上弦の壱

「次々と降って湧く……」
「………」
 全身に怖気が走る。
 今までの鬼とは比べ物にならない悍ましさに、壱の文字を見つけた義勇は納得した。
 上弦の鬼の中で最強がこの鬼だ。
 最終目標である鬼舞辻無惨の元へ向かうには、この鬼を倒して行かなければならない。肌で感じるのは油断など一つもできないということだ。
 出し惜しみすることなどできるはずがない。
 柱に磔にされている時透と腕を落とした玄弥を助けたいところだが、そこに行くにはこの鬼を掻い潜っていかなければならない。はっきりいって難しい。義勇は上弦の壱との力量差を相対しただけで把握した。
 義勇が狙えるのは相討ちだけだ。死んでもこの鬼を殺さなければ、確実に無惨討伐の障害となる。せめて不死川はこのまま無惨の元へ向かってもらいたいが。
「………、冨岡さん」
「……ほう……また痣の者か」
 体温が上がる。通常なら有り得ない体の変調。身体能力の上昇値は、時透の言ったとおり通常とは振り切っている。
 これが寿命の前借りか。

「初見なり……静寂を纏っているように見えて、卓越した技量の技。名を聞こう」
「鬼に名乗る名前はない。俺は喋るのが嫌いだ」
 話しかけるな。
 口数少なく上弦の壱との会話を打ち切り、突如振るわれた斬撃を冨岡は凪で防いだ。
 力技だとか何だとか以前言っていたことがあるが、相変わらずでたらめな技だ。あの上弦の壱の攻撃は一定ではなく、少し間違えれば斬撃一つ一つが致命傷になる。先程の一瞬、不死川は反応が遅れてしまったのだ。冨岡に庇われなければ不死川の体はどこかしら吹っ飛ぶところだった。
 ほんの一瞬不死川へ視線を向けた冨岡の言いたいことを、恐らく誤解せずに不死川は理解したと思う。平時なら口で言えよと思うところだが、今は話す暇も惜しい。刻まれて散った瓦礫と柱に隠れ、不死川は腹の傷を縫うことにした。さっさと戻らなければまずい。
 痣を出していやがった。あれは恐らく透き通る世界にも早々に入ったはずだ。いくら冨岡といえど限界まで身体能力を強化しなければ、あの上弦の壱を一人で相手するのは骨が折れるということだろう。相討ち覚悟でやるならまだしも、無惨がこの先にいるのだ。こんなところで死なれては困る。
 透き通る世界もさっきの猛攻で入りかけたというのに、今はすっかり元通りの視界だった。
 痣と透き通る世界。呼吸を整え心拍数を上げる。どこに痣が出るのかまで把握していないが、感じる肉体の変化は間違いなく強化されていた。

 初手は最悪を免れたものの、何一つ役に立っていない。
 上弦の壱が刀を抜く寸前、時透は左手首に怖気が走った。どんな攻撃かまではわからないのに、この鬼の攻撃で時透の手は吹っ飛ぶと悟ったのだ。
 かといってそれを避けるのはかなり苦労した。剣士であるにも関わらず避けろと自らの腕に祈りすら捧げ、必死に手だけは何とかなった。変わりに胸を斬られて磔にされこのざまである。
 だが、手が繋がっているなら何とかなる。胸の切り傷の止血を鬼にされてしまったのは屈辱だが動ける範囲だ。足手まといになってはならない。
 あの二人は無惨の元へ行ってもらわなければ。相討ちすら覚悟しているだろう二人はここで死ぬまで戦う気だ。
「時透さん」
「玄弥!」
 下方から声がかけられ、玄弥が肩を押さえながら時透のそばへ寄ってきていた。先程腕は斬られていたはずだが、少し動かして接合したことを確認していた。
「すぐ抜くから、止血頼める?」
「わ、わかった」
 背中の柱に両足裏をつけ、呼吸をしながら刀を引き抜く。ひと息にというわけにはいかず、痛みが全身に伝わって苦しい。だがこのまま何もできずに終わるわけにはいかない。
「………! ………っ、ふーっ、ふううう」
「時透さん!」
 悲鳴を上げてしまいそうな痛みを堪えて切っ先まで引き抜き、下で待機していた玄弥にぶつかりながら床に降りた。きっと悲鳴嶼に持たされていたのだろう救急袋が懐から現れ、玄弥は手拭いで肩を押さえて止血し始めた。
「何持ってるの?」
「あ、……上弦の壱の、髪の毛……あと刃先」
 玄弥は鬼の一部を喰うことで鬼化することができるらしい。刀鍛冶の里に現れた上弦の参ともそうして戦ったという。何というか、体調に異変がありそうな戦い方だ。
 とはいえ、玄弥自身が呼吸を使えず苦肉の策であることはわかっているという。それでも不死川を助けたいと口にした。
「足手まといになるのはわかってるけど……」
「僕だってそうだ。邪魔になるわけにはいかないけど、何もせず死ぬのはもっと駄目だ。死ぬなら役に立ってからじゃないと」
 二人が上弦の壱を相手取ってくれているうちに、何か策を講じなければならないのだ。手負いの時透と玄弥だけでできる何か。
「玄弥にやってほしいことがある」
 近くに置かれた拳銃に目を向け、時透は一つ案を口にした。
「不死川!」
「うるせェ、平気だわァ!」
 剣戟と攻防の先に二人の声が聞こえ、時透と玄弥は揃って声の方向へと顔を上げた。
 善戦していたように見えていたが、一瞬で二人とも血に塗れている。上弦の壱の間合いにしては遠すぎる位置で。
 上弦の壱の手には、先程まで日本刀の形をしていたはずだったのに、刃がいくつも枝分かれした長い刀が握られていた。

 透き通る世界が視えて先読みが可能だとしても、間合いを測り損ねればこうして避けられない攻撃になる。
 初見の攻撃にも関わらず凪を使ったようだが、冨岡でも防ぎきれていなかった。
 斬撃が飛んできた位置に偶然刀を構えていなければ不死川の指も飛んでいた。指一本なくなるだけで、ただでさえ劣勢の戦いに勝ち目がなくなる。無惨へ続く道が消える。
 自分たちだけは向かわないといけないというのに、上弦の壱は少しも衰えることがなかった。
「………。そうか、お前たちも……視えているのか」
「………っ!」
 足りない。まだ力が足りない。だだっ広い間合いからあの刀を有り得ない速度で振るう。近づこうにも近づけない。透き通る世界も痣も出し、身体能力を爆発的に上げても尚足りないのだ。怒りが込み上げてくる。
「!」
 視界の隅に映った姿に、冨岡がふいに動きを変えた。
 時透が上弦の壱の懐に入るつもりだ。
 稽古を挟んで冨岡の動きは把握している。記憶が戻ってからの時透ともずっと連携の稽古をしてきていたし、鬼の出ないあの期間は鍛錬を積むのに良い時間だった。まあ冨岡は放っておいても勝手に合わせてくるのだが。
 間合いの内側に入るためには無傷では済まないだろうが、今はもうそれしかない。一瞬でいい、どんな手を使ってもこの鬼の注意を逸らすことができれば。
 だが、まずい。上弦の壱は先読みしていた。先程の呟きも、恐らくは透き通る世界のことを言っていたのだろう。まず間違いなくこいつは同じ世界を視ているのだ。
 入り込もうとした時透の胴が割られると感じた瞬間、鬼が柄を握ろうとした手の甲にどこからかクナイが飛んできていた。
「新手か……!」
 気配がなかった。奴もまた透き通る世界から攻撃を仕掛けたのだ。その瞬間を縫って懐に飛び込んだ時透が、上弦の壱の腹へと刀を突き刺した。鬼の背後に現れたのは宇髄だった。冨岡の刀が鬼の腕を斬り落とし、離れた場所で発砲音が聞こえた。
「頸斬れェ!」
 飛んできた弾が上弦の壱の体へとめり込み、木の根が張って動きを止めた。頭を潰してでも頸と胴を切り離す。攻撃を仕掛けた瞬間、咆哮を上げた上弦の壱の体から斬撃が飛び出した。

 玄弥が放った弾が血鬼術によって拘束できるものに変貌したまではよかったのに。
 振り動作なしで飛び出した斬撃に、懐で刀を突き立てた時透が避けられる道理はなかった。片手が吹っ飛ぶだけで済んだのは、冨岡が零距離で斬撃を斬ったからだ。
 意味がわからない。人を守っている暇などないのに。おかげで時透が守ろうとした冨岡が要らぬ攻撃を食らった。ただでさえ防ぐ暇などなかったはずなのに。この人こんなに必死な顔するんだなあ、なんてどうでもいいことを頭の隅でひっそり考えた。
 三つの刃が頸を狙う。
 今の攻撃で宇髄の片手が飛んでいるが、冨岡と不死川は斬撃を食らってもぎりぎりで躱したらしくまだ余力があるようだった。防ぎ損ねても躱しはするのか。比較的怪我の少ない三人には無惨の元へ行かせなければならないのに、時透の片手で上弦の壱を止められるはずもない。
 だがやらなければ。玄弥が作った隙を生かさなければ。胴を割られても離す気はないと、渾身の力で柄を握った。
 木の根がもう一度動き出す。玄弥がもう一発撃ったのか、とにかく上弦の壱の動きがまた止まった。時透の握る刀も赤くなっていることに気がついた。
 どうして赤くなったのか、動きもぎこちなく見える。初めて視た皮膚の下は、刺した箇所の筋肉が硬直していた。他の三人も気づいているはず。
「おらァァ!」
 頸に突き立てた冨岡の刀に不死川の刀がぶつかる。その上から宇髄の二振りの刀も振り下ろされた。
 鉄のぶつかる音とともに、三人の刀が赤く染まる。頸へと向けられた刃が力任せに食い込んでいく。ずるりと音を立てて頸が床へ落ちた。
「………っ、再生させるな! 斬り続けろ!」
 だというのに、体だけになった鬼は斬られた箇所の出血を止め、未だ血鬼術を使おうとしていた。それに気づいた冨岡が叫ぶ。
 たまったものではない。あれだけ力を振り絞って動きを止めたというのに、それだけでは足りないのだ。頭が再生し異形へと変貌し、見た目も何もかも化け物になった上弦の壱がそこにいた。
 役に、立たなければ。宇髄ほど体格に恵まれていない時透は、片腕を落とされた時点でもう満足に動けないけれど。
 彼らは赤い刃で斬り続ける。刻み続けて、玄弥の弾がもう一度鬼を拘束した。
 体から飛び出た刃を避ける暇などなかったけれど、何度も何度も頸を斬るために、死んでも手は離さない。
 やがて幾度目かに頸を落とした時、刃諸共上弦の壱の体は崩れ落ちていった。

「いやあ、焦ったぜ。鬼とも全ッ然鉢合わなくてよ、無惨も見つかんねえし、俺だけ違うとこ来たのかと」
 鴉の報告によれば、義勇がここに来るまでに上弦の弐は悲鳴嶼と炭治郎が倒したと聞いたし、各々飛ばされた場所によって遭遇率も違うらしい。
 調子が悪いと言っていた宇髄の腕は、上弦の壱が振り動作なしに体から刃を出した時、避けられず飛んだのを見た。思いどおりに動かぬ腕などないほうが良いと笑ってはいるが。
「本当……俺なんて庇うから余計な怪我負うんだよ」
 床に横たわった時透はぼんやりとした口調で文句を言い、それから小さく義勇に向かって礼を告げた。
 目の前で胴を割られる者がいて、義勇が助けることで怪我だけに留まるのなら、義勇は迷いなく助太刀に入る。間に合って生きているならそれでいい。きっと誰であってもそうだったはずだ。
 それに、時透は義勇も不死川も助けてくれたのだから咎められる筋合いはない。
「鬼みてェになりやがって……」
 時透の傷口を焼いて塞ぐために服をくつろげた時、不死川は小さく呟いて項垂れた。
 前に座るのは弟の玄弥だ。上弦の壱は消えたはずなのに、取り込んだ力はまだ残っているらしい。姿はまるで鬼のようだった。
「時間が経てば普通に戻るんだろ。致命傷負えば鬼みてえに体が崩れて消えちまうかもしんねえがな」
「てめェ!」
「俺は可能性を話してんだよ。人間が鬼を取り込むなんてのは、実質無惨の血を取り込むようなもんじゃねえのか。鬼化して戻らねえことだってあるかもしれねえだろ。おい、突っかかるなよこんなとこで」
 ただでさえ不死川もかなりの傷を負っているのだ。安静にできるなら少しでも休むべきなのに、喧嘩している場合ではない。逆上させたのは宇髄だったが。
「よくないことしてるってのは、わかってたけど……どうしても、俺も戦いたかった。兄ちゃんを助けたかったから」
「………」
 何も言えなくなった不死川は、掴みかかっていた宇髄の胸ぐらから手を離してまた項垂れた。
「……助かったよ、玄弥。ありがとう」
「………、時透さん」
 体を起こして手拭いを噛みながら、時透は傷口を晒したまま玄弥へ一言礼を告げた。泣きそうに歪んだ玄弥が俯いた時、宇髄は労うように頭を乱暴に撫でた。
「よし、いっちょ俺の腕も頼むぜ」
 時透の傷を焼いて止血した後、宇髄が斬られた腕を差し出した。それに熱した刀を当てながら、義勇は少し考えていた。
 珠世とカナエたちが共同で開発していた薬は四種類。無惨が四つ全ての効果を認識しているかはわからない。珠世が抑えつけている間、無惨自身が時間をかけて薬を分解するだろうという話だった。
 義勇はその四つの薬の内訳を聞いているが、それがどれほどの量作られたかまでは聞いていない。無惨を弱らせるために作ったものなのだから、全てを無惨に注ぎ込む計画であることは間違いないとは思う。
「……珠世という鬼と開発した薬があることは」
「……鬼と手を組んだって話なら、今更文句も言わねェよ。そんな場合じゃねェし、会議でも聞いてる」
 それはそうだ。直前まで存在を知らされておらずとも、義勇が不在だった会議で鬼の協力者の話はしているはずだし、鬼舞辻無惨に対して牙を向いた鬼であることは目の当たりにもしただろう。珠世に構う暇がないことも不死川はしかと理解している。
「無惨を無力化する薬……人間返りの効果があると聞いてる」
「………!」
「そういやそうだったな、胡蝶たちが共同で作り上げた……」
 話を知らない玄弥に詳しく説明をするわけにはいかない。この鬼の巣窟である場所でこれ以上の情報を漏らすわけにもいかないが、無惨自体が聞かされたことなら隠したところで意味がない。義勇が言葉少なに告げた意図を汲んでくれたらしく、宇髄が続きを口にした。
「その人間返りの薬なら、玄弥の体質も治るかもってことだな」
「量産してるとは考え辛いが、しのぶなら予備を作ってる可能性がある。数も把握してるだろう。効くかはわからん。鬼扱いするなというなら忘れろ」
「………」
 不死川も玄弥も、時透も、義勇へ驚いた顔を向けていた。
 作り方もカナエとしのぶならば珠世から全て引き継いでいるだろう。首尾よく無惨を倒せても、終わってから作り出したところで玄弥の体が保つかどうかもわからない。鬼化した代償のように鬼として消えるのか、それとも体内から鬼の要素が消えて人間として生きられるのか。それは二人にもわからないかもしれないが。
「……別任務で不在だと悲鳴嶼さんは言ってたが……」
「妙な動きしてるとは思ったが、やっぱお前が指揮塔か」
「特務指令を受けただけだ。俺自身は何もしてない」
「特務って……薬の研究とか? 原料の調達とかかな」
 宇髄が納得したように頷き、興味でも湧いたのか時透が動きにくそうに体を起こした。慌てて玄弥が時透を支えたが、話は気になっているらしく義勇へ視線を向けてくる。
「……鬼の協力者を得ること。無惨滅殺の計画の一端として」
 それは禰豆子を匿った義勇にこそしてほしいことだと産屋敷は言ったが、義勇がしたことはただ適任に声をかけて指示を出しただけだ。十二分の結果が出たのはカナエたちの働きがあったからで、義勇自身は何一つできたことなどない。
「……成程ね。時透が知らなくても無理ねえな、柱の中で知ってるのは胡蝶くらいか?」
「悲鳴嶼さんは把握してる」
 特務を頼むことはなかったが、最年長であり産屋敷からの信頼も厚い悲鳴嶼には、ある程度の話は通っていた。その特務を義勇にまわしたのも悲鳴嶼の同意があったからだ。
「機密任務だ。鬼の協力者など嫌悪どころか憎悪を抱くだろう」
「お前が協力的なのが一番不可思議だわ……」
 禰豆子と会っていなければ、義勇とて珠世に対して今のような心持ちで顔を合わせられたか悩むところだ。
 義勇は別に聖人君子でもなければ鬼と仲良くしたいわけでもなかった。本来鬼とは忌むべきものであり、炭治郎にも言い含めようとした過去がある。言い返されてしまったが。
 全てあの二人の兄妹から始まっているのだ。義勇はそれに少し噛んだだけなのである。