忘れられない恋の匂い

 戻ってきた義勇はしのぶを連れて部屋へ足を踏み入れた。
 怪我自体はすでにほぼ治っているのだが、リハビリや諸々の診察などにより、まだ大多数が蝶屋敷へと留まっている。悲鳴嶼と義勇もそのうちに入る。
 照れたような空気が二人から溢れていて、改まって言うのは少し恥ずかしかったのだろうが、一先ずこの先の生活についてどうするかを大まかに決めたのだと二人は報告してくれた。
 要するに、夫婦になるということを。
 悲鳴嶼の見えないはずの視界が朝日を浴びるよりも明るくなった気がした。めでたいと数珠を鳴らしながら泣いて拝んでいると、義勇たちの空気が少し戸惑いを混じらせてしまったが。
 よかった。望んでいたのは事実だが、少し前からぎこちない空気を発していた二人が纏まったのは何よりも嬉しい。そうか、あのぎこちなさはきっと意識してしまったが故のものだったかと悲鳴嶼は納得した。
「それだけ報告に来ました」
「……何も言わないのか」
 だが、言われると思っていたことを義勇もしのぶも口にはしなかった。つい問いかけてしまったが、義勇は少し困ったような気配を醸して小さく呟いた。
「一応、どうにかならないかと策を講じるつもりはありました。俺もしのぶもずっとカナエの気持ちを知ってたので思うところはあります。……でも、人の気持ちはその人のものです。不死川が言っていたように、言わない者にも相応の覚悟というものがあるでしょう。俺は悲鳴嶼さんにも自分の気持ちを大事にしてほしい。……カナエなら必ず、」
 受け入れなくても理解してくれる。受け入れられるなら幸せにしてくれる。悲鳴嶼が自分たちにそうしてきたように、悲鳴嶼が決めたことならば必ずわかってくれるという。
「……ずっと考えていた。私はお前たちが幸せなら、それを見届けられたら満足だった」
 彼岸へ連れていってくれる迎えすら来ていた死に損ないである。こうして生きているのはカナエとしのぶが珠世とともに痣の薬を作り出し、他ならぬカナエが悲鳴嶼にそれを投与してくれたからだ。カナエは気に病んでいるようだったが、悲鳴嶼は間違いなく感謝しているのである。
「カナエが望むなら、あの子のために残りの人生を生きてみるのも悪くない。そう思うようになった。せめて悲しませないよう、お互い長生きしよう」
「……はい」
「二人ともおめでとう。この時を待っていた。……義勇を頼む」
「はい。悲鳴嶼さんも、姉をよろしくお願いします」
 はっきりとしたしのぶの返事とともに、悲鳴嶼に託されたもの。しのぶが何より大事にしていたものだ。何故自分を任せる話になるのかと義勇が小さくぼやいたが。
 今まで苦労した分、皆には沢山の幸せを感じてほしいと思う。カナエが幸せを感じられるかどうかは悲鳴嶼にかかっているのだ。

*

 手が当たっただけで照れるのは正直初心過ぎないかと思わないでもないが。
 何があったのかなど聞かなくてもわかってしまうような態度の変わりようである。任務もあったのだから仕方ないとはいえ、微妙な距離感に収まっていたような気がしたが。まあ、めでたく夫婦になることを決めたのならよかった。悲鳴嶼からの返事も多大に含め、カナエは狂喜乱舞しているわけだし。
「何も反応しなかったこないだよりはましだけどよ。ガキの初恋じゃねえんだから……いや、ガキの初恋なのか。じゃあ仕方ねえなあ」
 互いに照れ合う義勇としのぶを見た宇髄は、疑問符を大量に浮かべてから錆兎に顔を向けて何があったのかを言外に問いかけてきた。何があったのかまでは聞いていないので錆兎は知らぬと首を振ったが、その後ろにいた煉獄などは嬉しそうにでかい声でおめでとうと叫んでいた。勝手に納得した宇髄は一人頷きながら、祝儀を出す先が大量だと嬉しい悲鳴を上げていた。
「まあ、そういうところを見たら聞かれるのも理解している。先生なんか縁談持ち込んでくるつもりだし」
 お前はどうなんだよ。一人あぶれて見えたのか、宇髄は錆兎に相手の有無を問いかけた。
 あるかないかでいえば錆兎にそのような相手はいない。縁があればあるかもしれないが、この先自分から求めていくことはない。適当に誤魔化して宇髄から離れ、代わりにそばに近寄ってきた義勇が錆兎へ目を向けた。
「忘れられない人がいると言えば諦めるだろうか」
「……そうなのか?」
「ああ。出会った時にはすでに死人だった」
 固まった。何も読めない表情が健在のまま義勇が固まっている。知らなくともおかしくはない。
「俺に仇討ちさせた張本人だ。言っただろう、最終選別で助けられたと」
 誰だったのかまで錆兎は言わなかったが、一人では勝てなかったと伝えていたのである。それはいつの間にか狭霧山からついてきて、錆兎の危機を教えてくれたのだ。
「名前しか知らんが、姉弟子なんだろう。じゃなきゃ俺たちが知らないはずがない」
 錆兎と義勇が現れる前に鱗滝の元で修行を積み、そしてあの手鬼に殺された。鱗滝のためにも必ず倒してほしかったのだろう。彼女はことあるごとに鱗滝が大好きだと言っていた。
「今度墓参りに行こう。炭治郎たちも連れて」
 全て終わったと報告すれば、満足して成仏してくれるかもしれない。そうしたら、どこかで再会できるかもしれない。
 まあ、それは今の世で叶うことはないのだろうが。
「お前の弟子は先生の弟子みたいなもんだし」
「……まあ、そうかもしれないが」
 禰豆子が人に戻る際は鱗滝に任せていたというし、もう二人を一門として認定しているだろう。鱗滝はそういう懐の深さを持っている。
「……名前は知ってるのか」
「ん? ああ、……知ってるよ」
 忘れたことは一度もない。あの墓場に並んだ石に刻まれた名前を見つけた時、錆兎は混乱とともに言いようのないやるせなさを感じたものだった。
「真菰といっていた。全く忘れられん」
 予想どおり義勇はその名を知らないらしく、小さく頷いてそうかと一言呟いた。
 夢でも見ていたのではないかと言われてもおかしくない内容だが、義勇は何一つ否定することはなかった。これなら義勇もいた時に出てきてくれればよかったものを、義勇が隊士となって山を降り、錆兎が岩を斬るために試行錯誤している時にひっそりを顔を出した。
「……錆兎は格好良いな」
 真菰の話をしていただけなのに、錆兎の何かが義勇の琴線に触れたらしい。昔からあるこの褒め癖は、最初こそ照れて憎まれ口を叩くこともあったが。
「格好良いのはお前だよ」
 自慢の友で、兄弟弟子で、憧れた剣士だ。義勇が錆兎を認めてくれているように、錆兎もまた義勇に羨望の目を向けていたのである。
 そんな自慢の兄弟弟子を、真菰とも会わせてやりたかったけれど。
 意外と照れ屋だったのかもしれないなあ。
 そこまで真菰を知ることができなかったことは残念だった。

 砂糖菓子みたいな匂いだ。
 伊黒と甘露寺から漂うのは恋の匂い。炭治郎が祝いの言葉をかけた時、伊黒はそれは大層複雑な顔をしていたが、隣にいた甘露寺が喜んだので特に何も言ってくることはなかった。
 添い遂げる殿方を探しに来たと、明け透けに甘露寺が言っていたのを思い出す。夢が叶ってよかったと炭治郎が言うと、甘露寺は言葉にできないほど美しい笑顔を見せてくれた。
 それに照れてしまったので、炭治郎は伊黒に追い払われてしまったのだが。
 追い払われて廊下を歩いていた時、炭治郎は縁側から庭へ出ようとするしのぶを見つけた。
 竹ざるを持っているから、庭の薬草を摘みでもするのだろうか。任務で怪我をして蝶屋敷で療養していた時、その姿を見たことがあった。
 しのぶ自身も片腕で大変だろうと思ったが、障子に隠れて炭治郎からは見えないところによく知る人の匂いがした。手伝おうかと喉まで出かかった問いかけを炭治郎は飲み込んだ。
 障子の先から見えた誰かの左手が差し伸べられて、しのぶが竹ざるを手渡した。
 その瞬間、砂糖菓子のような匂いが炭治郎の鼻に届き、しのぶの横顔があんまりにも柔らかくて、目が合っていないにも関わらず炭治郎は照れてしまった。
 甘露寺相手にもしてしまったのだ、これは恐らくカナエに会っても照れてしまうだろうことが予想できた。
 たった一瞬の横顔だけで、幸せそうなのが伝わってくる。
 ぼんやりと立ち止まった炭治郎は縁側を眺め続け、ふと二人から感じた匂いがあったことを思い出した。
 数日前のカナエから漂ってきた甘酸っぱい匂い。いつかの義勇としのぶからも香っていた。嗅いでいると切ない気分になるあの匂いは、カナエの想いが悲鳴嶼に届いた時、砂糖菓子のような匂いに変わっていた。
 もしかしてあれは、失恋の匂いだったのだろうか。
 皆上手く纏まったからあの切ない匂いは感じられなくなっているのかもしれない。
 そう考えると納得できた。きっと義勇としのぶは、自覚がない時から互いを好きだったのだろう。それが叶うとは、何て幸せな光景だろうか。
 ほろりと炭治郎の目から涙が落ちる。
 あの裁判の日、他人が自分のために命を懸けてくれたと知った時から、めっきり涙脆くなったように思う。嬉しくて泣くのは鬼殺隊に入ってからが初めてだった。
 そして、切ない匂いを醸す人がもう一人いたことを思い出した。
 話の流れから想像できたのは、恐らく彼の想い人には相手がいるということだ。
 好きな人に好きな人がいると、誰かは必ず想いを遂げられない。それも生きているからこそなのだと思えるのは、あの甘酸っぱい匂いを微かに漂わせていた彼が満足そうに見えたからだ。
「……炭治郎?」
 庭から覗き込んだ義勇が声をかけてきた。
 泣いている炭治郎を気にかけてくれたらしく、痛むのかと問いかけられた。
「いえ。……幸せだなあって思って。生きてこうして、皆が満足そうにしてるのが凄く嬉しいです」
 笑みを向けてそう口にすると、義勇は少し黙り込んでから小さく息を吐いた。
「お前はいつも人のことばかりだな」
「義勇さんほどじゃないですよ」
 文字どおり命を懸けてくれた義勇に言われても困るのだ。そう伝えると義勇は眉を顰めて炭治郎をじとりと見つめた。
「俺は皆が嬉しいならそれで満足です」
「少しくらい自分にもそれを向けろ」
「禰豆子がいて充分幸せなので!」
 はあ、と溜息を吐かれてしまったが、炭治郎の思うことはそれだけなのである。