげでしのぶも階級が上がったのだが、新たな問題が刀の重さについてである。
「……ここまで細いと折れたりしないのか?」
「うーん。でも重さを削るには細くしないと……」
唸り始めたしのぶは半紙に描かれた理想の針、もとい刀を眺めている。
鱗滝は刀が折れたら使い手のせいだと言っていたが、この場合もそうなのだろうか。
「斬りつけたら折れたりするかもしれないけど……私は頸が斬れなくたっていいんです。そのための蟲の呼吸ですし。鍛冶師の方に一応相談してみたいですね。刀鍛冶の里に行きたいんですけど」
「場所は秘匿されてるからお館様の許可がいる。艶に頼め」
刀鍛冶の里の場所は柱であろうと正確な位置は知らされていない。鬼殺隊の要ともいえるべき大事な場所を鬼に襲撃されないためだった。
「そうなんですね……わかりました」
そうして本部からの承認を得たしのぶは数日後刀鍛冶の里に向かい、里の長に刀を打ってもらえることになったと皆に報告してくれた。無事刀が届いたのはもう少し経ってからだった。
若い娘が好きらしい長は、しのぶを若すぎると言いつつも数年後にはいい女になると褒めてきたらしく、何故見た目を褒められたのかと疑問を抱えつつも、それについては何も言わず頭を下げたらしい。届いた刀はしのぶの絵とは少し形状が変わっていたが、しのぶのしたいことと身体能力を踏まえた理想の刀に仕上がっていたようだ。毒の仕込みも義勇たちには秘密だと教えなかったが、素晴らしいと喜んでいた。
「でも、切っ先はともかく何で鍔の近くも残したんでしょう。仕込みの関係ですかね」
「……彫れなくなるだろう」
何を、としのぶの目が訴えてくる。
悲鳴嶼や姉のカナエならばきっと複雑な気分なのだろう。義勇としても鬼殺隊になど入らず安全に暮らすことが一番だとは思っている。それでもしのぶ自身がやりたくてしていることは、義勇にとっても凄いことだと感じるもので、報われてほしいと思えるものなのだ。
「悪鬼滅殺」
「………。私、姉さんの継子なんですけど」
「………」
言葉を間違えたようだ。これではカナエが死んだ後の不謹慎な想像を言っているように聞こえてしまう。それでも義勇の意図を汲み取ってくれたらしく、しのぶは呆れた顔を見せてからいつもより嬉しそうな笑みを見せて口を開いた。
「まだ階級も壬だし……まあ私が優秀だということを言いたいんでしょうけど! 四文字も入らないですよこれ」
「裏表で丁度」
「ふふっ……、そうですね。全く、壬の隊士に柱になった時の仮定を話すなんて義勇さんくらいじゃないですか? 本当に変な人です」
変な人とは心外だが、しのぶの機嫌はやけに良くなっていた。
気難しいところもあるしのぶだが、機嫌が良い時はわかりやすく嬉しそうにしているので見ていて飽きない。義勇の言動で機嫌が悪くなるよりは余程良かった。