繋ぎ止める

「俺は蝶屋敷で治療を手伝います」
「千寿郎も連れていけ、人手が足りんだろう。俺は殉死者のいる旧産屋敷邸に向かう」
 父と別れた煉獄は弟を伴い混乱状態の蝶屋敷へと向かった。
 慌ただしく走る足音が聞こえ、叫び声が玄関まで聞こえている。煉獄は治療に関して門外漢であるが、一応柱は皆できる範囲で蝶屋敷を手伝っていたので指示通りに動くくらいならできる。問題はカナエが戻るまでの間、神崎が恐縮して指示をしないことだが、この緊急時に迷っている暇などない。覗くと問題なく隠や軽傷の隊士に指示をしていた。何やら産屋敷家の息女二人も桶や包帯を持って駆け回っている。彼女たちは旧産屋敷邸からこちらへ避難して来ていたらしい。
「重傷の方を先にお願いします!」
「炭治郎くんと岩柱様を先に!」
「………っ、」
 二人を呼ぶ声を聞いた時、神崎の顔が強張った。
 鬼殺隊最高位の柱、悲鳴嶼ですら死の淵を彷徨う死闘だ。今まで怪我をしても意識のないまま運ばれるようなことがなかった悲鳴嶼に、神崎は狼狽えたようだった。
「柱は皆重傷で運ばれてくるぞ、しっかりしろ! 俺も手伝う!」
「わ、私にも指示をいただけますか」
「………、はいっ、ありがとうございます!」
 泣くのは全ての始末がついてからだ。カナエの代わりに彼らの命を繋ぎ止めるのが神崎の最大の任務であり、失敗のできないものだった。無理やり目元を袖で拭った神崎が顔を上げ、悲鳴嶼の傷口を確認しながら臆することなく煉獄たちに指示をした。

 あの二人は戦地で応急処置を施していたらしい。
 勿論全員にできるわけもなく、目立って危険な状態の者だけでも蝶屋敷まで間に合うように。隠に無理やり頼んで戦場となった旧産屋敷邸に向かったのもそのためだったようだ。
 カナエと錆兎を蝶屋敷に呼び戻し、隠は父の指示の下旧産屋敷邸に残る殉死者たちの遺体を運び出しているらしい。蝶屋敷がひと段落したら煉獄も向こうで弔うつもりだ。
 引退した柱すら総動員した最後の戦いを、煉獄は只管に口惜しく感じていたわけだが。
 皆ができることをして、それを繋ぎ合わせた結果の勝利だ。その被害は決して少ないとは世辞ですらいえないものだった。
 だがそれでも、鬼舞辻無惨を滅殺し切り、鬼を滅ぼした後の夜明けを連れてきてくれたのだ。己の不甲斐なさなど隅に追いやってしまうのが良い。殉死して行った隊士たちもきっと喜んでくれるはずだ。そう願っていた。

*

「先生……」
「よく頑張った」
 蝶屋敷に運ばれた全員の治療を済ませ、鱗滝の顔を見たカナエはようやく気が抜けたかのようにふらりと床にしゃがみ込んだ。途中から隠や怪我の浅い隊士たちも手伝いに奔走し、鱗滝も竈門禰豆子を連れて蝶屋敷に顔を出してくれた。使いぱしりでも何でもいいと告げ、人間に戻った禰豆子も寝る間を惜しんで働いてくれた。ようやく息をつけるようになって、アオイも腰が抜けたようだった。
「先生もありがとうございました。……皆頑張り続けたから早く起きてほしいけど、休んでほしい気持ちもあります。無事に目覚めてくれると良いけど……」
 茶を淹れたいのに動けないアオイを察してか、三人娘はばたばたと台所へと駆けていった。皆の安堵した顔を眺め、煉獄の弟が大きく息を吐き出した。
「煉獄くんもありがとうね」
「あ、煉獄様も怪我をなさっていたかと……」
「怪我? ……ああ、これはそういった類ではないので放っといて構わない! 千寿郎、お前も少し休ませてもらえ。俺はあの三人の手伝いをしに行って――」
「あっ、だ、駄目です兄上! 台所は入ったらいけません!」
 何だかしゅんとした煉獄を置いて千寿郎が慌てたように三人娘を追いかけていった。何事かと問えば、どうやら煉獄は壊滅的に料理ができないのだという。料理をするつもりがなくとも危険だと判断されたらしい。
「ふむ。そういえば洗濯物を干してたな。取り込んだほうがいいのか?」
「あ、そうですが、私が後で行きますから……」
「それくらいは俺にもできる! 少し休んだほうがいい」
 止める間もなく煉獄はその場を颯爽と立ち去り、アオイは非常に恐縮したまま頭を抱えた。元とはいえ最近まで炎柱だった相手だ、雑務でしかないことをやらせたことに罪悪感を抱いているのだろう。
「彼の怪我とは何だ? 本部を襲われたとは聞いてないが」
「小さいものです、深かったようなんですが。手のひらを爪で抉ったような」
 鱗滝に聞いても襲われていないと言うし、手のひらであれば自ら傷をつけたと考えるのが妥当か。爪で深く抉ったような、恐らく血も滴ったのではないかとアオイは言った。
「……ああ。そうか、そうだな」
「錆兎さん?」
 本部には戦況を見ていた輝利哉がいた。護衛の際にもしかしたら状況を聞いていたのかもしれない。錆兎がずっと抱え続けていた思いを、煉獄もまた感じていたのだろう。それは恐らく、錆兎よりも強く重い。
 つい最近まで柱として戦っていた煉獄だ。鬼舞辻無惨との戦いの場にいないことがどれほど苦しく悔しかったか、推し量るしかできないが。
 今も動いていないと心に押し潰されそうなのかもしれない。そんなことに潰されるような器の人間ではないだろうが、思考はきっと、錆兎とそう変わらない人間だ。義勇も、悲鳴嶼も。
「あいつの負担を……少しでも減らしてやりたかったけど、なかなかできなかったな」
 継子にしろと自分から言っておいて、早々に戦線を離脱したのは錆兎だった。肝心な時に何もできず足を引っ張り、蝶屋敷では結局ずっとカナエとしのぶに頼りきりだった。最近に至ってはアオイにも。
「お前は、お前にしかできないことをしてきただろう」
「そうよ、陰で支えてくれてたわ。アオイも錆兎くんが励ましてくれたから、」
「俺にしかできないことは、十七の時に終わってしまった。義勇の指令が来るまで、俺は結局何が起きているかも把握できていなかった」
 そう、何かをさせろと直談判するつもりはあったが、柱である義勇が錆兎に言えることは少ないだろうとも思っていた。だから義勇から彼岸花捜索の依頼が来た時は、言ってくれたかと喜んだものだった。刀を持てと言われたことが、これほど錆兎の心を掬い上げる言葉だと自覚していなかった。
 己はずっと自己嫌悪に陥ったまま、少しも動けていなかったことをようやく自覚したのだ。
「……でも。最後にやっとあいつの役に立てたような気がするので」
 しのぶと炭治郎を頼む。そう頼んだ義勇の言葉どおり、錆兎は二人を介抱した。あの場に錆兎がいることを、心底から待っていたかのような声音だった。
 義勇の頼みを叶えてやれたこと。あの熾烈な戦いの場に刀を持って立てたこと。錆兎自身が戦ったわけではないけれど、同じ戦地をまた踏み締めたことは、言い表しようのない複雑な気分だった。ただそれは負の感情だけではない、湧き上がってくるような感覚が渦巻いていたのだ。
「お前たちは頑張った。儂の誇りだ」
 天狗面の奥で涙ぐんでいる気配がする。錆兎とカナエの頭を撫でて抱え込み、ついでとばかりにアオイの肩も引き寄せた。よく頑張った、よく戦った。何度も声をかける鱗滝の声がどんどん涙に濡れていって、カナエとアオイの目が潤んで表情が歪んでいくのを目にして、むしろ錆兎は笑ってしまったけれど。
 この裏表のない褒め言葉を、煉獄たちも聞いているといい。戦ったのは隊士たちだけではなく、やるべきことを全うした全員だったのだから。

*

 柱である悲鳴嶼の覚悟を踏み躙ったと、床に頭を擦りつけてカナエは謝った。
 それが蝶屋敷で目覚めた三日後のことだ。死の淵を彷徨ったはずの体は以前のように回復し、悲鳴嶼は意味がわからないままカナエの旋毛をただ眺めたものだった。
 命を救われて謝られるのはおかしな話だ。死を厭わず臆さず覚悟の上で戦ったのは事実だが、悲鳴嶼は死にたかったわけではない。自分が死んで他の者たちが生き残るなら迷わず若者を助けろとは言うが。
「しかし……何故私は生きている?」
 だから、死にゆくつもりでいたのも事実だった。助かる見込みは悲鳴嶼にはなかったはずだ。足を失くし失血していたのもあるが、恐らく痣の影響が大きかったと思うが。
「珠世さんとしのぶと、皆で作ったんです」
 青い彼岸花を主原料とする薬。
 鬼舞辻無惨が探していたという希少種の花を使い、完成したのは痣の影響を緩やかに抑える薬だといった。
 なかったことにはならず、ただ先延ばしにするだけの薬。二十五を超えた先をほんの少し生きるために完成させた薬。
 寿命の前借りを完全に無効化することにはならないというが、充分過ぎる効果だろう。
「どうしても助けたかった。生きてほしかったんです。薬は二つしかできていないの。これから痣を出した人全員分作りますから、お願いだから」
 寿命の見えない未来を生きてほしい。
 何年先延ばしにできるのか、それは悲鳴嶼自身が示しながら生きるしかない。それで他の者たちも鬼のいない未来を長く生きられるのなら言うことはない。
「……ありがとう」
 堪えきれずカナエの目から溢れた涙を悲鳴嶼は指で拭い、尊敬の念を込めて礼を告げた。

「……痣の話はしのぶに聞きました。青い彼岸花を見つけて研究してた時、前借りした寿命を伸ばすことができないかと」
 落ち着いたカナエが当時を振り返って教えてくれた。
 青い彼岸花は竈門炭治郎の生家付近に生息しており、どうにも咲く時期は決まっていないようだったらしい。見つけた時も何度か確認したことのある箇所にある時突然蕾を見つけ、思わず夢ではないかと思うような鮮やかな青に目を瞬いたという。
 誰かの墓らしき石の前に、静かに蕾をつけた彼岸花を見つけたのは、ちょうど竈門禰豆子が太陽を克服した日だったそうだ。
 墓前に咲くのはもしや埋葬のために植えられたものなのか、それとも偶然そこに咲くのか。わからないままカナエは何度も祈りを捧げた。どうか持っていくことをお許しください、平和を迎えるために力を貸してくださいと深く頼み込んだという。
 何日も蕾のままだった彼岸花が花開いた時、許してくれたと解釈して持ち出したのだといった。
「しのぶも、助けたい人がいるって言って。自分だって痣を出すつもりだっただろうに。……それとも、捨て身でやり遂げるつもりだったのかもしれないけれど」
 カナエはしのぶのことをよく理解していたし、カナエの予測はさほど外れてはいないだろうと悲鳴嶼にも感じられた。
 地上に引きずり出した後、あの時しのぶは無惨に向かっていったが、逃げる素振りも何もないまま義勇に庇われ間合いから離れた。
 毒か薬か、しのぶは何かを持っていたのだろう。そうなればまず考えるのは薬を確実に取り込ませること。一番簡単なのは自分を餌に喰わせることだ。体力も消耗させていたし、抗わなければ勝手に奴は取り込んでくれるのだから。
「痣を出さないで、なんて……言えるはずがないから。それなら出した上でどうにかならないかって。無茶振りです、本当に。珠世さんも最初は困惑してたけど、あの人は本当に凄い人だった」
 珠世という鬼と話をしたことは悲鳴嶼にはない。だがこうしてカナエが言うのなら、医者として、研究者として優秀で素晴らしい者だったのだろう。
「私も悲鳴嶼さんを助けたかった」
「……そうか」
 しのぶが本当に捨て身で向かったのだとしても、それを咎めることは悲鳴嶼にはできない。そうでもしなければ無惨に勝ち目はなく、こうして生き残った者がいることが奇跡のようなことだと感じるのだ。
 生きていてよかった。目が覚めてから悲鳴嶼はようやくそう感じることができた。