禰豆子の恩返し

「あ、よかった冨岡さん。起きてらしたんですね」
 兄と違いどこか余所余所しいのは鬼の間の記憶がはっきりとしないからだという。まあ、兄がああなのですぐに禰豆子も距離が近くなるのだろうとは思っている。正直鬼だった頃はしがみつかれたり膝に乗ってきたりと色々幼子のように振る舞っていたので、むしろ義勇のほうが寂しく感じるくらいだった。
「すみません、勝手に触ってしまって。大事な物だって聞いて、直せるかと思って繕ってたんですけど」
 差し出されたのはずっと纏っていた色。女物の葡萄色えびいろの羽織が綺麗に畳まれた状態だった。
 思考が止まった義勇はそれをベッドの上で広げた。
 あの死闘でもう直しようもない状態だったと思ったから、目が覚めて手元にないと気づいた時、もう戻っては来ないのだと諦めたものだった。今まで着ていたままの状態で義勇の目の前に現れたのは、たった一人の姉の形見である羽織だ。
「えっと……おかしなところがありますか?」
 あまりに突然戻ってきて、義勇はしばらく固まった。問いかけに無意識に腕を伸ばし、ただ一言だけ呟いて禰豆子を抱き締めた。
「へっ、」
「ありがとう」
「あ、は、はいっ!」
「ありがとう……」
 義勇が纏っていた頃よりも、姉が着ていた頃を思い出させてそれ以外に言えなくなってしまったのだ。本当ならもっと伝えなければならないことや、禰豆子を褒めることも必要だったのだろうに、義勇は全く口から出てこなかった。
「……はい」
 義勇が体を離すと禰豆子は少々焦ったような顔をしていた。鬼だった頃は義勇が戸惑っても容赦なくくっついてきていたが、やはり元に戻ると反応も違うようだった。年頃の娘に悪いことをした。
「望みを言ってくれ。何でもする」
 できることは少ないが、全てを投げ打ってでも足りないのだ。感謝を伝えなければならない。さもなければ羽織を受け取る資格がない。
「いえ! 別にそんな、これは恩返しですから。こんなことでよければいつでも」
「それでは俺の気が収まらない」
「いえ、その……私も収まらないんです……」
「考えておいてくれ。何でもいい」
「話聞いてくれない……」
 最後の呟きはとりあえず無視して、義勇は彼岸から戻ってきた羽織を撫でた。
 この気持ちをどうしても誰かに聞いてほしい。禰豆子が炭治郎の部屋に戻った後、義勇は窓の外に、こちらへ戻ってくる人影を見つけた。

 しのぶが眠っていた時間は比較的短かった。
 といっても、高熱のまま魘されて死の淵を彷徨っていた者の中では、という言葉が頭につく。意識がないまま蝶屋敷に運ばれてきた者は、大抵皆数ヶ月意識が戻らなかった。
 あの戦いが終わり、炭治郎が目を覚ました時、運ばれて一命を取り留めた者は全員が無事意識を取り戻した。今は皆リハビリのために敷地内をうろついていたりもする。しのぶもそうして散歩から部屋へと戻ってきたところだった。
「えっ!?」
 部屋に足を踏み入れた瞬間、しのぶの視界が暗くなった。赤暗くなってはいるが陽射しが窓から透けている。何か被せられたことは理解した。
 こんなことをするのは、しのぶの中では一人しかいない。ここ数年はそんな暇もなかったが、彼はしのぶに対して遠慮なく手を向けてくることがあった。
 起きて最初に聞いた隊士たちの安否情報。しのぶが起きた時彼はまだ死の淵を彷徨っていたが、さすがというべきか、起きてからは回復が早い。今では好きに蝶屋敷を歩き回っている。
 あれが最期にならなくてよかったと心底思ったけれど、この布の上から抱き締めてくるのは如何なものだろうか。心の準備も何もできない。
「これは羽織だ」
「はあ……そうなんでしょうね」
 葡萄色は見覚えがあるし、感触と形から予想はしていたし、完成したのかと気づいた。禰豆子が真剣に繕っていたのをしのぶは見たことがあったからだ。
「禰豆子が直してくれた。嬉しい」
「……よかったですね」
「うん」
 聞いてほしかったのか。しのぶに聞かせたいと思ってくれたのなら嬉しいが、こうして触れてくるのはやめてほしい。義勇への想いを自覚してから、こんなに距離が近いと落ち着かなかった。
「そういうのは本人に伝えてください」
「もうやった」
 無理やり腕から抜け出したしのぶは、被せられた羽織から顔を出してベッドの上で畳み始めた。
 せっかく直してくれたものをしのぶに被せるなどして、ここまで喜ぶほど大事なものなのだから他人に触らせなければいいのに。
 大事なものを貸してもいいと思ってくれているからこそということなのだろうことも、非常に嬉しいけれど。
「………。やったって、まさか」
 伝えた、ではなくやったと口にした義勇に、しのぶはふと顔を上げて彼の顔を見た。
 嬉しい嬉しいと声が弾んでいたわりに、表情は大して変わっていない。羽織で見えない時に笑っていたのかもしれないが。まあ、それはとりあえず置いておいて。
「禰豆子さんにも抱き着いたんですか!?」
「ああ、つい」
「………、この、助平。年頃の娘さんですよ」
「わざとじゃない。禰豆子は鬼だった時はもっと甘えてきてたから」
「自我も弱く幼子のようだったんですから、比べるのはおかしいでしょう」
 幼子のようだったからこそ義勇は抱き締めたのかもしれないが、今の禰豆子では困惑もするだろうに。
 むしろ距離が近くてそういう意味で好意を持つことだってあるだろう。もう、年頃の娘に戻ってしまったのだから。
「何でもすると言ったのに望みを何も言わない」
「何でもって……」
 相手を間違えれば色々と駄目な台詞ではないか。
 禰豆子が義勇に好意があれば結婚すら迫られても文句はいえない言葉を言っているが、それは想定しているのか。しているなら、禰豆子ならいいと思っているのか。何も考えていなさそうではあるが。
 禰豆子なら。人に戻った禰豆子とは、しのぶも話す機会はよくあった。
 よく笑い、よく働き、気立てがよく愛らしい。義勇にはしのぶのような意地っ張りよりも、カナエや禰豆子のように明るく気の利く娘のほうが似合う。禰豆子が良いと言うのなら、義勇との仲を取り持つべきなのかもしれないが。
 胸が鈍い痛みを発している。
「……あなたが禰豆子さんの一生を面倒見るつもりでもないなら、人様の娘さんに軽々しく触れては駄目です」
 身内と認定したおかげでそうなっているのだろうけれど。
 好意があればそれも良いのだろうが、確かめるのは少し怖かった。義勇が禰豆子を幼子と認識もしているから距離が近いのだと思いはしても、本当のところは本人にしかわからない。義勇は嘘は言わないが、隠すことだってあるのだ。
「……ああ。悪かったと思ってる」
 素直に頷いた義勇は畳んだ羽織を手に取り、しのぶに背を向けて扉へと近づいた。どうやら用事は終わったようである。本当に、羽織を見せるのと抱き締めるためだけに来られたような形だ。
「……お前も年頃の娘だった。触るなと言ってたな、すまない」
 開かれた扉が音を立てて閉まり、言葉を紡いだ義勇を連れていった。
 ともすれば失礼にも成り得る言葉も含まれていたが、しのぶは義勇の言いたいことを正しく理解した。
 あの日しのぶが拒絶した時のことを思い出したのだろう。
 触れてしまってすまないと、今までの関係なら有り得ないことを告げられた。
 手を振り払ってしまったことすら後悔してたまらなかったのに、それほど嬉しいと感じていたことだったのに。触るなとしのぶが言ってしまった後なのである。

*

 困らせてみるのはどうか。
 冨岡が何でもするから望みを言えと言ってきたことをカナエに漏らすと、あらあらと楽しそうに笑って対策を考えてくれた。
 しかし、この策はもしかしたら禰豆子が大変な目に合うかもしれないとカナエは言った。まかり間違って冨岡が頷いてしまえば、禰豆子の未来は決まってしまうのだ。結婚しても良いと思えるのならそれでもいいと思うけれど、と少し心配そうに口にした。
 そもそも冨岡はあれだけ格好良い人なのだから、もっと良い人が選り取りみどりだろう。禰豆子を相手になどするわけがない。そう高を括って禰豆子は顔を合わせるたびに聞いてくる冨岡に、ようやく言い返すことにした。
「じゃあ冨岡さんがうちに婿入りするとかどうですか?」
 予想もしていなかったのか、目を真ん丸にした冨岡は禰豆子を凝視した。
「もっと自分を大事にしろ」
 わあ。
 禰豆子を気遣われてしまった。
 優しい人だ。物凄く優しい人だった。蝶屋敷の誰に聞いても優しいと返ってくるような人だ。兄と禰豆子を助けて命を懸けてくれた人なのだ。自分の中の冨岡への印象がうなぎのぼりである。
「……いや、誰に吹き込まれた? カナエか?」
 そこもばれるのか。さすが昔馴染みとは伊達ではないようだ。慌てて誤魔化そうとしたのだが、冨岡は少し困ったような顔をして小さく息を吐いた。
「言葉を間違えたな。それ以外なら何でもする」
 何もかもするのは間違いだったと言う。禰豆子の望むことは全て叶えてやりたいが、冨岡にできることは限られているらしい。兄には色んなことをしてくれたはずなのに、できないことがあるとは意外だ。何ができないのかと問いかけてみた。
「まず、日常生活で役に立たん。利き手の握力も入らない。空き巣くらいなら捕まえられるだろうが、人に頼らないとならない時点でもう役立たずだ。あと、口数が少ないと言われてるから、会話も楽しめないだろう」
「今楽しんでますけど……」
「そうか」
 会話に関してはよかったと頷いた。
 何というか、謙虚な人だ。それから、と冨岡はまた口を開いた。
「禰豆子に婿入りするとある人物に怒られるし嫌われる」
 誰が嫌うのだろう。禰豆子が首を傾げるとまた少し困ったような顔をして、あまり嫌われたくないと冨岡は呟いた。それは確かに、禰豆子も人から嫌われるのは避けたい。
「まだ若いからもう少し待て」
「待った結果がお婿さんに来てほしいって話になったらどうするんですか?」
 嫌われたくないのはわかったが、もしも禰豆子が冨岡に恋をしたら彼はどうするのだろう。
 日常生活に支障をきたしても、禰豆子自身が冨岡の世話をしたいと思ってしまったら。母は父が死ぬまで世話をしていたけれど、少しも辛そうには見えなかった。あんなふうに寄り添って生きたいと思う人がもし冨岡だったらどうするのか。禰豆子の気持ちには振り向かないのだろうか。
「そんな有り得ない例え話いるか?」
「有り得ないかどうかはわからないですよ。ほら、こうしてる間にも冨岡さんのこと好きになるかも」
 眉を顰めて黙り込んだ冨岡が、禰豆子から目を逸らして庭へと向けた。その横顔が何ともいえず寂しそうに見えて、ふいに禰豆子は思い至った。
「……もしかして、好きな人がいますか?」
「………」
 黙ってしまった。
 ちょっとした思いつきでもあったのだが、無言の肯定ではないだろうか。言うのか、このまま黙ったままなのか、禰豆子は興味が湧いて冨岡を観察した。
 横顔の輪郭すら整っていて目元は涼しげで、鬼相手にも臆することのない強い人。この冨岡が好きになる人とはどんな人なのだろう。じっと考え込みながら眺めていたら、ふいに冨岡の表情が緩んで口元が綻んだ。
「そうだな」
 わあ。
 柔らかい空気が目に見えるようだった。穏やかでごく控えめな、笑みともいえないような柔らかな表情に禰豆子はつい頬を染めた。
「どんな人ですか!?」
「婿入りの話はどうなった」
 禰豆子が興奮して問いかけたことで、冨岡が少し呆れたような目を向けて問い返してきた。有り得ないと言いつつどうやら気にしてくれていたらしい。
「冨岡さんに好きな人がいるならなしでいいですよ。困らせようとしただけなので」
 禰豆子の言葉にむすりとした後、義勇は安堵したような顔を見せた。禰豆子が笑って待っていると、諦めたように溜息を吐いて口を開いた。
「……頼りになる。言葉がきつい時もあるが優しい」
「冨岡さんみたいな人ですね!」
「いや、全然」
 冨岡が頼りになると言うのなら、それはもうなり過ぎる人なのだろう。他に何かないのかと問いかけると、目を伏せた冨岡はまた口を開いてくれた。
「少し前から距離ができた。迷惑なんだと思う」
「……そうなんですか? 確認したんですか?」
「確認はしない。このとおりの役立たずに言われても迷惑なのは間違いないからな」
 迷惑かどうかなんて本人に聞かなければわからないことなのに、冨岡は決めつけて気持ちを伝えるつもりもないようだった。
「もしかしたらその人も同じ気持ちかもしれないのに、確かめないんですか? 生きてるんですよね。せっかく生きてるのに、痣の寿命だってカナエさんたちが薬を作ったって聞いてます」
「禰豆子」
 制止のために名前を呼ばれても、禰豆子は言いたいことが次々に湧いて出ていた。
 彼は本当に何も言わないつもりだと気づいてしまったのだ。禰豆子を見る目が何だか控えめで引っ込み思案な子供のように見えてしまい、禰豆子は言い聞かせるように言い募った。
「大丈夫。大丈夫ですよ。義勇さんの気持ちが迷惑なんてことありません。有り得ません、絶対に。そんな人は私がデコピンしてちゃんとわかってもらいますから!」
 禰豆子のデコピンはかなり痛いと評判だ。兄の頭には効かないが、弟妹たちには非常によく効いた。義勇の気持ちを蔑ろにする者がいるなら、禰豆子のデコピンで必ず黙らせることを決意した。
「私の望みは義勇さんの幸せです。私と兄を助けてくれてありがとうございます。私幸せなんです、お兄ちゃんが生きてて、私も生きてて、これ以上欲しいものってなくて、だから今度は義勇さんが幸せにならないと困ります」
 感情の赴くまま、禰豆子は義勇の手を取った。
 兄とはまた違う大きな手。この手が兄と禰豆子を導いてくれたのだ。男の人の手であることが少し恥ずかしいけれど、禰豆子の気持ちをわかってほしくて両手で掴んでぎゅっと握り締めた。
「……炭治郎と同じ思考だな」
「兄妹ですから」
 また小さく口角を上げた義勇は目を伏せて少し黙り込み、やがて口を開いて何かを言おうとした。だがその時聞こえた人の声に、禰豆子共々意識を向かわせた。
「禰豆子ちゃーん!」
「善逸さん」
 嬉しそうに顔を出した兄の友人は一瞬にして硬直し、楽しげだった顔を般若のように変貌させた。凄い顔だった。
「はあああ? 何で冨岡さんが禰豆子ちゃんの手握ってるんですか!?」
「いや……」
「善逸さん、義勇さんの手を握ったのは私で、」
「はーっ!? 名前で呼んでるぅー!」
「静かにしてください!」
 善逸が騒いだことにより辺りにいたはずの人たちが野次馬の如く覗き込んできて、アオイが怒ることになってしまった。何を考えているのかわからない顔に戻った義勇は、溜息を吐いて項垂れてしまった。
 その集まってきた人の中に義勇の想い人がいたことを、禰豆子は気づかなかったのだが。