再戦—猗窩座—
「っ!」
あると思っていた地面がなく、がくりと踏み出そうとした足が勢い良く宙を踏む。そのまま落ちそうになった時、首根っこを掴まれる感覚に炭治郎は歯を食いしばった。
「気を抜くな!」
「はいっ!」
威勢良く返事をした瞬間、横にあったはずの壁が炭治郎目がけて襲ってきて、避けきれず進行方向とは違う方向へ押し出された。抜け出すことができずにそのまま義勇と離されていく。決して気を抜いたわけではないが、まずい。
義勇が炭治郎に手を伸ばした瞬間、今度は反対側の壁が義勇に向かって動いてきた。
「一人で行動するな、誰かを探せ!」
分断を狙うような意志が壁にあるのか。とにかく掴まり損ねた炭治郎は義勇と逸れることで義勇自身も一人になってしまうと気づいたが、速度のある壁が動かない壁に向かっていき、押し潰されるのではないかと炭治郎は焦り壁に向かって型を出そうとした瞬間、大きな破壊音が聞こえ、鎖に腕を絡められ炭治郎は引っ張り下ろされた。
「ひ、悲鳴嶼さん!」
悲鳴嶼が助けてくれたようだった。礼を口にしつつついていくことを決めたが、その前に先程別れた義勇のことを思い出した。
「そうだ、義勇さんが一人に!」
「あの子は早々やられはしない。まずは自分の身を守ることだ……」
「あっ、はい。わかりました……」
炭治郎が心配するなど身の程知らずであるとでも言われたような気分だったが、確かにそうだと納得してしまう。義勇がやられるなど上弦相手でもあるかどうかわからないと思えるほど、彼は底が見えないくらいに強いので。
「!」
先導する悲鳴嶼についていきながら、突き当りから大量の鬼が噴射するかのように飛び出してきた。
刀を構えて鬼の頸へ振るう。炭治郎がひと振りすると同時に、悲鳴嶼が鉄球を勢いのまま投げつけた。
「………」
断末魔とともにばらばらと崩れていく鬼の塊。悲鳴嶼が投げつけた鉄球は鬼の大半を潰し、そのまま灰となって崩れていった。炭治郎が斬った鬼も一緒に崩れていたが、そんなところに目を持っていくのすら難しかった。思いきりあんぐりと驚愕して悲鳴嶼の攻撃を見ていたので。
――すっご。
ひと投げしただけでほぼ全ての鬼の頸が潰れた。
あの義勇が、自分など大したことはないと卑下する気持ちがよくわかった。
――この人えぐい。
同時に義勇や柱の皆が悲鳴嶼を頼り尊敬する気持ちを、今ようやくきちんと理解した。
凄い人だ。稽古の時にも伊之助は言っていたし、鬼殺隊最強は間違いなく悲鳴嶼だと炭治郎も感じている。この人さえいてくれればどうにかなると思えるような安心感だった。
それに。
その悲鳴嶼が義勇を問題ないと自信満々に言うのだ。目に見えないはずの信頼がはっきりと見える。
この人の信頼を得られるくらいなのだから、どんな鬼が相手でも絶対に義勇は大丈夫だ。炭治郎がどれだけ成長しても追いつけないと感じてしまうような人なのだ。
「! ひ、悲鳴嶼さん」
「落ち着け」
地鳴りのような音と衝撃。足元が揺れ立っていられなくなりそうだった。どこから何が来るのか炭治郎は周りへ気を向けたが、匂いを感じたのは天井だった。
「猗窩座!」
破壊音と瓦礫とともに現れたのは、あの日義勇と煉獄から逃げ果せた猗窩座だった。
「南無阿弥陀仏……」
間髪入れずに悲鳴嶼が腕を振り上げた時、猗窩座はその場を飛び退いた。その瞬間、鉄球と斧が床へ叩きつけられた。
「ふむ、あいつを葬った岩の柱か。義勇の言った最強だな。――素晴らしい。この男を俺の前に連れてきてくれたこと、感謝しよう炭治郎」
悲鳴嶼が鎖を引いた瞬間、炭治郎はヒノカミ神楽の型を繰り出した。
見ているだけでは駄目だ。圧倒されている暇はない。腕くらい斬れなければ足手まといにならずに戦うことも、上弦の鬼と渡り合うこともできやしないのだ。無理やり心を奮い立たせ、必死に刀を振り払う。猗窩座の腕が斬り落とされた時、間髪入れずに炭治郎へ拳が向けられたが、これもぎりぎりで躱すことができた。
「……素晴らしい。雑草でしかなかったお前がここまで強くなった。あの時義勇と杏寿郎、どちらかでも殺していればもっと強くなれただろうな。義勇などそもそもが戦いを嫌うなどと腑抜けた価値観を持っていたのだから、あれ以上にはならないかもしれないし。今ここで岩の柱を殺せばもっと強くなるかもしれん」
「――何だと? お前が、義勇さんたちのことを喋るな」
「何故だ? 俺は感謝しているんだぞ、お前にも義勇と杏寿郎にも。俺を殺しきれず、あまつさえ強くなる機会を与えてくれたわけだ」
「それは感謝じゃない。お前は侮辱しているだけだ。あの夜お前は二人に勝てないと踏んだから逃げたんだ。頸を斬られ続ければ死ぬから逃げた」
「人聞きが悪いな、炭治郎。俺はあの時お前たちではなく陽光を避けるために」
「強くなったんじゃない。卑怯な手を使って逃げたんだ。お前はあの夜誰一人として殺せず逃げ帰った。人の強さに臆したんだ」
猗窩座の眉が不機嫌そうにぴくりと反応した。
「……お前のことはやはり不快だ」
炭治郎だって不愉快だった。
あの日猗窩座は二人と戦い、間違いなく窮地まで追い込まれていた。頸を斬られたのはそういうことだ。猗窩座が二人から逃げたからこうしてもう一度炭治郎の目の前に現れたのだ。
視界の隅で悲鳴嶼が動き、猗窩座へ放られた鉄球を炭治郎は認識した。
鉄球は猗窩座の頭半分をぐしゃりと潰し、それに追随して悲鳴嶼が更に動いた。炭治郎も怒りを抑えて型を構えた。
「成程、確かに最強に名高い! 伸び代は打ち止めとはいえ、お前も鬼になれば永遠にその至高の肉体のまま生きていられるぞ」
「我らは人として生き人として死ぬことを矜持としている。貴様の下らぬ観念を受け入れる者などいるはずもなし」
「ふん。下らぬのはどちらだろうな」
足を踏み鳴らした猗窩座の立つ床に血鬼術が現れる。悲鳴嶼が手斧と鉄球を放り投げ、鎖を操って猗窩座を狙う。
猗窩座は頸を隠さない。悲鳴嶼の攻撃を受けながら拳を突き出し、複数の攻撃が繰り出された。
その攻撃を炭治郎は斬った。間合いの中のできる限りを。
「!」
「義勇の技か! 成程、努力をしたようだ。だが、完璧には防げないようだな」
「くっ、……」
自分を守ることだってできるはずの型だ。怪我を負うのは炭治郎が未熟だからに他ならない。義勇のようにはやはり難しい。
炭治郎に向けられた猗窩座の攻撃は、何とか致命傷を防げる程度には使い物になっていたが。
「!」
猗窩座の背後から再び悲鳴嶼が振るった鉄球に、猗窩座は一瞬顔色を変えた。
何の反応だろうかと考える暇もなく攻撃が降ってくる。避けて防いで、反撃の機会を何とか探し出さなければ、日輪刀の効かない猗窩座は厄介過ぎる。
悲鳴嶼の姿を見止めた猗窩座は、炭治郎の攻撃など見ることすら必要ないとでもいうような受け方をし始めた。
吸い付くような攻撃。猗窩座の攻撃を避けるのは無理に等しい。どうにか凪で凌ぐのが精一杯だ。それでも全てを斬ることはできないが、教わっていてよかったと心底思う。
先読みできるという透き通る世界。悲鳴嶼が避けられるのはそれを視ているからだろう。
極限まで心技体を極め、五感を研ぎ澄ませてその境地に至る。かつて父が言っていたことにも通ずるものだ。悲鳴嶼に猗窩座の意識が向いている今、炭治郎は神経を只管集中させた。
頸を狙っても意味がない。時間を無駄にするわけにはいかないのに、執拗に回復してきた猗窩座はある時、何もない空を殴りつけた。それは強さ弱さの問答のようなものを炭治郎たちとした後。
それからだ、葛藤のようなものが見えたのは。
何かに困惑しているような匂いがして、それでも攻撃は降ってくる。悲鳴嶼に庇われながら炭治郎も攻撃を仕掛けていた時、身体全ての感覚が研ぎ澄まされ、猗窩座と悲鳴嶼の体がふいに透けて見えた。
これが透き通る世界なのだと気づくのに時間はかからなかった。
聞いていたとおり、皮膚の下の全てが透けて見え、猗窩座が次に何をするかがわかった。大技を使って悲鳴嶼と炭治郎を即死させるつもりだ。
透き通る世界にいる悲鳴嶼の匂いはなく気配も全くない。猗窩座は炭治郎の攻撃に目を向けることなく止めることがあった。なのに悲鳴嶼からは目を逸らさない。
見ていなければ見失うからだ。ならば猗窩座の視界にいなかった炭治郎にも今なら反応できないはずだった。
炭治郎が透き通る世界に到達したところで猗窩座を倒せるかが問題だが、死ななくとも身動きが取れない状態にしてしまえばいい。
最終目標は無惨。猗窩座に時間を取られるわけにはいかないのだ。
不可避の攻撃がまた繰り出され、炭治郎は今までと格段に当たらなくなった攻撃に、猗窩座は炭治郎を感知できていないことを悟った。
「猗窩座! 何度でもお前の頸を斬ってやる!」
炭治郎が叫んだ瞬間、猗窩座の拳が胴へと繰り出された。紙一重で躱した炭治郎はヒノカミ神楽の呼吸を使い、宣言どおりに猗窩座の頸を斬った。その一瞬、悲鳴嶼の手斧が猗窩座の胴へと振るわれ、炭治郎の刀とぶつかった。
「―――!」
灼けるような匂いとともに手斧が赤くなる。炭治郎の刀も赤くなった。振るわれた手斧の刃が猗窩座の胴を切り裂いた時、猗窩座がそれ以上の傷を受けないよう、逃げるかのように飛び退いた。
「うっ!」
「竈門!」
「……弱者である人間が……こうも至高の領域にずかずかと入り込む……」
食らえば腹に風穴が空くと予測できる猗窩座の攻撃を炭治郎が何とか避けた時、悲鳴嶼の手斧で腹を切り裂いた痕が治っていないことに気がついた。
あれほどの速度で傷が治っていたというのに、そこだけが未だ血を滴らせている。それに悲鳴嶼も気づいたのか、拾い上げた頸を繋げようとしている猗窩座に向かって手斧を放った。
それを猗窩座は叩き落とした。やはり手斧を避けているのだ。
赤くなった手斧の傷はまだ治らない。この赤さはきっと永続ではない。元に戻る前に炭治郎は刀を振り被った。悲鳴嶼が手斧と鉄球をぶつけ合わせると鉄の灼ける匂いが充満し、手斧だけでなく鉄球も赤くなった。
「どこでもいい、斬れ! 回復させるな!」
手斧と鉄球、両方を手放した悲鳴嶼が、鎖を手繰って猗窩座へ確実に攻撃を当てる。
猗窩座の血鬼術は本来なら不可避のものだ。透き通る世界に入っていれば、感知できない猗窩座は攻撃を集中させることができない。致命傷になるような傷は何とか防ぎ、炭治郎はヒノカミ神楽を繰り出した。
繋がりかけた頸を落とし、体にも攻撃を仕掛けていく。何度も何度も攻撃し、体の再生を堰き止める。幾度目かに振り上げた手から刀がすっぽ抜けた時、唖然とした炭治郎は止まるよりも先に拳を突き出した。
「があああ!」
頭突きにすればよかったと後から考えたけれど、どちらにしろ致命傷は与えられない攻撃だ。とにかく動きを止めれば悲鳴嶼が赤くなった武器で頸を潰してくれる。
刀。刀を拾わないと。いやそんな暇はなかった。猗窩座が仕掛けようとしているのは、あれはあの夜義勇と伊之助に放たれた技だ。悲鳴嶼でも食らえばただでは済まない。
「悲鳴嶼さん、滅式が来る!」
「―――!」
悲鳴嶼に攻撃圏内から逃げることを促した時、足を止めた猗窩座と一瞬目が合った。その直後、あの攻撃を感じ取った炭治郎は悲鳴嶼に投げ飛ばされたが。
「……何で、……自分を……」
目が合った時、猗窩座から感謝の匂いが微かにした。自ら滅式を食らわせた猗窩座のぼろぼろになった体がふらりと辺りを彷徨い、しばらくして灰となって消えた。
「……お、終わった……」
「………」
陽光に晒すまで長引くことも可能性として考えはあった。死なないならひとところに留めさせることを念頭に置いていたが、とにかく倒せてよかった。あまりの疲労に炭治郎は大きく息を吐き出した。
「……拾壱ノ型はものにしたようだ」
「……いえ、俺はまだ全然。水の呼吸を極められないですから。義勇さんの足元にも及びません」
猗窩座の攻撃を、滅式を、あの時の炭治郎がいなければ、義勇なら全部防ぎきったはずだ。
見極めて斬る。たったそれだけのことがこんなにも難しい。炭治郎の力はまだ足りないのだ。
止血と手当をすると悲鳴嶼が言い、促されるままに炭治郎は羽織と隊服を脱いだ。額の止血を終えた時、悲鳴嶼の手が頭を撫でた。
「……痣のことは聞いているか。寿命の話は」
「あ、はい、聞いてます。柱の皆さんも発現させる目標を立てたのだと」
「ああ。私はまだ痣を出していないが、それはきみが強くなったからだ」
「………?」
悲鳴嶼が痣を出すことと炭治郎の強さが関係している。どういうことかと問いかけると、頭から手を離した悲鳴嶼は上半身の止血を始めながら教えてくれた。
「私はすでに二十五を超えている。上弦の弐との戦闘で早々に痣を出してしまった時、無惨討伐まで保たなくなっては困るからな。温存できたのが有難い」
痣を出した者の寿命は二十五を超えられない。産屋敷の内儀であるあまねはそう炭治郎に教えてくれた。自分の寿命のこともかなり衝撃ではあったけれど、それを知って尚発現させることを柱は目標とした。
止められないのだ。柱がいなければ、身体能力を爆発的に高めなければ、上弦の鬼も鬼舞辻無惨も倒しきれはしないのだから。
悲鳴嶼はもう二十五を超えている。痣を出せばどうなるかがわからない。もし無惨を無事倒せたとしても、悲鳴嶼の寿命は朝まで保つのだろうか。
「………、……でも、」
きっと柱は皆痣を出す。義勇も出してしまうだろう。鬼舞辻無惨を倒すことを目的としているのだから、そんなことは終わってから考えればいいとも思う。この戦いで生きている者がどれだけいるのか、今はまだわからないのだから。
それでも。
炭治郎が言い淀んで黙り込んだ時、悲鳴嶼の大きな手がまた頭を撫でた。
「……きみは師によく似ている」
「え……」
そんなことは初めて言われた。
いつもいつも、あの静穏さをどうすれば身につけられるのかと考えていたほど、炭治郎は義勇とは似ても似つかないはずだ。煉獄にも見習うよう言われたことがあったのに。
「義勇にも負けない優しい子だ」
「……そんなことは……」
悲鳴嶼は義勇の優しさを余すところなく知っているのだろうか。あの優しさと同じくらい、炭治郎を優しいという。
そんなことはないだろうに。炭治郎は今まで出会った中でも、ひと際わかりにくくて優しい人は義勇以外に知らない。そんな人と同じなどと、さすがに恐縮してしまうが。
「……でもやっぱり、嬉しいです」
「そうか」
恐れ多いとは思っても、尊敬する師と似た部分があると言われるのはやはり嬉しかった。