地上へ
「無惨を排出することに成功しました!」
「指示どおりの旧産屋敷邸です! あれは、」
「………! 父上、母上……。……よくやった皆」
齢八歳という幼さで、この大一番で当主となり重圧は途轍もないものだろう。両親を呼んだ小さな声は直ぐに鳴りを潜め、戦況をその目で見続けている。障子を隔てた煉獄の背中で戦う幼子がいるのである。
「血を拭け杏寿郎」
「………、失礼しました」
此度の任務は鬼殺隊本拠地の護衛。任務を頼みたいと冨岡自ら打診に来てくれたのだ、その護衛の任務を蔑ろにするつもりはない。頭ではそう思っているのだが、指し示された口の端に指を触れさせると、どうやら咥内を噛み切っていたようで血が滲んでいたらしい。拭った指に目を向けた時、手のひらにも爪が食い込み皮膚が切れていたことに気づいた。
足手まといになるこの体を、そうなってしまった煉獄の弱さを呪うことになると気づいていた。なんのことはない、わかっていたことだ。
「……無惨を城から出すことはできたようだな」
「はい。ですが場所は旧産屋敷邸。指示どおりということですが」
「……耀哉様は生き残るつもりはないのだろう」
輝利哉を当主として戦わせているのだ、本来ならもう生きていないはずだったかもしれない。
無惨は産屋敷家共々鬼殺隊を根絶やしにするつもりなのだろうし、柱の皆なら産屋敷を助けようとするだろう。だが無惨を相手にしている状態でそのような隙があるかどうか。一人でも多くの命が無事でいられれば良いのだが。
*
頸を斬る真似すらできず、毒も効かない者相手にやれることなど知れている。最初からしのぶはそのつもりでここにいるのだ。
産屋敷が仕込んでいた爆弾は、無惨の傷の治りを遅らせる仕込みがあったようだ。柱が隊士に庇われた隙を見計らって隠たちが無惨に向けて放った爆弾。食らった無惨の体が爛れているのを目にして、今が一番効くかもしれないとしのぶは考えた。
愈史郎の目はそこかしこに落ちている。伊之助が拾ってきたものはすぐに使えるようばら撒いていた。柱は満身創痍でもまだ戦える者はいる。時間さえ稼いでくれるなら大丈夫だ。
ただ、一つだけ、ほんの少し後悔していることがあった。あんな会話が最期になるのは、少し寂しい気分にはなる。
できれば最期はもう少しきちんとした会話をしたかったけれど、それももう今更だった。
刀の仕込みの音を鳴らす。上弦の鬼の血を研究して作り出した藤の花の猛毒と一緒に薬も仕込んである。しのぶの心血を注いで作った毒と、珠世とカナエと三人で作った薬だ。効かなくても分解されても時間さえ稼げればいい。しのぶの足が地面を蹴った。
「………!」
無惨の鬱陶しい腕を悲鳴嶼の手斧が斬り落とし、その隙をついてしのぶは間合いに入り込んだ。視界に映る複数の心臓が忌々しい。切っ先を無惨の背中から心臓の一つへ突き立てた。
やればできるじゃないの、と最後に自分を褒めておいた。
首が飛ぼうと全身を潰されようと何でもいい。毒と残りの薬を打ち込むことさえできれば、しのぶの役目はそれだけで終わりだ。
あとは誰かが、きっと繋いでくれる。
「………! しのぶ姉さん!」
ああでも、カナヲが名前を呼んだのは駄目だ。誰が死のうと無惨を殺すことに神経を集中させなければならないのに、カナヲがつける愈史郎の目はしのぶの姿を見せていた。無惨に腕を握り潰される様も、しかと見えてしまっただろう。
まるで折り紙でも握り潰すかのようにぐしゃりと骨ごと粉々になる感覚と、体を突き抜ける毒の痛み。しのぶは声にならない声を喉元まで出しかけた。
悲鳴など上げている場合ではない。
抜け出す術はしのぶにはない。しのぶごと吸収して餌にしてくれるのならそれが一番なのだ。最後の予備はカナヲに託してある。
だから、鮮やかな水と見慣れた背中が目の前に現れるなど、なくていいものだったのに。
「………っ! 錆兎!」
カナヲが叫んだことと、愈史郎の目が剥がれてしのぶの姿が見えたことでここまで助太刀に入ったのか。相変わらずの人だ。義勇が編み出した凪は無惨の攻撃すら防ぐのだから。
動けぬまま抱えられ無惨から距離を取り、何故か錆兎を呼んだことにぼんやりした頭でしのぶは疑問を抱いた。薄らぐ視界の奥に駆け寄ってくる姿があった。袴に刀を差した錆兎が何かを叫んでいる。こちらに来ていたのか。
「義勇、しのぶ!」
「しのぶを頼む。炭治郎はあっちだ、動けない。頼む!」
「わかった! 村田、炭治郎連れてきてくれ!」
「はあっ、はい!」
行ってしまう。役にも立てないしのぶを置いて、会話もし直せないまま死地へと向かう。身を翻した義勇の羽織の裾を、しのぶは無意識に掴んだまま気づけば意識を手放していた。
苦悶の顔のまま気絶したしのぶの手を、義勇は静かに指を離させてから握り締めた。それから頼むともう一度口にして、羽織を翻して止める間もなく走っていった。
しのぶの刀は無惨に刺したまま。抜かれてしまっても拾うことは難しいだろう。
「こ、こんな時にあれだけど……凄え絵になる二人だな……」
「……そうかもしれんな」
こんなことさえなければひっそりと仲を育んだかもしれない二人だ。いや、鬼さえいなければ出会うこともなかったかもしれないが。
「おい、甘露寺も頼む。無惨の攻撃を食らった」
「待って伊黒さん! いやだ、死なないで!」
無惨の攻撃は毒を放っている。体も思うように動かないらしく、最悪は炭治郎のように苦しんで呼吸が止まるようだ。珠世の作った血清は猫に持たせていたが、予備は錆兎も持っている。それを取り出す前に義勇は行ってしまったが。
「大丈夫だ、愈史郎にも血清を渡してるから義勇たちにも届く。蛇柱にも」
そう、必ず届く。柱が無惨を食い止めていなければ被害は更に増える。血清を打つ暇がないことを見計らって珠世は猫に託していたのだ。だがしのぶへ血清を打ちはしても、この潰れた腕では刀はもう持てない。
義勇に頼むと言われたのだから、しのぶと炭治郎は必ず生かさなければならない。命に変えても死なせはしない。
「しのぶちゃん……しのぶちゃんは大丈夫?」
泣きじゃくっていた恋柱が少し落ち着きを取り戻したらしく、そばで倒れるしのぶへ意識を向けた。
大丈夫とは言い難い。血清が効いてきたらしく毒自体は落ち着いてきたが、握り潰された腕は斬り落とされるより惨い状態だ。恐らくはもう、使い物にはならないだろう。
*暁
迎えに来てくれたのか。
獪岳のことを更生させられず、悲鳴嶼は大人として導いてやることができなかった。向き合うこともできなかったのに。
朝日の光が差し掛かり、悲鳴嶼はようやく安堵の息を吐いた。
痣を出した悲鳴嶼はもうまもなく死ぬだろう。
手当をしようとする隠を断り、そばに立つ子供たちに声をかけた。悲鳴嶼に聞こえる声が慌てたように見てと騒ぎ立てている。
見えないよ。悲鳴嶼の目が盲目なのは赤子の頃からだ。迎えに来てくれた子供たちの顔すらわからない。音と匂い、気配だけを頼りにしていたのだ。
まだ終わってない。痛いはずなのにまだ頑張ってる。助けてあげて、可哀想だよ。泣いちゃってるよ。
「――人を殺す前に炭治郎を殺せ!」
「―――!」
まだ。彼岸に渡りかけた意識が引き戻され、悲鳴嶼は顔を上げた。鮮明になった意識の中に子供たちの気配はなく、代わりに絶望の空気を感じ取った。
まだ戦わせるのか、あの子を。竈門炭治郎の同期であろう少年たちだけでなく、周りにいる者全てが打ちのめされて立ち上がれないようだった。
「ひ、悲鳴嶼さん」
「拘束しろ! 陽の光に晒せ!」
竈門炭治郎にあの子を殺させるわけにはいかない。ここまで来て義勇に腹を切らせるわけにはいかない。咎める者がいなくても、誰かを殺させてしまえばあの子は必ず腹を切るだろう。
そんなことはさせない。義勇は悲鳴嶼の恩人であり友であり、家族にも似た大事な子だ。
「鎖で拘束しろ! 誰でもいい、鉄同士をぶつけろ!」
隠とともに悲鳴嶼の鎖を掴んで竈門を拘束し、無理やり陽の下に曝け出した。だが最初こそ肉の焼けた臭いと音が聞こえたのに、竈門の火傷はすぐに治り始めた。
何ということだ。こうも早く陽光を克服するとは。
義勇の刀が竈門の肩を刺し、一瞬動きを鈍らせた。陽光さえも駄目なら何も効かないのではないかと思ったが、少なくとも動きを留めることはできるらしい。
だがすでに満身創痍で動けない者も多くいる中、留め続けるのも長くは保たない。無惨と同じ触手が竈門から伸び、仲間である我妻や嘴平を攻撃する。それを止める手は今竈門を必死に押し留めていた。
「―――、」
「あと三秒抑えてください!」
義勇が何かを言うよりも先に、聞き覚えのある声が悲鳴嶼の耳に届いた。
カナヲが声を張り上げてこちらへ走ってくる。歯を食いしばり触手を掻い潜って懐へと飛び込み、竈門を抱き締めた。引き剥がそうと爪を立てられた時、カナヲから呻くように小さな声が聞こえた。
「炭治郎、駄目だ喰うな!」
我妻が悲痛に叫び鎖を引っ張った。
大きく口を開けた竈門がカナヲの肩を噛もうとした時、カナヲは握り締めた手を思いきり項へ打ち付けた。竈門の体は一瞬衝撃に硬直し、カナヲを噛む前に地面へぐったりと崩れ落ちた。
よかった。
周りの奴らは皆薬が効いているのかわからないようだが、玄弥には感じていた。
炭治郎が動きを止めた瞬間から、玄弥の中から急速に力が抜け落ちていくのを感じたからだ。
それは鬼喰いをしていた玄弥にしかわからないこと。鬼舞辻無惨の肉片を口にした玄弥は、文字通り鬼のようになって戦えたけれど、無惨自体を取り込んでしまったことで完全に鬼化してしまったのだろう。
日向に出られない。
先程陽の当たるところに向かいかけた時、玄弥の肌が火傷を負った。だからこうして瓦礫の影に隠れているのだ。
だがそれも炭治郎から鬼の血が消えることで、玄弥自身も消えようとしている。
人を喰いたい衝動はないのが救いだ。このまま誰も襲わずに消えるならそれでいい。
「……玄弥……駄目だ、消えちゃ……胡蝶さんを、呼んでくるから……」
「動くな時透さん。あんたも重傷なんだ、死なないでくれ。何のために無惨まで喰ったかわからなくなるよ」
玄弥が鬼を喰ってまで戦ったのは守りたい者がいるからだ。
兄を守りたくて、謝りたくて入った鬼殺隊で、世話になった人が沢山いた。師を、友を守りたいと思ったから呼吸の使えない自分にできることをしたのだ。
兄は先程生きているのを確認した。悲鳴嶼も冨岡も無事だといいのだが。
太陽を避けて入り込んだ瓦礫だらけの屋敷の奥から人影が現れた。気づいた時透が寝転んだまま、ぼんやりとその人を呼んだ。
「あまね、様……」
呼ばれた女性は深く一礼し、失礼いたします、と一言口にして玄弥の腕を取り、小さな容器を打ち付けた。
「何を、」
「人間返りの薬です。珠世様からお預かりしたものを、玄弥様に打つよう産屋敷から指示を受けております」
息を呑んだのは誰だったのか。胡蝶は予備があるとは言っていたが、期待はできないだろうとも思っていたのに。産屋敷に渡していたのか。
本当なら全て無惨に使う薬であることは胡蝶も言っていたことだ。玄弥に打たれる予備として残ったのが奇跡だった。
「お館様が……」
「鬼舞辻無惨の討伐、お疲れ様でございました」
深く頭を下げたあまねを眺め、涙を零す時透を見た。
――俺はまだ、人として生きてられるのか。
無惨がいなくなった今、鬼の気配はどこにもない。玄弥も同様に灰になって消え去るのだと思っていた。実際そのはずだったのだ。
「よかった……」
玄弥が生きていることを、時透が素直に喜んでくれた。
兄と一緒に、陽の下を歩けるようになるのか。都合のいい夢ではないかと思うくらいだった。
「あまね様……お館様は……」
「先程息を引き取りました」
「……そんな」
玄弥を助けてくれた恩人が、すでに亡くなった後だなんて。礼を言う暇も与えてもらえないなどあんまりではないか。
「お役に立てず申し訳ありませんでした。……ただ、産屋敷自身は」
地上に排出された無惨が産屋敷を狙うのを柱は阻止していた。その分余計な心労も疲労もかかっただろうとあまねは口にした。
そんなことはないと時透は慌てて否定した。だって一緒に戦ったのだ。恐らくは、誰も咎めるような者は柱の中にはいないだろうと感じるくらい、皆産屋敷たちを心底から案じているのが玄弥にも見えていた。無惨の意識は最終的に産屋敷から外れていたし、追い込まれてからは逃げることだけを考えてもいただろう。
「こうして鬼のいない朝を目の当たりにできたこと、深く感動しておりました。産屋敷に代わりお礼申し上げます」
いずれ輝利哉からも礼を伝える機会を設けると言い、あまねは玄弥と時透が止めても尚深々と頭を下げた。
「悲鳴嶼さん!」
竈門が自我を取り戻し、ようやく全ての決着がついたと悟った時、悲鳴嶼はもはや立つこともできず座り込んでいた。隠の手当を不要だと伝えることも億劫だった。
感じたこともない疲労感と衰弱は、無惨との死闘のせいか、二十五を超えて痣を出した弊害か。予想していたとおり、悲鳴嶼の体は夜明けとともに彼岸に渡るようだった。
正直に言えば、ふらつきながら駆け寄ってくる義勇に応えるだけの元気もない。あの日もずっと泣いていたな、とぼんやり悲鳴嶼は思い出した。
夜明けを見届けることができて、最後の大仕事も今度こそ終わりを告げた。自分自身も満身創痍だろうに、頬に手を伸ばすとやはり泣いているらしく、拭ってもどんどん悲鳴嶼の手に溢れてきていた。
栓でも外れてしまったか。本来よく泣いてよく笑う子だった義勇は、鬼殺隊に入った頃から感情が表に出ないようになっていた。本当はもっと感情表現が豊かだった。そう考えれば涙が止まらないのも仕方ないのかもしれない。
義勇が最後まで悲鳴嶼を助けようとしてくれたから、悲鳴嶼は子供を恨まずに済んだのだ。こうして子供たちと再会し、迎えに来てくれたのである。
「……カナエたちを頼む」
最期まで見守ってやってほしい。
痣を出していた義勇は二十五までしか生きられない。せめて例外があれば良いとは思っているが。
「まだ待って」
その時聞こえたのは誰の声だったか、考える間もなく悲鳴嶼は意識を手放した。
できたばかりの代物を、同意もなしに人に投与するなど以ての外だ。
だが、何もしないで見送るより余程良い。文字通りの死闘を制して夜明けを連れてきてくれた人たちを、どうしても助けたかった。
ただの自分の利己的な考えでしかない。柱としての彼らの覚悟を踏み躙るようなことかもしれないけれど。
「私、まだ悲鳴嶼さんと別れたくないの」
「胡蝶様、それは……」
「冨岡さん、動かないでください」
動かない悲鳴嶼の近くに隠が集まってくる。悲鳴嶼の腕に刺した注射器を見て、彼らは驚いたような声を漏らした。
「………、……助かるのか?」
「わからないけど……助けたいの」
切断された足は止血されているが、失血量は死んでいてもおかしくない。悲鳴嶼自身が呼吸で止血していたから今もまだ心臓が動いているのだろう。止まりそうなほど弱くなった心臓の音が少しだけ大きくなってきたことに気づいた時、カナエの視界の隅で義勇は静かに泣いた。
悲鳴嶼のそばで、縋りついて、こんなになるまで泣く義勇をカナエは知らなかった。悲鳴嶼を慕い尊敬している者が沢山いて、別れを惜しむ人がいるのだ。生きていることで後遺症も苦しみもあるかもしれない。だがそれでも、どうしても、もう少しだけ生きていてほしかった。
「み、水柱様!」
「義勇!」
義勇の限界もとうに超えていたのだろう。
支えられなくなった義勇の体が地面へと吸い込まれるようにぐらりと傾ぎ、カナエが支える前に走ってきた錆兎に抱え込まれた。
「………、お前、本当に、凄いよ」
息をしていることを確認した錆兎は、涙目になりながら小さく呟いて大きな安堵の息を吐いた。