知られざる
「神崎」
悲鳴嶼が席を外した病室で、先日起きたばかりの冨岡から声をかけられ、アオイが振り返ると上半身を起き上がらせた冨岡がベッドの上で深々と頭を下げた。
何事かと驚いたアオイが声をかける前に、静かな声は言葉を紡いだ。
「ありがとう。お前のおかげで無惨を倒せた」
「はっ!? ど、どこをどう解釈したらそんな突拍子もないところに行き着くんですか!?」
嫌味かと言いそうになったが、冨岡は人に嫌味を言うような性格をしていない。そう聞こえたとしても、本心は人を敬う人だ。表情からは全く見えないが、そういう人なのである。
「……カナエたちには、俺が任務を頼んでいた。不在が増えて神崎の負担が増えたのはそのせいだ。理由も知らせぬまま任務を頼んだようなものだ」
鬼の医者の協力を得るため、冨岡を筆頭とした特務隊があったというのはカナエから少し聞いた。その鬼との合同研究では、鬼舞辻無惨に投与した四つの薬の精製、痣の薬を作り出した青い彼岸花の捜索、研究。そして鬼の医者が作った血清も、そこで作っていたのだという。
アオイはふと思い出した。そういえばカナエが錆兎とともに蝶屋敷を空けることになった時、冨岡はやけにアオイに気を遣っていたような気がする。柱である冨岡にはしなければならないことが山のようにあるだろうに、機能回復訓練も手伝おうとしていたわけで。
「ああ、あれ、そういう……成程、そうなんですか」
そうか。言えないからこそ手伝おうとしてくれていたのか。アオイにまでそんな気を遣わなくてもよかったのに。どうせ戦うことはできないのだから、それ以外で扱き使ってくれればいいのだ。
だけど。
「……任務、できてたんですか。私は」
「俺は便宜上責任者という位置付けなだけだが、皆想定以上の働きをしてくれた」
本当だろうか。この冨岡は自身を卑下するのが非常に得意だ。アオイのような者の気持ちも汲んでくれた過去がある。人となりを知った後でさえ、アオイにとっては雲の上の人だというのに。
「そうですか。その、特務に、私は入ってたんですね」
「……そうだな。すまなかった」
「いえ、そうではなく……ありがとうございます。……ずっと、戦いに行けない自分が嫌で仕方ありませんでした。自分に何ができるのか、私はずっと探してました」
医学を勉強してもカナエのように薬を作ることはできない。しのぶのように毒を作り出すことも、呼吸の型を作り出すこともできない。カナヲのように特殊な体質を持って戦えるわけでもない。何もできることがないまま、せめて誰かの役に立てるようになりたかった。
錆兎にしかできないことは十七の時に終わったのだと卑下していたけれど、彼だって彼にしかできないことをして、しのぶたちを連れて帰って来てくれた。
アオイにしかできなかったことは何だろう。医学はカナエの後を追って勉強したものだし、それも蝶屋敷という医療機関があったからできたことだ。その蝶屋敷を教えてくれたのは冨岡だった。アオイこそ、感謝してもしきれなかった。
何故だろう。この人の弟子も、アオイの気持ちを汲んで掬って、戦地に連れて行ってくれたことを思い出した。
「お前はお前にしかできないことをしてくれた」
「……鱗滝様と同じことを仰いますね」
師と弟子は似るものか。考えていたのは炭治郎のことだったけれど、鱗滝とも似ているのだろう。冨岡の師のことを口にした時、冨岡の口元はふいに綻んだ。
うわあ、笑った。
油断していた。思わず驚いて照れてしまったが、こんな貴重なものを自分一人で見ていいものかと少々狼狽えてしまった。
*
「――獪岳?」
「お? おお、上弦の陸な。単独で倒してたからどんなもんだったか聞いたんだよ。元隊士だったって話だ」
「―――、」
一瞬うまく思考が働かなかった。
通りすがった悲鳴嶼は聞こえていたのか、衝撃を受けている義勇を気遣うような素振りを見せた。
少しばかり義勇と悲鳴嶼を窺うような気配を出していたが、宇髄は特に問いかけることもなくその場を離れた。義勇は開けていた扉を閉め、悲鳴嶼と二人病室へと戻った。
あの戦いから目が覚めてから、義勇は顛末の書き記した記録を読んでいた。上弦の壱以外の鬼との戦闘記録を確認していた時声をかけてきたのが宇髄だった。
聞かなければならないことがある。
義勇の心情を悟ったらしい悲鳴嶼は、小さく息を吐いて口を開いた。
「……まだ幼かったお前には黙っていたことがある」
寺を鬼に襲撃された時のこと。
あの時毎夜焚いていた藤の花の香炉は消え、そのせいで鬼が侵入した。それ自体は事実だ。
ただ、それが起きた原因がある。
風で消えたわけではない。効力がなくなったわけでもない。人為的に火を消されていただけの話だった。
「寺が鬼に襲われたのは、獪岳が香炉を消したからだ。あの日、獪岳は寺の人間を鬼に売った」
寺が鬼に襲われ義勇と沙代以外の子供が殺された時、獪岳だけは行方が知れなかった。生死の行方も、血の痕跡も何も見つからず、心配した近所の者が噂していたことがあったのを思い出した。生きていると良いと思いながら、鬼殺隊で名を聞いた時は驚きと同時にどうにかして顔を見たいと思ったものだった。
獪岳の存在を知らせた悲鳴嶼がどうにも複雑な様子だったから、義勇はどうすべきかを悩んでいたのだが。
義勇の知らない事実が、悲鳴嶼が獪岳との再会に二の足を踏む原因になっていたらしい。
「他の子供たちは引き止める言葉も届かなかった。……これは私の誤解だったようだが、当時の私は子供を信じられなくなるところだった。鬼殺隊にいると聞いた時は、改心したのか、それとも誤解だったのかと考えたものだが……」
どうやら鬼になった獪岳とほんの少しの時間鉢合わせたらしい。
体が崩れて消える間際、我妻へ呪詛のように恨みつらみを吐き出していた。我妻の言葉を受け入れもしなかった。育手の思いを正しく理解し受け入れていた我妻のようにはなれなかったようだと口にした。
「………」
義勇は何をしてやればよかったのだろう。獪岳のことを何一つ知らないまま、ただ寺の子供が生きていたことを喜んでばかりいただけだった。
何か呼ばれたんだけど。
大きな溜息を長々と吐きつつ、善逸は憂鬱な気分で廊下を歩いていた。
わざわざ呼び出されるほどのことをしただろうか。稽古を経て顔を合わせると、正直厳しさしか思い出さないのだが。ああいや、そういえば共通点があった。
あまり気乗りはしないが、それについてなら呼び出されるのも納得できる。問われる理由は未だにわからないのだが。
「上弦の陸との戦闘について聞かせてほしい」
やっぱりか。
冨岡は獪岳を知っていたのだ。呼び出された部屋には悲鳴嶼もいて、彼も知り合いであることは善逸も知っていた。どんな鬼だったかを聞いてくる冨岡が本当に知りたいことは何なのか、善逸はぼんやり考えた。
「……呼吸を使う鬼でした。鬼になったばかりで俺でも勝てるような、大した奴じゃなかった」
その短期間で大勢人を喰った。罪悪感など欠片もないような顔をして笑っていた。今まで守っていた人間を捕食対象に即座に鞍替えするなど、今でも善逸は怒りが込み上げてくる。
鬼に恐怖を持つのはきっとおかしなことではない。獪岳が鬼にならざるを得ないことが起きたのだろうことも考えたが、それでもやはり負の感情は湧いて出る。
「何しても満たされてないような奴で、爺ちゃんの気持ちも最期まで理解しなかった。……それでも俺は、あいつのこと、兄弟子だと思ってたんだ……」
最後は少し声が震えてしまったけれど、黙っていた二人からは静かに後悔の音が鳴っていた。きっと善逸も同じ音が鳴っているのだろう。
黙り込んだ善逸が膝の上で拳を握り締めた時、静かな冨岡の声が小さくそうかと呟いた。
「……ずっと聞きたかったんですけど、獪岳と知り合いなんですよね」
「私は身寄りのない子供を寺で保護して生活していたんだ。義勇と獪岳は一緒に住んでいた時期がある」
「俺は……伯父に預けられたからだが」
住んでいた寺が鬼に襲撃され、獪岳は行方知れずになったらしい。忽然と姿を消した子供が鬼殺隊に入って生きていると知って喜んだ。
腑に落ちた。それと同時に悲しくなる。顔を合わせずともこうして心配していた人がいたのに、獪岳はそれも理解しないまま、一目置かれることだけを求めて間違った道を選んでしまった。
「獪岳は……本当にどうしようもないクズになったけど……」
本当は、善逸などより師を尊敬していた。直向きな努力ができる奴だった。それが認められたいというだけの気持ちから来ていたとしても、間違いなく努力家だった。
善逸がそんなことを伝える必要などないわけだが、どうしてもこの二人には聞いていてほしくて言い募った。
「……取り返しのつかないことをしたが、生きるのに必死だったということか……獪岳が殺した人間は多いだろう。何もできずすまなかった」
「……あいつが爺ちゃんも大勢人を殺したのも事実だけど、それはあいつが弱かったからだ。二人のせいじゃ……ないと思います」
「……我妻」
名を呼ばれて顔を向けると、冨岡は逡巡したように口元をまごつかせた。
躊躇なく炭治郎を殺せと言ったはずの人が、今何かを躊躇している。不思議な人だ。
「……よく頑張った」
労いの言葉が善逸に向けられ、どうしようもなく涙が我慢できなかった。
たった一言善逸を労うのに躊躇したのは、自分が言っていいのかどうかを悩んだのだろう。軽々しくそれを自分が口にしていいのか悩んでいるような、そんな音がしていた。
「何あれ」
同期のうちカナヲはしのぶと同室、玄弥は時透と同室にされ、炭治郎たち残りの三人は仲の良さも考慮していつもどおり同室にされていた。なので善逸が帰ってきた時もベッドから迎え入れたのだが。
ちょうど散歩ついでに様子を見に来た宇髄がいて、呆れたように声を漏らした。
義勇の片腕に善逸の腕が組まれ引っ張りながら、悲鳴嶼の車椅子を押して部屋に入ってきた。
善逸は盛大に泣いていて、二人は少々呆れているような顔をしていた。
「お前ら仲良かったの?」
「いや……」
呼ばれたと嘆きながら向かったはずだが、何故か二人を連れて帰ってきたらしい。二人の病室に行ったと思っていたが、どこで話していたのだろう。
「あ、でも、善逸は義勇さんがどんな人か聞いてきたことあったよな」
「うえ……うん。音が静か過ぎたし、柱だし怖いし、話したことなかったし」
善逸に聞こえる音は、炭治郎には匂いとして伝わっている。
確かに義勇は静穏過ぎるけれど、それが義勇だと思えばそういうもので納得できる。落ち着いた匂いの奥には、隠れるようにして優しい匂いが薄っすらと漂っていた。どれだけ厳しく稽古をつけられようと、そばにいると落ち着くのだ。
今はもう気を張る理由もなくなって、優しい匂いはわかりやすくなっていた。
善逸が義勇と悲鳴嶼二人とどんな接点があったのかは知らない。ほんの少しだけ羨ましくも感じたが。
*
「槇寿郎さん!」
「……ああ、きみか。お勤め……」
「わわっ、いえ、それは皆さんに伝えてください! 俺はずっと人に守られてばかりでしたし」
そんなことはないだろうと思うが。
謙虚な姿勢は成長に繋がる。そうやって今までも強くなっていったのだろう。竈門炭治郎の人となりは恐らく両親の教育と環境の賜物なのだろう。
「炭治郎さん、こんにちは。お加減は如何ですか?」
「こんにちは、千寿郎くん。だいぶ良くなりました、まだ敷地内から出るなとは言われてますが」
くれぐれも脱走などしたらどうなるか、アオイはまるでしのぶのように口酸っぱく言い含めていた。あの時脱走したことはしのぶも相当怒っていたので、絶対にさせるなと言われているのかもしれない。
「ああ、そうだ槇寿郎さん。伝えようと思ってたことが」
千寿郎も聞いていたこと。当時の炭治郎には許し難い話だったが、今となっては槇寿郎の打ちのめされた気持ちにも理解を示していた。
「呼吸は猿真似なんかじゃありません」
「それは、……言ってしまったことは悪かったと思っている」
「あ、いえ。猿真似なんかじゃなかったんです。俺は見てきました」
死の淵にいた時、先祖がどうやってヒノカミ神楽を受け継いだのか。
始まりの剣士の呼吸を、日の呼吸の型を見続け、神楽として連綿と受け継いできた。その先にいたのが炭治郎だったのだ。
「始まりの剣士……縁壱さんは鬼狩りに呼吸を教えましたが、鬼狩りは元々剣術の型を持っていたんです」
剣術は五つ。鬼狩りの基本は五大呼吸と呼ばれているあの呼吸の型が剣術の元だった。そこに炭治郎の先祖と会ったあの縁壱という男が呼吸の仕方を伝授した。そうして爆発的に身体能力を向上させることができ、剣術を活かすことができたのだ。
「五大剣術を飛躍的に伸ばす方法を彼は教えた。だから、鬼殺隊は五大剣術が元になってるんです」
合う合わないはあっても、そこから派生するものがあっても、決して猿真似などというものではない。
鬼狩りが剣術を使っていなかったとしたら、どんなものが生まれたのだろうか。
「……そうか。すまなかった」
「いえ」
きっと煉獄家の先祖以外にも、圧倒的な強さを持つ縁壱に目が眩み、自信を失くしたこともあっただろう。それほどに次元の違う剣技だと炭治郎ですらわかったのだ。あの領域には何をしたって到達できない。
「俺も義勇さんに憧れて、義勇さんみたいになりたかったけど、やっぱりそれは無理でした。でも別にそれはいいんです。義勇さんもきっと、憧れたことがあっただろうから」
人に憧れ目標にしても、自分との違いを目の当たりにして挫折することも、きっと誰にでもあることだ。時間がかかったとしても、立ち直れるならそれでいい。自分ができることをしていくしかなく、皆が自分にできることをしていたから勝てたのだ。
「そうだな。……始まりの剣士というのは、どんな人物だった?」
夢で見た過去の光景を信じてくれた槇寿郎に、炭治郎が感じた印象を口にした。
「そうですね……物静かで、争いを好まず、……少しだけ義勇さんに似てる気がしました」
「そうか」
「義勇さんは水の呼吸を極めてますけど。きっと極めた先に行き着く先は同じなんです」
向かう先はどこまでも同じ場所で、そこに辿り着けるかどうかだけの違いでしかないのだろう。炭治郎は少しだけ理解できたような気がしたのだ。
「そうだな。しかし、冨岡くんか……私自身は彼のことはあまり知らんが。共同任務も一度きりだったし、護衛の任務のことで顔を合わせたのも何年ぶりだったか」
「冨岡さんの話は兄上がよくしてくれました」
腐り始めた時期だから任務どころではなくあまり関われなかったが、それでも迷惑をかけたと半ば自虐的に槇寿郎は言った。
「杏寿郎と変わらん歳の子供にまで世話をかけたのが申し訳ない。謝りそびれていたからな、挨拶しておくよ」
「子供?」
槇寿郎からすればいつまでも子供のような年齢ではあるだろうが、何だか妙な言い方だった。不思議に思い炭治郎は問いかけた。
「ん。ああ、確か彼は十五だか六だかで柱になっていたからな。杏寿郎が鬼殺隊に入隊した頃だった」
「十五だか六だかで柱になっていたからな!?」
「お、おう。そうだ」
違いをまざまざと見せつけられたような気分で、炭治郎は唸りながら頭を抱えた。
戦闘経験というのは何より重要だ。上弦の鬼と遭遇し、戦い、生き残った経験は何よりも得難く凄い経験だと言われたことはあるが、それでも長年柱として戦ってきた義勇との差はまだまだあった。その理由が一つ見つかってしまった。
時透は炭治郎より年下で、最年少で柱になるような天才だが、やはり柱全員との力の差を感じてしまう。
「そんな早かったんですね……」
「あー、まあ、俺も親しいわけじゃないから曖昧なんだが。といっても、十五、六で柱になることが珍しいかと言われればそうでもない」
「そうなんですか……」
「子供の手を借りなければ追いつかなかった。きみたちの世代が揃うまで、柱すら入れ替わりが激しかったからな。……きみたちがいてくれてよかった。戦ってくれてありがとう」
生き残って戻ってきてくれて。槇寿郎の言葉を千寿郎も同じく口にした。