昇華
暇ならついてこいと無理やり腕を掴んだ伊之助は、小さく一つ息を吐いた炭治郎の師が己を振り払わないことに内心満足気に頷いた。
炭治郎は蝶屋敷内でリハビリとやらに励んでおり、善逸は禰豆子についてまわって見向きもしなかった。一人縁側でぼんやりしていた冨岡を見つけ、伊之助は奴の腕を掴んだままずんずんと歩き出した。
「猪頭はどうした」
「カナエが母親似なんだろうって言ったから、俺の顔知ってる奴がいねえか探しに行ってんだ」
どこかで会ったことがあるはずだとカナエに問いかけた時、カナエは小さく笑って首を横に振った。伊之助の話を聞き終えたカナエは、母親の記憶が残っているのだろうと教えてくれた。
――大事にされていた記憶があるのね。
そうカナエが言ったから、今まで興味すらなかった母親というものを探してみようという気になったのだ。
かといって自分の生まれ故郷など知る由もない伊之助は、顔だけは恐ろしいほどに愛らしいと宣った善逸を殴りつつ、この顔に覚えのある者がいないかどうかを探るくらいしか思いつかなかったのである。
「けどこの辺は全然いねえ。禰豆子と街にも行ったけど変な野郎に声かけられるだけだったし」
「……成程。生活してた近辺はどうだ」
「山に人は滅多に来ねえ」
幼少の頃に降りた場所にも行ってみたが、そこにもこの顔を知っている者はいなかった。
顎に手を当てて少し考え込んだ冨岡に、伊之助は早くしろと急かした。見つからないのは仕方ないが、気が済むまでは探してみたいのである。大事にしていたというのなら、何故伊之助は母親がそばにいなかったのか。その理由を知りたいのだ。
「すでに目ぼしいところはまわってるのか。なら日を改めて遠出するのはどうだ。汽車にでも乗って離れた地に、」
「汽車ってあの土地の主! どっちが速えか競争できてねえ!」
「いや、乗り物だが。暴れないなら乗せてやる」
「暴れねえ!」
どこか呆れられたようにも見えたけれど、伊之助の頭を乱雑に撫でて了承の意を口にした冨岡が柔らかい空気を発したので、伊之助は食い下がることはしなかった。
探し物はこの顔だ。近場では見つからなかったと言えば、冨岡は伊之助を連れてどこか遠くの地で探してみることを提案した。わざわざ外出許可を得て、誰にも文句を言わせないようにして。
母親を探して汽車に乗るのは今回で二度目だ。一度目は下車した場所でもやはり伊之助の顔に見覚えのある者はいなかったけれど、今回は人探しよりもまず初めて見る海というものに目を奪われた。脱ぐなと言われていた着物を勢い良く脱いで夢中になって泳ぎ、気が済んだ伊之助がぼんやり眺めていた冨岡の近くで着替えを済ませた時、見知らぬ親爺に声をかけられた。
「琴葉さん……? 生きてたのか!」
上手くいったと喜ぶのも後回しにして、伊之助の思惑に引っかかった男を眺めた。驚いたように伊之助へ近寄ってくる冨岡より年嵩の男。恐らくは悲鳴嶼より更に年上だろう。どちらかといえばあの男、煉獄の父親ほどの歳の頃に近い。
「おい、おっさん! そのコトハってのはこの顔の奴かよ!?」
「ひえっ! こ、琴葉さんじゃない!」
「よせ嘴平、掴みかかるな!」
せっかく得た手掛かりを離すまいと胸ぐらを掴むと、怯えた親爺を庇うように冨岡は伊之助を窘めた。こういう時は礼儀を尽くすのが当然なのだと言い聞かせ、むすりとした伊之助の肩を叩いた。
「すみません、驚かせてしまい。そのコトハという方の話をお聞きしたいのですが」
「……嘴平……。その子の名前は……」
「俺か? 俺は嘴平伊之助だ」
「………、そうか……きみは……。生きてたのか……」
あきらかに何かを知っていると伊之助でもわかる親爺の様子に、冨岡も少々戸惑ったようだ。ちらりと伊之助へ目を向けたので、暴れないから知っていることを吐かせようと提案すると、溜息を吐いてから冨岡はその親爺に時間を作ってほしいと頼んだ。
「お恥ずかしい話、私はある宗教に入れ込んでいて、施設で琴葉さんを見かけました。十五年近く前でしたか」
親爺自身も来たばかりの頃、娘が赤子を抱いて施設に駆け込んできて、教祖は母子に信者と同様の待遇を与えた。
琴葉は嫁いだ先の夫と姑から暴力を受けていて、子を殺されそうになり教団まで逃げてきたのだと聞いた。顔の腫れが治まると、それは美しい娘だったという。
「早い話が一目惚れです。でもしばらくすると彼女は教団から去りました。追いかけたけど私には足取りを掴めず、彼女は子供諸共夫と姑に連れ戻されたのだろうと噂になったんですが。……忘れられなかったんです。だから四、五年ほど前まで入信してたんですが……」
ある日を境に教祖は姿を見せなくなり、施設は今別の者が教祖に成り代わっているという。それから親爺は教団を抜けたらしい。
美しい虹色の目を持ち、白橡色の髪、穏やかな笑み。柔らかな声で信者の不安や恐怖を取り除いてくれる教祖だったと親爺は言った。何年経っても姿形が変わらない、神に愛された者。
「童磨様がお戻りになれば、また入信させてほしいと頼んで、琴葉さんの行方もあの方ならわかるかと思って……」
「―――、」
冨岡の気配がぞわりと粟立った。
琴葉とやらの足取りは結局この親爺は知らない。だが有益な情報を知ったのではないだろうか。伊之助はそう感じたのに、冨岡の気配は何故か緊張していた。
「……その、宗教の名は? 施設はどこに?」
「ああ、ええと……名前は万世極楽教です。場所は……」
言い淀んだ親爺に伊之助はただ母親の動向を知りたいだけだと告げると少し考え込んだ後、その施設の場所を口にした。
「おい、何であんなピリピリしてたんだよ?」
「……童磨という名に心当たりがある」
親爺が口にした教祖の名前だったか。冨岡が知っているということは、伊之助の母親とももしかして会ったことがあったのかもしれない。どういうことかと問い詰めると、冨岡は胡乱げに口を開いた。
「四年前、悲鳴嶼さんとカナエ、錆兎が倒した上弦の弐の名前だ。そいつとの戦闘でカナエと錆兎は隊士を辞めた」
「………!」
「……対話を求めたと、言ってたはず……。詳しく聞きたいならカナエにも聞け。あいつは鬼とも話をしたがったから、何か聞いたかもしれん」
手掛かりは、伊之助の身近にあったのだ。
鬼が伊之助の母親のことなど話をするとは思えない。だがあの親爺が言った教祖が本当に冨岡の言う鬼だったならば、母親はその鬼に喰われただろうことは想像できた。
「四年前の上弦の弐、童磨と会話をしたか覚えてるか」
伊之助と冨岡が着の身着のまま慌ただしくカナエのいる診察室に顔を出した時、ちょうど診察を受けていた悲鳴嶼が部屋にいた。
冨岡が小さく謝ると悲鳴嶼は気にしていないと首を振るのを視界に入れつつ、伊之助はそこいらにある丸椅子を動かしてカナエのそばに陣取った。そして先程の質問を冨岡が口にした。
「嘴平の母親がその童磨と一時共にいた可能性がある」
「……見つかったわけではないのか」
「あのおっさんの話じゃ、……たぶんもう死んでる」
口元を押さえて眉を顰めたカナエは、立ったままの冨岡に椅子を勧めつつ少し黙り込んだ。
悲鳴嶼はどうやら冨岡と伊之助が遠出する理由を知っていたらしい。じっとカナエを眺めているとやがて顔を上げ口を開いた。
「あまり話はできなかったわ。童磨は結局人を喰い物としてしか見ていなかったし」
仲良くなれる鬼を探してカナエは対話を求めていたらしい。だがカナエが隊士だった間、そんな鬼は一体も見つからなかったという。
机の引き出しを何やら探り、帳面を取り出して紙を捲り始め、目的らしき場所で頁は止まった。どうやら当時のことを書き溜めたものらしく、指で文字をなぞり始めた。
「人を喰わずにそばに置こうとしたことはあったようだけど、従順な人間でなければ殺してしまうわ。……ええと、コトハと言ってたわね。童磨が喰わずにそばにいさせるつもりだった人」
「琴葉だと?」
伊之助と冨岡が同時にカナエににじり寄ったことで驚いたのか、カナエは目を丸くしつつも頷いた。悲鳴嶼は静かに様子を見ている。
「その顛末は言ってたか」
「喰うつもりはなかったと言ってたわ。……自分以外は放っとけばいいのにって……恐らく、その琴葉さんは誰かが喰われてるのを見て逃げ出したんじゃないかしら。伊之助くんを守るために」
逃げる途中で童磨に見つかり、あえなく琴葉は殺された。伊之助がその教団に関わらず生きているのは、琴葉が逃がそうとして逃げ果せたからではないかという。
「きっと、あなたを捨てるつもりなんて微塵もなかった。殺されないよう身を挺して守ったのね」
カナエの手が伊之助の手の甲に触れる。力強く握られた手が、まるで記憶の中にいる母の手のように思えたけれど、これは別人の手だ。
伊之助の母はもういないのである。
ただ今までと違うことは、伊之助を捨てたわけではないと考えられることだった。
「母ちゃん……」
小さく呟いた言葉は、伊之助の胸にも染み込んでいくようだった。
「玉ジャリジャリ親父。借りたからこいつは返すぜ」
「おい、この部屋のどこに親父がいるというんだ。悲鳴嶼さんはまだ二十七だぞ」
借りたとは義勇のことか。
教団施設を調べに行かなくていいのかと義勇が問うた時、嘴平ははっきりと不要を示した。
知りたいことは聞いたからと、充分納得がいっているのだという。
そうして丸椅子から立ち上がり、診察室から出ていこうとした嘴平が悲鳴嶼に向かって口にしたことに義勇は憤慨して首根っこを掴んだ。
子供に何と呼ばれようと悲鳴嶼は気にしないのだが。恐がられるよりは気安いほうがいい。
「うるせー! 俺より年上なら親父だろが!」
「なら俺のことも親父と呼べ」
「親父っぽくねえから無理だな!」
「止しなさい、義勇」
カナエはおかしそうに笑っているし、別に咎めるほどのことでもないのだろうが、年下の子供と言い争う義勇というのも非常に新鮮ではあるものの、如何せん大人気ない。戦闘時以外に声を荒げることなどないに等しく、人と言い合うようなことも滅多となかったと懐かしく思い出す。
「へっ。俺は今すこぶる機嫌が良いんだ。母ちゃんの足取りがわかったからなあ! 謝意を述べるぜ、ギ……、義勇! おっさんも炭治郎も呼んでるからな、俺も呼んでやるよ! じゃあな!」
「おい、悲鳴嶼さんの名前もちゃんと呼べ!」
「悲鳴嶼さんの名前は確かに呼ばせないといけないと思うけど。今日くらい許してあげたら? 伊之助くん本当に嬉しそうだし」
「ふむ。義勇を呼び捨ては竈門が怒りそうだな」
「……俺のことは何でもいいです」
自分のことより人のこと。相変わらずである義勇に悲鳴嶼は小さく笑った。カナエもほっとしたように笑みを見せていた。
思わぬところで嘴平の肉親の話が出たが、満足のいく形になったのならよかった。義勇も安堵したような顔をしていた。
「……沙代のところに行きませんか」
診察室を出て病室に戻った悲鳴嶼は、車椅子を押してくれていた義勇から思わぬ提案を受けた。
沙代は十年前寺にいた幼い子供だ。あの時のことなど覚えてもいないだろう。悲鳴嶼と義勇のことすら忘れているかもしれない。
「ただ終わったことだけ、伝えに行きませんか」
忘れていたら、昔一緒に住んでいたことを伝えて、少しだけ様子を見る。鬼のことを知らないならば、その話はしなくてもいい。
悲鳴嶼が二の足を踏んだせいで獪岳は取り返しのつかないことになった。嘴平は母親を探しに行って満足のいく気分になったようだ。悲鳴嶼もまた、一歩踏み出すべきなのだろう。
「……そうだな。そうしようか」
「はい」
*
「あれ悲鳴嶼さんと冨岡さんじゃない?」
炭治郎のリハビリついでに世話になった藤の家紋の家に挨拶まわりをしていた時、ある一軒の家の前で義勇と悲鳴嶼を見かけた。彼らも炭治郎たちのように一軒一軒まわっているのだろうか。
「あの二人ずっと仲良いなあ」
「……何か、同じ寺で生活してたことあるらしいよ。たまたま聞いたけど」
そうなのか。
信頼し合っていることはわかっていたが、成程。
経歴のようなものを炭治郎はまだ聞けていなかったが、そういえば善逸は二人に呼び出されていた時があった。その時に聞いたのだろうか。
「義勇さん、右手の握力入らないって言ってたけど、ここまで車椅子押してきたのかな。戻る時手伝おうか」
「お前も左手使えないじゃん。いや手伝うけどね」
「俺が押してやる!」
「ありがとう善逸、伊之助」
近寄ろうと足を向けた時、義勇と悲鳴嶼の前に女の子が現れ思わず三人揃って木の影に隠れてしまった。
誰だろう。悲鳴嶼に泣いて抱き着いて、その様子に義勇も優しい目を向けている。
女の子から凄く安心した匂いと懐かしい匂いが漂ってくる。善逸も聞こえたのか、昔の知り合いではないかと一つ仮定を口にした。
「何をしてる」
その場で少し立ち話をし、女の子が裾を引っ張るのを控えめに制止した悲鳴嶼が首を振り、俯いた女の子の頭を撫でて二人は手を振り続ける彼女と別れた。いい加減覗き見するのも失礼だしそっとばれないように帰るつもりだったのだが、やっぱり二人にはばれていたらしい。
「いや……はは、ちょうど見かけたので……覗き見するつもりはなかったんですけど、ばれてましたか」
「ばれないと思ったのかあれで」
「う。邪魔したらまずいかと」
「いや、構わない。鬼殺隊に入る前の知り合いに会いに来ただけだからな……」
呆れた義勇の目が向けられたが、怒っているわけではないようだ。悲鳴嶼も特に気にした様子もない。どうやらそんなことより喜びのほうが大きいようだった。
「車椅子、手伝おうかと思って。伊之助が押すと怖いかもしれませんけど」
「そうか、助かる。義勇はまだ力加減が難しいようだから」
「山の神が押してやるぜ! 義勇には荷が重いみてえだからな!」
「え? 何で伊之助が義勇さんを呼び捨てにしてるんだ。ちょっ、伊之助ー! 車輪が溝に!」
「お前ね、もういいよ俺が押すよ!」
伊之助の運転は蛇行して道の端の溝に思いきり車椅子が突っ込み、あんまりにも酷い運転に善逸が青褪めながら持ち手を分捕った。何ともいえない顔をした悲鳴嶼が善逸に殴りかかる伊之助を止めつつ困っている。ふいに空気が揺れて楽しげな匂いが鼻に届いた。
「お前たちは騒がしいな」
笑った。
ほんの少しだけ口角が上がったような控えめ過ぎる笑みではなく、炭治郎たちに目を向けて義勇がはっきりと笑った。
それに気づいたらしい悲鳴嶼も満ち足りたような笑みを見せた。
嬉しそうで楽しそうで、なのにどこか少しだけ寂しそうな匂いが義勇から漂ってくる。先程の女の子と関係があるのか、それとも他に何かあったのか。きっと義勇は何も教えてはくれないのだろうが、表情をはっきりと見せてくれたのは随分な変化だった。今まで義勇は弟子である炭治郎には、どうやらあまり冷静なところ以外は見せないようにしていたらしいので。
「俺はまだ許してませんから」
義勇の肩がぴくりと反応した。
善逸は非常に忌々しげに顔を歪めていて、義勇は少し眉根を寄せて善逸を見た。寂しげだった匂いが霧散していた。
「許すも何も、誤解だ」
「でも俺の妻の手を握ってたのは事実なので」
「誰が妻だって?」
「……ああ、義勇が禰豆子に結婚を迫っていたとかいうあれか」
その場にいなかった悲鳴嶼にも噂によって耳に入っていたらしい。困らせるためとはいえ、結婚を迫っていたのは実は禰豆子のほうだったのだが、噂は色々と歪曲して広まっているようだった。
「ふむ。私としては義勇が一緒になりたい者と幸せになってほしい。その相手が禰豆子ならば応援はするが」
「えーっ! そんなの俺に勝ち目なくなるじゃん!」
「本当に禰豆子なのか?」
茶化すでも揶揄うでもなく、悲鳴嶼はただ事実を確認するように義勇へと冷静に問いかけた。歯軋りし始めた善逸が睨みつけているが、これまた冷静になった義勇には効きもしないらしい。
ただ悲鳴嶼の言葉を聞いて立ち止まりじっと顔を見て、やがて義勇はふと口角を上げて笑みを見せた。
「……どうでしょう」
まるで悪戯でも仕掛けてきた子供のような顔をした義勇が、今度ははっきりと破顔して笑った。あんまり驚いた炭治郎は何も言えなくなってしまったが、悲鳴嶼は少し黙り込んだ後、小さくそうかと呟いた。
「誤解だって言ったのに!」
「ははは」
声を上げて笑ったところも初めてだった。善逸の怒りすら受け止めるのが楽しいとでも思っているのかと思うくらいに機嫌が良い。
悪鬼滅殺を果たしてから、こうして誰かと散歩ついでに普通の会話をするのが楽しいのだろう。そういう匂いが漂ってきていた。