トラウマ

「み、水柱様! 申し訳ございません、今しばらくお待ちいただけますか」
 震えていたアオイが顔を上げると、涼しい顔をした少年と称することもできそうな隊士が障子の奥に立っていた。
 藤の家紋の家に辿り着いた先でも落ち着く暇がない。アオイは縮こまった体をどうすることもできず、ただ黙って彼らを見つめた。
「お部屋をもう一室ご用意いたします。寒さで震えていらっしゃるので、水柱様、その……入浴を」
「ああ、俺は後で構いません」
「あ、ありがとうございます。申し訳ございませんが同室でお待ちください」
 柱とは鬼殺隊の中でも最高位の隊士の称号だ。癸であるアオイにとっては雲の上の人。今まで出会ったことはなかったが、もっと年嵩の人なのだと思っていた。
「どうぞ。入浴の用意ができるまでこちらを」
「……あ、ありがとうございます……」
 藤の家紋の家人はアオイの肩に毛布をかけてくれたが。
 雨が降っていて、気温はかなり低くなっている。昨日よりも寒いことには違いないのだが、アオイは寒さで震えているわけではなかった。多少の低気温くらいなら隊服は防寒にもなる。問題はそこではなかった。
「……すみません」
 部屋に促されたまま立ち止まっていた水柱に小さく謝罪すると、どこか所在なげな様子でようやく座布団へ腰を下ろした。
 柱にもなるような人には、アオイのような隊士の気持ちはきっとわからないだろう。会話をするのも億劫だったが、上官相手に黙って座ったままでいるわけにもいかず、アオイはとりあえず謝ったのだ。
「何に謝ってる」
 びくりと肩が大仰に揺れて、アオイは言葉を発したことを後悔した。
 あとになって思えば、謝るところはいくらでもあった。家人が打診したとはいえ上官を待たせて入浴を済ませるつもりだったこと、一室しか準備がないにも関わらずアオイが占領して待たせてしまったこと。水柱の人となりを知れば、恐らく初対面であるアオイがいて落ち着かなかっただろうことも。
「ご、ごめんなさい」
 だが、この時アオイは今までの所業を全て見透かされたかのような気分で、目の前にいた水柱が怖くて仕方なかったのである。深い水底のような目がこちらを見ているのが怖かった。だから聞かれてもいないことを口走ってしまった。
「に、任務で、何もできなくて。ごめんなさい」
 きっと普段のアオイならば、こんなことを上官に漏らすようなことはしなかった。したところで怒られるか流されるか、まともに話を聞いてもらえるとは思わなかっただろう。いくら雲の上の人物とはいえ、アオイと同じように最終選別を受け、任務をこなし、生き残り続けて鬼を倒し続けた結果柱になっているのだ。同じ境遇の隊士なのだから、甘えととられても何らおかしくはない。むしろ彼らこそそう考えるだろうと思うくらいには、隊士としてのアオイの所業は褒められたものではなかった。
「……俺が聞いてはならないことなら聞き流す。楽になるなら吐き出しておけ」
 だから、まさかこんな言葉をかけられるとは夢にも思わなかった。
 思わず驚愕したまま顔を上げると、水柱は先程と変わりない涼しい顔で部屋に佇んでいた。
 柱というのは、アオイのような下級隊士にも気を配る仕事があるのだろうか。あんまりにも驚いたアオイは、そのまま無意識に言葉を紡いでいた。
「………、お、鬼が、怖くて。今日も、人に頼ってしまいました」
 刀を振るうことができない。隊士となってまだ日は浅く、幸い同じ任務につく者が他にいたので、アオイはその隊士が鬼を斬るのを眺めていただけだった。単独任務もいずれはあるだろうけれど、どうしても体が竦むのだ。
 こんな話、たとえ柱でなかろうと甘えだと叱責する者はいるだろう。育手にも言えないことだった。
「辞めたいなら辞めればいい」
 抑揚のない声音がたった一言アオイを突き放した。
 だというのに、それがまるで名案だとでも思えるほど目の前が明るくなった。
 辞めていいのか。鬼と戦えていないのに、隊士の足を引っ張るだけ引っ張って、何も成すことができていないのに。
「で、でも」
「お前を責める者がいるかどうかは知らんが、言われたくないなら俺の名前を出せばいい」
 水柱に辞めろと言われたと。
 辞めればいいとは言ったけれど、彼はアオイを無理やり辞めさせるような言葉は発していない。そこまでしてもらうのはさすがに駄目なのではないかとアオイの理性が働いた。
「お前は仇討ちに来たのか」
「……はい」
 家族を鬼に殺されて、何をしていいかわからなくなった。鬼を倒すことを決意して、育手に呼吸を習いここまで何とか来たけれど。
 アオイに勇気がもう少しだけでもあれば、せめて誰の迷惑にもならないくらいに戦えたら。そうしたらもう少しだけでも自分を慰められたのかもしれない。
 鬼は憎い。けれど怖い。鬼殺隊から離れることもままならず、眼前に現れた鬼にどうにもならずに足が竦んでしまう。
「……鬼を斬らずともやれることはある」
 例えば藤の家紋を掲げる。隠になる。アオイにはもう帰っても家族のいる家はないけれど、隠は隊士になれなかった者たちで結成されていると聞いたことがある。アオイは五体満足で呼吸も使える。動けないのは気持ちだけだった。なのに隠になっていいものだろうか。
「………。蝶屋敷を知ってるか」
「え。い、いえ」
「医療施設だ。怪我だけでなく血鬼術の対処もする。花柱とその妹がやりくりしてるが、人手不足だと」
「―――、」
「……どうしても鬼殺に関わりたいのなら、そういう道もある」
 憎しみを忘れて普通に生きることがきっと一番良い。アオイのような者が泣いていたらきっとアオイ自身もそう道を示しただろうと思う。鬼に家族を殺されたばかりに、鬼に関わっていくことしか頭になくなっているのだと思い知った。
 この人は、それも理解してくれているのだろうか。
「ありがとうございます……」
 いつの間にか体の震えは止まっていた。アオイができることが何なのかは今でもわからないけれど、それでも任務で動けないよりは余程光が差しているように感じられた。

 藤の花と蝶が舞う庭が目に入り、そこが蝶屋敷であることを鎹鴉に教えられた。
 本当に沢山の人が入れ代わり立ち代わりしていて、玄関から少し離れた位置から眺めていたアオイは気後れした。
「ちょっと! 誰が出ていっていいなんて言いました!? 怪我が治るまで動かないでください!」
 玄関から包帯を外しながら現れた隊士に、小柄な女の子が眉を釣り上げて怒っている。
 男の隊士はアオイが会った隊士の誰より恐そうだった。何なら水柱より余程恐そうだ。そんな隊士にも臆さず女の子は声を張り上げていた。
 凄い。いや、見た目で判断するなど失礼なことをしてしまったが。
「不死川くん、ちゃんと療養しないと駄目よお。包帯まで取っちゃうんだから」
「それを巻いたこちらの労力も考えていただきたいんですが?」
「ぐっ……」
 小柄な女の子の奥から更に女の子が出てきた。朗らかに笑いながら傷だらけの隊士の肩を気安く叩いている。思わずアオイは生け垣から身を乗り出していた。
「あら、任務ご苦労様。怪我かしら?」
 そのせいか髪を下ろした女の子と思いきり目が合い声をかけられて、アオイは躊躇してしまった。ここに来たのは偶然のようなものだったから、心の準備をしていなかったのだ。アオイよりも階級が上だろう彼らを無視するわけにもいかず、おずおずと玄関前で立ち止まった。
「………、あの、み、水柱様に」
「……義勇くん? 会いに来たの? 用事があるのかしら」
 不審に思われたかもしれない。見覚えもないだろうアオイが突然やって来て水柱を呼ぶのだ。普段以上に緊張しているような気がして何と言えば良いのか悩んでしまい、何も考えないままアオイは口を開いた。
 結局はきちんと言いたいことを伝えられたのでよかったのだが。
「こ、ここで、自分に手伝えることがないかと思って来ました」
「えっ! ほ、本当に!?」
「あら! 詳しく聞かせてほしいわ! 不死川くんが病室に戻ればひと段落するから、その後お茶でも飲んで話しましょう!」
「早く戻ってください、時間が惜しいです!」
「チィっ!」
 困惑していた小柄な女の子が驚き、次いで髪を下ろした女の子が嬉しそうにはしゃいだ。不死川と呼ばれた隊士は舌打ちをして顔を歪めたものの、踵を返して屋敷内へと帰っていく。
「頼もう! 水柱か岩柱はいらっしゃるでしょうか!」
 アオイのすぐ後ろで大きな声が響き、思わず大きく肩を震わせて驚いた。振り向いた先には目を丸くした明るい髪色の隊士がいて、驚いたアオイに気づいたらしく朗らかに謝られた。
「はいはい。ごめんね、突き当たりの右の部屋に行っててくれる?」
「あ、は、はい」
 先程ひと段落すると言っていたが、混雑し始めた玄関先からアオイは離れ指定された部屋へと向かった。とはいえ玄関先は気になってしまい扉を開けようとしながらもちらりと視線を向けた。
「何だ」
「屋敷に伺ったんですがいらっしゃらなかったので! 水柱と岩柱は花柱も含めて稽古をしているとお聞きしました。俺にも是非稽古をつけていただきたく参りました!」
 水柱。後ろ姿しか見えないが確かに現れた黒髪は見覚えがある。アオイのごく個人的な悩みを聞いてくれた形になったし、あとで挨拶をしたほうが良いだろうか。アオイは落ち着きなく玄関先を窺った。
「誰かに言ったかしら?」
「それとも、人数制限がありますか?」
「いや……」
「悲鳴嶼さんとの稽古は隊士になる前からの名残よ。私たちは昔馴染みみたいなものだから、それで皆で一緒にやってるだけ。だから悲鳴嶼さんもやりたい人がいるなら拒まないと思うけど……どう? 義勇くん」
「そう思う」
「おい、稽古してるとか聞いてねェぞ。俺も入れろォ」
「不死川さんは治してからにしてください」
 何だか皆忙しそうだ。ひと段落するという言葉が社交辞令だったのではないかと思えるほどで、来てよかったのだろうかとアオイは少し不安になった。きっといつ来ても忙しいのだろうけれど、事前に忙しい時間帯を確認してから話をすればよかった。
 先程の声が大きく派手な隊士は恐らく一般隊士なのだろうけれど、アオイが目を剥くほど勢いがあった。怒られたりしないのだろうか。それとも元気があるほうが良いのだろうか。強くなる人は皆あんなふうなのかもしれない。だとすると、やはりアオイには向いていないのだろう。
「ごめんねお待たせして! わっ」
 部屋に入ってドアノブに触れたまま立ち竦んでいたアオイに、女の子は驚いた声を上げた。慌てて謝り一歩下がる。室内へ目を向けると、そこは客間のようだった。
「気になってたわよね、ごめんね。今日はひと際賑やかなの。怪我人じゃない人が遊びに来てくれたしね」
「さっきの……」
「ええ。悲鳴嶼さんにも稽古参加の許可貰いに行くみたい。元気で良いわよねえ。きっと不死川くんも参加したらもっと強くなれるわ。凄いのよ悲鳴嶼さんも義勇くんも」
 楽しげに笑う女の子に促され、ようやくアオイは腰を下ろした。やがて小柄な女の子が盆を持って部屋に入ってきた。どうやら茶を淹れてくれたようで、差し出された湯呑みに小さく礼を告げた。
「まずは自己紹介ね。私は胡蝶カナエ。鬼殺隊の医療施設であるこの蝶屋敷を管理してるわ」
「カナエは花柱、私は妹で継子のしのぶです。階級は壬」
「神崎アオイです。階級は……癸です」
 花柱とその妹がやりくりしている蝶屋敷。カナエが言うには岩柱と水柱、そして水柱の継子である隊士が手伝いを買って出てくれているのだそうだ。
 水柱の言うとおり、ここはずっと人手不足なのだろう。
「うちに来たことはないみたいだけど、鬼殺隊預かりの診療所ってことは知ってたのね」
「あ、はい。以前、藤の家紋の家で水柱様にお会いして、ここのことをお伺いしました」
「……もしかして義勇くんが誘ったの?」
「ええと、誘ったというよりは、こういうところがあると教えてくださったんですが……」
 相槌を打ちながら嬉しそうにアオイの肩を叩く。カナエは花柱の名にも負けない可憐な人だ。妹だというしのぶも少し気が強そうだがアオイには笑みを向けてくれた。緊張していたのが少し和らいだ気がする。
「でもね、手伝ってもらえるのは凄く有難いんだけど、あなたは隊士でしょう? 怪我をしてなければ任務終わりに来てくれると助かるけど、毎回そうとは限らないし……、……大丈夫?」
 アオイの顔色が変わったのが目に見えたのだろうか。和らいだ緊張が戻ってくるのを感じた。
 これを二人に伝えなければ、アオイはここでも何もできない。せっかく水柱が蝶屋敷を教えてくれて、こうしてカナエとしのぶは話を聞いてくれているのだ。
「言い難いことは無理に言わなくていいわ。そもそも鬼殺隊って、皆過去に何かあった人が多いもの。大丈夫よ」
 カナエはアオイの手を握り、しのぶは背中を擦ってくれる。また涙が滲んでアオイは必死に堰き止めようとした。
 他人に甘えてばかりでは駄目だ。アオイは立ち竦んでばかりいたくないからここの様子を見に来たのだ。カナエの優しい言葉にアオイは首を横に振った。
 最終選別でも鬼を斬ることができず、アオイはずっと隠れたまま、同じく選別に来た者が鬼に喰われる様をただ茫然と眺めていた。アオイはそこでトラウマを自覚したのだ。
 家族が殺されていく様を忘れられなかった。仲間が喰われても、一歩も動くことができなかった。動かなければ殺されるのに、鬼を追うことも、背を向けることも恐ろしい。
 カナエの空気は不思議だ。甘えてはいけないと思っているのに、我慢していたことがするりと抜け落ちるように口からまろび出てしまった。
 カナエの体がアオイに触れる。抱き締めてくれているのだとふいに気づいた。
 何もできないアオイが真っ先に喰われてもいいはずなのに、鬼はアオイではなく果敢に向かっていった隊士を喰らう。近づいているのだから当然だ。アオイはそれを遠目に見ているだけだった。足が竦んで動けないのを鬼は気づいている。手に持っているはずの刀はただの飾りに成り下がっていた。
「だからここに来てくれたのね」
 任務でも動けないのに、医療でのアオイの働きなど邪魔にしかならないのではないかと考えもした。けれど結局、アオイもまた縛られているのだ。
 鬼と関わったばかりに、怖くてもそこから離れることができない。
「私も怖かった。今も怖いわ。だから蝶屋敷を開いたの」
 柱とは皆、アオイのような隊士にも共感してくれる人ばかりなのだろうか。
 カナエも水柱も、アオイの心情を汲んで話をしてくれる。選択肢を示してくれる。優しい人ばかりだ。
「あなたがここに来てくれるなら、指令のことは何とかするわ。一人でも駐在がいてくれれば凄く助かるもの」
「………、頑張ります……」

*

 死ぬのが怖かった。死んでほしくない人は沢山いるけれど、自分がいざ窮地に立たされてどうしていいかわからなくなるのはよくあることだ。
 アオイのような隊士はきっと多い。一種の強迫観念のようなものだ。カナエにもあるものだった。
「アオイがまだ任務に出るつもりがあるなら、しのぶの毒を使わせることもできるけど……」
 怯えすら見えるアオイに鬼と対峙させたいとは思わない。
 それにしのぶにはまだ対処すべき問題が残っている。本人はアオイのことを気にしているようだが、しのぶには目の前の問題に集中させたい気持ちもあった。だが人手のない今の状況では集中したくても難しい。
「……しのぶ。もう一人増やそうか」
 難しい顔をしていたしのぶが顔を上げ、カナエに向かって訝しげに首を傾げた。
「この間ね、古い長屋の軒先で子供を見たの。この寒いのに薄着でじっと座ってて、ちょっと様子見に行かない?」
「……え、まさか、誘拐でもするつもり?」
 しのぶの可愛い顔が歪に歪んだ。
 さすがに初手でそれは悪手過ぎる。カナエはもっと穏便に彼女の力を借りたいのである。何故あの子供が良いのか、上手く説明はできないのだが。
「んー……ご両親と話ができるならしたいなって。働き口を紹介っていう体で……駄目かなあ」
「さあ……」
「ま、とりあえず行ってみよう! ね!」
 呆れているようにも見えるしのぶは溜息を吐き、カナエは手を叩いて気を取り直し、出かける準備をし始めた。