変わるもの
「いやあ、めでてえ話だ。伊黒と甘露寺の祝言が決まるとはなあ」
「完全に死ぬ気でいたから起きた時相当狼狽えたんだとよォ」
「いやしかし、よかった! あの二人が纏まるのは俺も喜ばしい!」
「あいつらはあいつらでばれてねえと思ってたみたいだからな。知らぬは己ばかりなりってなぁ……っと、んん?」
三人並んで縁側で茶をしばいていた時のことだ。
伊黒と甘露寺の祝言の日取りが決まったと報告を受け、産屋敷家筆頭に喜んでいて、祝いをどうするかなど話していた。ちょうど庭を通りかかった冨岡と胡蝶の様子に宇髄ははてと首を傾げた。
少し前までぎこちない様子だったが、元に戻ったのだろうか。いや、元に戻ったにしては、見たことのない表情を冨岡が浮かべていた。
洗濯でも手伝っていたのか、冨岡が桶を抱えたまま胡蝶と談笑している。胡蝶の顔は見えないが、こちら側に向いている冨岡の表情はよく見えた。
まるで胡蝶カナエかとでも言いたくなるような、好意が漏れ出ているような柔らかい笑み。
笑顔というものが冨岡の顔に乗るところを終ぞ見てこなかった宇髄たちには、もはや未知のものを目にしたかの如く固まってしまった。
「いやっ……あれ……冨岡かァ?」
「仲が良いな。普段より?」
「もしかして、……纏まったか?」
何と。叫ぼうとした煉獄を無視して宇髄は瞬足で冨岡たちのそばに寄り、腕を掴んで縁側へと引っ張った。驚いた顔が四つ宇髄を見つめ、誰も反応できていないことに何故か多少優越を感じていた。
「ちょっと借りるぜ胡蝶!」
「ちょ、これから研究の手伝いを、」
「錆兎使え錆兎!」
ちらりと胡蝶へ目を向けると、唖然とした後むくれて眉を吊り上げていた。なかなかにわかりやすく派手な面をしていやがる、と宇髄は口笛を吹きたくなった。
愛されてんねえ。
自覚はしたのだろうとは思うけれど、冨岡は先程の柔らかい笑みが嘘のように何も読めない表情に戻っていた。何なんだとむしろ不満げに眉を顰められてしまった。
「いやお前、胡蝶と何かあっただろ?」
「何か? 特には……話をしたくらいだ」
嘘だろこいつ、何もなくてあの笑顔を出したのか。
また天然発揮したのかこいつは。
長い付き合いになる宇髄すらごくたまに目にして少々複雑な気分になる冨岡の天然ぶり。まさか女絡みでも出すとは驚きだ。まあ、それはともかく。
「何かしばらくぎこちなかったもんなあ」
「ああ。一緒にいたいと言ったらあいつも頷いたから、」
「え? いやちょっと待てェ」
「え!? それこんな軽い感じで言ったり聞いたりしていいやつ!?」
あまりに軽い報告に不死川が止め、宇髄は思わず疑問を投げつけた。煉獄はもはや反応できていない。
報告が義務かといえばそれは違うが、やはり同僚の行く末くらいは皆心配する。黙られているのも癪だが、世間話のように話されると反応に困る。
「何か駄目なのか。ぐっ、」
「何余計なこと言ってるんですか」
背中を胡蝶に突かれて冨岡が唸ったらしい。油断もしていただろうし痛そうだ。むすりとした顔が胡蝶を睨んだ。冨岡の表情がころころ変わるようになっているのに妙な感動を覚えてしまった。
「話は終わりですよ。青い彼岸花の研究に付き合うって言ったんですから」
「え? おいまさか、研究のために一緒にいるって意味じゃねえだろうな」
「……んなわけねェ、と言い切れねェ」
「………、おめでとう!」
反応が遅れた煉獄のこれでもかという大声に、腕を引っ張って連れて行こうとした胡蝶と連れられる冨岡の肩がびくりと震えた。恐らく何かめでたいことがあったと蝶屋敷全体にもう知れ渡っただろう。渾身の力で叫んだ煉獄の空気がびりびりと音を伝え、慌てて口を押さえても後の祭りだ。まあ、理由までは他の奴らは知らないのでしばらくは大丈夫だが。
「俺たちよりまず悲鳴嶼さんだ。あの人がカナエをどう思ってるのか、研究ついでに確認しておくつもりだった」
何だよ、やっぱり纏まっているではないか。
胡蝶と二人でどう応援するかとでも考えるつもりだったか。
不死川をちらちらと気にしながらも、冨岡は頭を押さえつつ仕方なく吐いた。どうやら不死川の気持ちを胡蝶は知らないらしい。妹に知られていても気まず過ぎるだろうが。しかし、まさかそれでさっきの雑な反応だったのだろうか。あれは素にしか思えないが、まあいい。
不死川に関してはあの後色々と聞き出していたので、冨岡の気遣いも要らぬものとして奴は考えているだろう。
不死川はカナエに想いを伝えるつもりはない上、悲鳴嶼と一緒になることを望んでいると言った。強がりも本音もあるだろうが、とにかくもう気遣うなとお怒りだったのだ。なので宇髄はもう気にするつもりはないが、冨岡は気になってしまうのだろう。
「悲鳴嶼さんが率先して見守りたがるからなあ。自分のことになるとポンコツだし。あれだけやっても何も思わないとしたら、正直胡蝶の姉じゃ駄目なんじゃ」
「刺されたいんですか?」
怖。
客観的な意見を言っただけなのに、胡蝶は宇髄を思いきり睨みつけた。
「そもそもあの人元々僧侶だろ? 結婚とか考えたことなさそうだからなあ」
結婚できるよう国が決めたとはいえ、するかどうかは本人次第なところがある。まあそれは全員そうなのだが、悲鳴嶼は自分のことなど後回しにする傾向がある。
「ああ、お前らが纏まったって知れば変わるかもな」
悲鳴嶼はずっと冨岡なり胡蝶姉妹なりと気にかけていたし、何ならそこから見守ろうとする素振りを見せるようになった。それならこいつらが報告すれば反応も変わるのではなかろうか。
「行ってこいよ、報告」
「いや……別に、今までと変わらん」
「おいおい……」
照れているというより、本当に変わらないと思っているような顔をしている。何なら胡蝶もそんな様子だ。心が通えば浮かれるのが普通の感性ではないのかと思うが、そうではないのだろうか。
「祝言の日取りは決めるべきだ」
ようやく口を開いた煉獄は、戦友の晴れ姿を見たい気持ちが大きいのだろう。宇髄も思っていたことをはっきりと口にしたので、ついでに便乗することにした。
「せっかく平和な世の中なんだぜ。浮かれたっていいだろ」
「祝儀くらい弾んでやるよォ」
ちらりとどちらともなく目を合わせた。冨岡は変わらないが、何やら胡蝶の表情があまり優れない。
ああ、そうか。何か思うところがあるのか。鬼殺隊などというものに所属する隊士は大抵鬼に家族を殺されている者が多いのだ。
「……仕方ないですねえ。少し考えます。悲鳴嶼さんに言うまでは変に騒がないでくださいよ」
「承知した!」
「ばれてねえといいなあ」
揃って離れた冨岡と胡蝶を見送って、宇髄は小さく息を吐いた。
「祝言とか夫婦とか、嫌な思い出でもあるから乗り気じゃねえのかもな」
「うむ。悪いことをした」
「……まァ、一人じゃねェんだし大丈夫じゃねェの」
その割に悲鳴嶼のことは気にするのが何なのかと言いたくなるが、とにかくあいつらも色々と考えてもらわなければならない。
せっかく生きてそういう仲になったのだから、宇髄としても祝いたいのである。それがたとえ夫婦という形にならなくとも。
変わらない。そう、変わらないのだ。
どうせ昔から一緒にいるのだ。そばにいると明言してから一緒にいても何も変わらない。まあ、触れたいと言われてしまったわけなので、その辺りは少し変わるのかもしれないけれど。
一緒に生活さえできるのなら、夫婦なんて形式にならなくてもいい。そう義勇もしのぶも思っているのだ。
しのぶは街中にいるような愛らしい乙女ではない。素敵な殿方との結婚に憧れるような感性を持っていないのだ。駄目なところは沢山あれど、結果的に素敵な殿方と一緒になるだろうがと言われたとしたら、何も言い返すことはできないが。
とにかく、しのぶは祝言に夢を見るような女ではなかった。同じ屋根の下で、義勇がいて、日々を慎ましく生きていけるならそれでいい。教えてくれた姉の最期がトラウマになっているのなら、無理をして挙げることはしなくていい。むしろしのぶがやらないと言い出したわけである。
祝言の前日に鬼に襲われ、弟を庇って死んだ姉。
惨い最期だっただろう。義勇は相変わらずの能面で話してくれたが、その目にずっと鬼に喰われる姉の姿がこびりついて離れないのだろうと思う。しのぶだって両親の最期は思い出したくなくてもふいに浮かんでくることがあった。
それをどうすれば乗り越えられるのかなど、他人がどうこういえるものではない。
しのぶが手を引くことで生きやすく感じてくれればいいとは思うけれど。
「……甘露寺は祝言が夢だと騒いでたが」
「この間も言いましたけど、私はそこに興味はありませんよ。祝言なんて、無理して挙げなくても」
何に興味を持つのかは人による。甘露寺は素敵な殿方と添い遂げることを夢見ていただけで、それが現実になるだけだ。
しのぶはそもそも結婚というものを自分がするなどと考えてもいなかった。悪鬼滅殺を果たし生き残った結果、死ぬまでの間やれることをしようと考えた結果ではないだろうか。義勇と生活することを目標としていたわけではなかった。
だから、しのぶは祝言自体に興味はない。それは間違いないのである。
「煉獄の言うこともわかる。けじめをつけるべきところはつけたほうがいい。伊黒たちを祝いたい気持ちと同じなら俺にもある」
「それはそうなんですけど……そんなこと言ったら、祝いたい人が盛大な式を計画してしまいますよ」
「お前が一緒だから大丈夫だ」
騒がしいことも本来さほど好きではなかっただろうに。そう考えたしのぶの耳に義勇の静かな声が届いた。この返事は盛大な式に対してのものではなかったが。
「悲鳴嶼さんも錆兎もカナエもいる。先生も、炭治郎も」
「………、……ふふっ。そうですねえ。鬼が出たって倒してやればいいんですから。そう簡単には殺されませんよ。いくらでも倒して差し上げます」
「頼りになるな」
十年前の義勇は姉を助けられなかったかもしれないが、今の義勇は鬼舞辻無惨を倒した柱の一人なのである。祝言を挙げた時、見守ってくれる者の筆頭は悲鳴嶼だろうし、何よりしのぶ自身に抗う術がある。殺す術も持っているのだ。
ああ、確かに、大丈夫かもしれない。
「気を遣わせた。……ありがとう」
義勇の口元が緩く弧を描き、左手がしのぶへと伸ばされた。すり、と緩く頬に触れ、指が耳に当たってしのぶはぴくりと反応してしまった。
心臓がうるさい。急に触られると半端なく恥ずかしい。いや宣言されてから触れられるのも恐らく恥ずかしいとは思うが。口角に義勇の親指が当たった。
触るなと言ったことは撤回してはいるが、これは。
――今までと変わらん。
義勇にとっては変わらないかもしれないが、しのぶはそうはいかなかった。自分自身を誤魔化すために心中ですら意地を張っていただけである。
好きだと自覚している義勇に触れられて、今までと同じなわけがない。拒絶したのもこの想いのせいだというのに。
恥ずかしい、どきどきする、くらくらする。昔のように頬を触られただけなのに。もしかして触れ方が違うのか、それともしのぶの感じ方が違うのか。少し考えればわかったかもしれないが、今のしのぶは余裕が全くなかった。
「……違う」
小さく呟いた声にしのぶは伏せていた目を義勇へ向けた。目の前の義勇の頬は薄っすらと赤く、しのぶを困ったように見つめていて、やがて眉をハの字にして笑みを向けた。
「全然違うな」
「何がです」
「……今までと変わらないと思ったが……」
頬から手を離して抱き寄せられ、う、としのぶは小さく声を漏らして義勇の胸へと収まった。容赦がない。あまりの恥ずかしさに無心になろうと深呼吸をした時、耳に当たる胸から心臓の音が聞こえてきた。早鐘を打つ義勇の心臓の音が。
「緊張して吐きそうだ」
しのぶの頭に重みを感じる。緊張するなどと言っておいて、頬を擦り寄せてきたのだろうと見なくてもわかった。見てしまったらそれこそ叫んでしまいそうなほど刺激が強いけれど。
今までどおりだなんて、無理に決まっている。それを義勇もきちんと自覚してくれたようで、しのぶも嬉しくはあるのだが。
「……私も、落ち着きません」
こんなのが毎日続くとなったら、心臓が持たない。いつか慣れると思うけれど、そのいつかがいつになるのかわからなかった。常中も忘れるほど緊張してしまっていた。
「すまん」
「あ、……もう少し」
とはいえ、離れるのは少々寂しい。つい声を発したしのぶは口元を覆ったが、視界に入った義勇が目を丸くした後、あんまり嬉しそうに笑うので、しのぶの口元も自然と笑みを漏らしていた。