蛇足
蝶屋敷を出ていってから久しぶりに会う二人に、炭治郎と禰豆子は善逸と伊之助を連れてうきうきと喜び勇んで冨岡家へ訪れた。
「義勇さーん、しのぶさーん」
「おいおい、勝手に入っていいの?」
「え? あ、そうか、俺住んでないんだった」
居候していた時と同じ感覚でつい入ってしまった。声をかけたから気づいてくれていると思うが、善逸は呆れたように口元を歪ませた。
「お前のその図太さは尊敬に値するよ」
「間違えただけだよ」
「あいつらどこだ!?」
喜び勇んで勝手に進んでいく伊之助の首根っこを掴みつつ、一先ず玄関からまた声をかける。ぱたぱたと足音がして、よく知る匂いが近づいてきた。
「炭治郎くん、お久しぶりですね。皆さんも」
隊士時代はしかめ面をしていることが多かったしのぶは、玄関から顔を出した時、目が釘付けになるほどの笑みを向けられた。炭治郎はあまりの眩しさに照れてしまった。何なら鼻血が出そうだった。
「どうぞ、上がってください」
療養中、義勇と話している時は恋する乙女の柔らかい笑みを浮かべていたが、それは炭治郎に向けられたものではなかった。勿論任務での怪我で蝶屋敷に行った時も、しのぶは怒ることも多かったけれど笑うこともあった。祝言の時も幸せそうに微笑んでいたというのに、どの笑顔とも全く印象が違うのである。炭治郎たちに向けられた笑顔が、ちょっと驚くくらい衝撃だったのだ。
「しのぶさん美人に拍車かかってるね」
炭治郎の耳元に手を当てて囁いた禰豆子の言葉に善逸が大きく頷いた。
幸せなんだろうな。匂いなど嗅がなくてもわかる、見ただけでそう感じられる笑顔だ。痣の猶予ができたから余計にだろうか。
「義勇さん、いらっしゃいましたよ」
「よく来たな」
襖を開けた先の部屋で、縁側に座っていた義勇が振り向いて炭治郎たちを歓迎した。それはもう眩しいほどの笑みを向けて。
二人揃って眩し過ぎる。炭治郎は顔が赤くなっているのを自覚したが、ちらりと隣を見ると禰豆子も真っ赤になっていた。伊之助はホワホワと嬉しそうな匂いをさせていたし、善逸は義勇には微妙な顔をしつつも二人の顔を見て安堵したようだった。
「体調が悪いなら無理に来なくてもよかったんだが」
顔が真っ赤だと炭治郎と禰豆子の額に手を当てられた。右手は握力が入らないとは言っていたが、こうして当てるくらいならできるようだ。まあ、禰豆子はそれも照れていたし、善逸が歯軋りしながら離れてくださいと恨めしく叫んだが。
「大丈夫です! お二人が元気そうで嬉しくて」
嬉しいと真っ赤になるのかと首を傾げられたが、一先ず座るよう促された。しのぶが茶を淹れてくると言うので禰豆子は手伝おうとしたのだが、やんわり断られて大人しく座った。
修行中のあの二年は何だったのかと思うくらい朗らかだ。
隊士になってからも、義勇の表情が変わるところを見たのは数えるほどしかない。笑顔など笑顔といえるかどうか、ほんの少し口元が緩んだようなところを目にしたくらいだった。療養中、悲鳴嶼と出かけた先ではっきりと見たのが最初だったけれど、祝言の間は幸せそうな匂いを出していたが口元は引き締められていたわけで。
これが本来の義勇なのだ。
戦いが嫌いで、弟子の炭治郎に見せないようにしていた部分があった義勇の本来の表情だ。そして、しのぶがいるから引き出せた笑顔なのである。何だか感慨深くなってしまった。
しのぶも本当なら禰豆子のように沢山笑っていた普通の女の子だったのだろう。彼女の笑顔もまた心から笑っているものだった。
「お二人とも、よく笑うようになりましたね」
義勇が伊之助にせがまれ庭で手合わせしている最中、炭治郎はそれを眺めながら隣に座るしのぶへ言葉を口にした。
「私はあんな何を考えているのかわからないような顔はしてませんでしたよ」
「しのぶさんはよく怒ってましたし。お二人とも心から笑ってて、幸せな匂いが充満してるので」
「それは怒らせる人がいたからですけど。……本当、狡いですね炭治郎くんは」
少々引き攣った笑顔だったが、しのぶの口元は弧を描きながら炭治郎の鼻を摘んだ。
「あの鉄仮面の下が、この鼻で全部わかっちゃうんですから」
恐らく揶揄われているのだが、炭治郎はどうしても年上の女性相手では非常に照れてしまうのだ。美人であることや年上の女性に慣れていないこと、要因は色々とあるが、伊黒にも睨まれたしカナエには笑われた。鼻を摘まれたまま照れてしまうと非常に気まずい。真正面から顔を合わせているので、ばれていそうな気はするが。
「でも、細かい部分はわからないです。しのぶさんが気づくような心の機微とかは、俺よりきっと理解されてて、ちょっと羨ましかったです。俺にはずっと表情が変わらなかったですから」
「弟子でしたからね、威厳を保っておくには見せられないものが多かったんですよ。天然ドジっ子ですから」
今はそれなりにわかるけれど、修行中の炭治郎に義勇は天然ドジっ子などと伝えても絶対に信じられなかっただろう。それほど当時の義勇は張り詰めていたし、優しいこと以外は何もわからない、強さの底すら見えない人だった。
「錆兎さんにも笑うって聞いたことがあったので、昔を知ってる人は見慣れてるんだろうなあって思ってました」
「見慣れてるのは悲鳴嶼さんくらいじゃないでしょうか」
「そうなんですか。しのぶさんも慣れてますよね」
「……それはまあ、そうかもしれませんね」
わあ。
隣から漂う匂いは鼻を摘まれていても炭治郎へ香ってくる。
際限がないほどこれでもかとしのぶから漂う幸せの匂い。伊黒たちやカナエたちからも漂ってきたそれは、こちらも無意識に笑ってしまえるほどに優しいものだった。
*
「いらっしゃい、待ってたわ」
麗しいと評判だった蝶屋敷の主人は、玄弥が勝手知ったる元岩柱の屋敷の玄関から顔を出した。
以前にも増して美しいと、恐らく善逸ならば言っただろう。正直玄弥には妙齢の女性というだけで非常に狼狽える相手だが、隣の炭治郎もまた顔を赤らめていた。
祝言の儀を終えた二人は元岩柱の屋敷で生活を始めている。
どうやら蝶屋敷でひと悶着あったらしく、そのまま居座ろうとするカナエと悲鳴嶼を、常駐組だった面々が無理やり追い出したらしい。治療のことは任せてほしいと神崎が胸を叩き、せっかく新婚なのだから二人きりを楽しむようにも言われ、照れながらも言葉に甘えることにしたという。勿論カナエたちに頼りきらず蝶屋敷を切り盛りできるわけがないというのは神崎が言っていたし、月に何度か通いになっただけのことだ。だが満ち足りた笑顔をこれでもかと振り撒かれているし、それが大層幸せであることは間違いない。
本日玄弥が悲鳴嶼宅へと訪れたのは、彼らと食事を共にする予定が立てられたからだ。
師である悲鳴嶼とカナエへの祝儀は、元柱からすればはした金の額だったかもしれない。それでも玄弥は世話になった悲鳴嶼への気持ちを渡したくて何とか受け取ってもらった。どうやら炭治郎も気持ちが収まらないと言って無理やり渡していたらしい。
それを聞いた冨岡は、宇髄から飯を奢ってやれと助言をもらったと言い、たまたま居合わせたカナエが甘露寺からパンケーキの作り方を教わったから是非おいでと口にし、炭治郎も誘ってこうして屋敷に訪れたわけである。ちなみに奢りは結局次の機会に持ち越しとなった。
冨岡夫妻はまだ来ていないらしく、待つついでに悲鳴嶼とカナエの祝言の話題を炭治郎が取り上げた。
素晴らしい式だった、見ていてこちらも幸せな気分だった、今も幸せそうで嬉しい。鼻息荒く伝える炭治郎に、悲鳴嶼とカナエは照れて焦っていた。師が焦るところなどこうして夫婦の話を振った時くらいで、玄弥としては物珍しい気分である。
「あの時俺もびっくりしたなあ、冨岡さんが泣いてたし」
視界の隅で静かにはらはらと溢れた雫があまりにも透明に見えて、玄弥は思わず目を瞬いた。
涙が透明であることなど当たり前のことだと思っても、当時は本当に驚いたのだ。
隣にいるしのぶは目を潤ませていたが、冨岡が泣いていることに気づくと笑ってハンカチで彼の目元を拭っていた。それを見て仲が良いと思うと同時に、きっと嬉し涙だから透明に見えたのだろうと結論づけた。そんな話を口にすると、悲鳴嶼とカナエはただ嬉しそうに笑っていたが。
「カナエさんの涙も透明に見えたから、冨岡さんも嬉しいんだろうなって思ったんだよ」
「うん、そうだな。俺もそう思う」
「や、やだわ、色んな人に泣いてるの見られたの……」
頬を染めて恥ずかしがるカナエは強烈に可愛いが、玄弥は照れ隠しに冨岡が泣くとは思わなかったと口にした。
実際思っていたことだ。表情も空気も泰然自若を保っていた水柱だったのだから。
「あの子は昔はよく泣きよく笑う子だった」
悲鳴嶼が呟いた言葉に玄弥は炭治郎と顔を見合わせた。人に歴史ありということだろう。へえ、と相槌を打とうとした時、玄関から声が聞こえた。どうやら冨岡としのぶが着いたらしい。
「こんにちは。お待たせしてしまったみたいですね」
隊士の時より柔らかい笑みを向けたしのぶに照れつつ、冨岡から何やら差し出されるものがあった。炭治郎の手に無理やり握り込ませている。
「わあ、義勇さんまた、」
「金平糖だ、皆で食べろ。玄弥も」
「あ、ありがとうございます」
「ありがとね。綺麗!」
「すまないな」
カナエにも悲鳴嶼と二人分らしい金平糖を渡している冨岡を見て、あからさまに炭治郎がほっとしていた。只管に禰豆子が恐縮していると言っていたし、今日も冨岡からの高価な贈り物攻撃があると思ったのだろう。実際あったわけだが、手頃な土産のようなものなのでだいぶましなのではないかと思う。冨岡に心境の変化でもあったのだろうか。
「そういえば義勇さんと悲鳴嶼さんは昔同じ寺に住んでたって聞きました」
目的だったカナエ手作りのパンケーキはふわふわと柔らかく、甘露寺から分けてもらったという巣蜜をかけて食べると確かに美味しかった。
食べている途中、思い出したように炭治郎が話題を振った。咀嚼している冨岡は炭治郎を見つめたまま口を開かず、そういえば食べている間は話せないと悲鳴嶼も炭治郎も言っていたなと思い出し、妙な冨岡の情報が二人から玄弥に渡っていることが少しおかしかった。
「私が住んでいた寺にこの子の伯父が預けに来たんだ」
「へえ、子供の頃ですか。……義勇さん、どうしました?」
咀嚼しながら視線を宙に向け、どこか考える素振りを見せながら嚥下してから冨岡は口を開いた。
「いや。伯父……と、十年会ってないと思い出した」
一瞬何かを言い淀んだように見えたが、冨岡の顔色は変わっていない。
これが炭治郎なら匂いで察するものがあったのかもしれないが、玄弥には何もない。この顔をされると本当に何を考えているのかさっぱりわからないのである。
「……顔を見に行くか」
悲鳴嶼の言葉に冨岡が視線を向け、少しばかり眉尻が下がる。先程よりは表情が見えた。
「ついていってあげましょうか?」
しのぶが軽やかな声で紡いだ言葉で冨岡の目が瞬いた。その様子を悲鳴嶼とカナエは柔らかい表情で見守っていた。
「人手がいるなら俺も行きますよ!」
「何の人手だ」
「探すとか、色々です」
「………。頭突きはするなよ」
やがて冨岡もまた柔らかい笑みを炭治郎に向けた。
その瞬間玄弥は急に気づいた。どこか安堵したような笑みを見せた冨岡にも、水柱にまでのし上がったはずの彼にも、怖いことがあるのだとふいに感じたのだ。
鬼殺隊に所属する者たちの過去というのは、なかなか聞くのを躊躇してしまうものだ。一歩間違えればトラウマを引き起こしてしまいそうで、他人の過去にこちらから触れることは玄弥にはできなかった。
冨岡の伯父がどんな人か、詳しく聞く気にはなれなかったけれど。
きっと冨岡にも、自分と同じようにそういう過去があるのだろう。玄弥が感じた冨岡の人となりは、玄弥とそう変わらない普通の人だという印象も抱いたことがあったのだ。
だからこそ、しのぶや炭治郎のように支えようとしてくれる人がいることが冨岡にとって大事なことで、救いになるのだろうと思う。きっとそれは悲鳴嶼やカナエもずっと、皆そうだったのだろう。
「それはその人の言動によりますね」
「……んふふっ」
神妙な顔をして口にした炭治郎に冨岡はしばし無言を貫き、やがて小さく吹き出すように笑い声がしのぶから聞こえてきた。カナエもにこにこと二人を眺めており、悲鳴嶼はほろりと泣いている。玄弥は呆れるしかなかったが。
「………、………。そうか」
辛うじて絞り出したかのような一言が、ぼんやりと室内に響いた。またいざこざを起こすのかと呆れているのかと思ったら、俯いた冨岡の肩が震え始めた。どうやら笑っているらしい。
「相変わらずだな」
「竈門は上弦の弐との会話でも怒っていたからな……」
「悲鳴嶼さんも怒ってる匂いがしましたよ」
「ふふ、義勇くんと煉獄くんの代わりに倒した上弦の弐ですね。二人を馬鹿にされたから炭治郎くんが怒ったって聞いたわ」
「うん、私も内心はな。しかし馬鹿正直に叫ぶので不意打ちもできず。二つの意味で頭がかたいと義勇も言っていたな」
「煉獄さんにも師の柔軟さを見習えと言われました!」
「それ褒められてねえだろ。何で誇らしげなんだよ」
炭治郎の感性は時折おかしい気がするが、玄弥以外の面々はさほど気にしていないようで、その頭の堅さが炭治郎だと思っているようだった。笑い合うカナエとしのぶが眩しく、つい目を逸らしつつそういえばと話を変えた。
「悲鳴嶼さんと冨岡さんは兄弟弟子だとも聞いたな」
「えっ、そうなのか? 鱗滝さんのお弟子さんだったんですか?」
「ああ……いや、私は違う。義勇が半年ほど岩の呼吸の育手の元で修行していた時期があるからだな」
悲鳴嶼の答えに納得した炭治郎は成程と相槌を打った。
岩の呼吸といえば、悲鳴嶼や宇髄くらいの体格を持ち合わせた者でなければ会得できないといわれる呼吸法だ。悲鳴嶼と冨岡の鍛錬内容があまりに過酷なのもそこから来ているのかもしれない。
「義勇は岩の呼吸に向いていないと言われ、耀哉様が鱗滝殿を紹介してくださった。当時狭霧山には修行を始めた錆兎がいたんだったな」
「はい」
「私たちは義勇くんが隊士になったばかりの頃に知り合ったのよ。二人に助けてもらったの。鬼狩りになるために鱗滝先生を紹介してもらって、そこからずっと。私たちも知り合って十年経ったわね」
「そうだな」
「へええ。だから皆さんわかり合ってる感じなんですね」
確かに。悲鳴嶼たちは顔色の変わらない冨岡のことをよく理解していたようだし、冨岡もまた同様だったのだろう。気安い以上に信頼が目に見えるようだった。ちょっと羨ましいと笑う炭治郎に、玄弥も少し同意した。
「ふふ。炭治郎くんが匂いで気づいちゃうのは狡いと思ってたし、玄弥くんのことは羨ましかったのよ。誰がとは言わないけどね」
そんなふうに思われるのも何だか恐縮するような話だが、ひっそり冨岡と目を見合わせて小さく口を尖らせたしのぶが視界に映り、そう考えた一人は確実に彼女なのだろうなと理解した。そうなると玄弥を羨ましがったのは、恐らくはカナエなのだろう。
愛されてるなあ。
玄弥がつい照れてしまった時、隣の炭治郎は嬉しそうに笑っていた。