産屋敷の誤算
鬼舞辻無惨は必ず産屋敷邸へ乗り込んでくる。
そう予測した産屋敷が、悲鳴嶼を呼んで病床から頼み事をしたのは少し前だった。
「この、束の間の平穏……禰豆子を探しているんだろうね。ここへ乗り込んできたその時は、何をもってしても、その場で殺さなければならない」
たとえ我々の命が脅かされていようとも。
そばに控えるあまねの手を取り、産屋敷はそう苦しげに呟いた。
彼は鬼舞辻無惨を殺すため、囮になることを悲鳴嶼に伝えた。あまねと娘二人も巻き込み、屋敷共々爆破させるという。
「……無惨の頸を取る機会は逃してはならない……」
駒であると自称する産屋敷は、隊士たちを巻き込んできたことを悲しんでいたのを知っている。
だが一人であの男を殺すことはできない。誰かの協力がなければ討伐などできないのだ。
利用されたと恨んでいるような者は隊には存在しない。珠世とカナエたちが作っている薬は、産屋敷邸へ送ってもらう手筈となっている。無惨が産屋敷邸に乗り込み、囮である産屋敷を殺した隙に取り込ませる算段だといった。その後はこの屋敷を妻子諸共爆破させ、無惨を拘束させる用意があるとも産屋敷は言った。
「私の代わりは輝利哉に任せている。きみにしか言えない計画だ。……義勇は、予感がしているだろうけれどね。これ以上……大切な子供たちを死なせたくはない……」
悲鳴嶼としてもできることならば産屋敷たちを助けたい。悲鳴嶼の恩人なのだから、そう考えるのは当然のことだった。
だがそれでは鬼舞辻無惨は討てないのだ。
全てを終わらせるために、どんな犠牲を払ってでも滅殺しなければならない。
それが何より大事な者が命を張ろうとしていても。
産屋敷の予測が外れたのは、後にも先にもこの時が最初で最後だったが。
*
「最後に人として接してくれたことを感謝します。……ありがとう」
鬼舞辻無惨を殺せる目処が立ったのだから、不安なく託せる。何百人と殺した償いをしなければならない。愈史郎をよろしく。言いたいことは全て言い切るとでも言うように、珠世はカナエたちに伝えて拠点から逃がした。
珠世の覚悟は固かった。きっと決めていたことだったのだろう。
過去に起こした罪の償いをしなければならないのは確かだけれど、医者として人を助けてきたことは償いというわけではなかったのか。本人の気持ちはそうではないのかもしれないが、カナエにとっては、珠世はただの有能な医者で研究者だった。禰豆子が太陽を克服することまで予測を立てていたのだ。
だが、人の覚悟に口を挟めるものではない。珠世がそう決めて説得の余地がないのならカナエには止められないのだ。
珠世の居場所を晒し、鬼舞辻無惨を誘き寄せる。
彼女の血鬼術は幻を見せ惑わせることも可能だという。愈史郎の血鬼術も使って補強するそうだ。
鬼舞辻無惨に効くかどうかはわからないが、愈史郎は珠世が作り出したただ一人の鬼だ。愈史郎の血鬼術が無惨に効く可能性に賭けるという。禰豆子が珠世の元にいるという幻惑を見せ、珠世の元へ来させる算段だと言った。
産屋敷には伝えていないという。珠世の独断で鬼舞辻無惨と対峙することを決めていたようだった。
どうにか彼女に生きていてもらうことはできないかと悩んだが、覚悟を踏み躙ることも、この先に起こることも考えると止められない。ただ成功することを祈りながら、珠世の贈り物はカナエが産屋敷へと届け、錆兎は蝶屋敷へと走った。
*
「鬼舞辻無惨……お前が来るのを待っていた」
この男が滅ぶ時を、珠世は何百年も待っていたのだ。小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、忌々しいこの男は珠世へと一歩ずつ近づいてくる。
「そう言いながら隠れていたとはな。竈門禰豆子はどこだ珠世」
「……こんな血鬼術にかかるなど、お前も耄碌したようですね」
無惨が浮かべていた笑みが消えた。
この場に禰豆子はいない。珠世と行動を共にしているなど、考えればそんなことは有り得ないとすぐわかっただろうに、目的のものが見つかって浮かれてでもいたのだろう。禰豆子はずっと竈門炭治郎とともにこの男と戦っているのに。
珠世の馬鹿にした言葉が鬼舞辻無惨に効いているらしく、余裕を見せていた笑みは全く浮かばなくなった。
「この私を謀るとはな」
「………っ!」
肉弾戦で珠世に勝ち目はない。瞬きの間に珠世の目の前に立った無惨の腕が、珠世の腹を突き破った。その拍子に珠世もまた手ごと持っていた薬を無惨の腹へ飲み込ませた。
浅草の悲劇に見舞われた男性の血鬼術を使い、珠世はその場に無惨を拘束することに成功した。足止めは今は一瞬でいいのだ。同時に手の中の薬の容器が割れた。
「私の拳を吸収しましたね、鬼舞辻無惨」
「………!? 何をした珠世!」
「鬼を人間に戻す薬をお前は取り込んだ。せいぜい怯えて死にゆけばいい」
およそ人とは思えないような笑みをにたりと浮かべた珠世は、少しでも胸がすくような思いをしたくて無惨を煽った。苦しめばいい、地獄へ落ちればいい。いつか来る因果応報は今からだ。
珠世を吸収すればその分早く死に近づくことになる。珠世たちが作った薬は分散して持ち出しており、珠世の分が駄目だとしてもまだ予備があるのだ。カナエたちに託し、こうして無惨の足止めをしている。珠世の体内に取り込んで保管した分と手に持っていた分。カナエとしのぶに託した分。珠世の持つ量だけで効くことを願う。
「お前が惨めったらしく死んでいくのを見られないのだけが残念だ」
無惨の手が珠世の頭を掴み、鋭利な爪が珠世の目に突き刺さる。珠世の霞んだ視界の端で鴉が叫び、鬼狩りが集まってくるのが見えた。ひと際大きな体躯の男が鉄球を振り回し、無惨の頭を殴り潰した。
その男の近くには、禰豆子を見逃したあの男が静かに立っていた。
髪を一つに纏めた、涼しげな目の男。珠世を見逃したあの男を彷彿とさせる男。一瞬だけ驚愕に揺れた目が珠世へ向けられる。その少し後ろに炭治郎が顔を歪めて現れた。
鬼を鬼ではなく、人として扱ってくれた人たちに託すことができる。鬼舞辻無惨を滅殺する悲願を。
「鬼舞辻無惨だ! 奴は頸を斬っても死なない!」
「これで私を追い詰めたつもりか!」
何もなかったはずの場所から建物が生えてくる。陽の光の届かない場所へ閉じ込もるつもりなのだろう。相変わらず生き汚く逃げ癖のある男だ。
だが、薬の分解は時間がかかる。珠世が抑えつけている間に、彼らが無惨を殺してくれるのを期待した。
珠世の特攻は鴉が先に伝えていたらしく、カナエは知っていたことを深く謝罪しながら痛ましい姿に胸が痛くなった。
「そうか……私の作戦は出し抜かれてしまったね。無惨が……私より珠世さんの、元へ行くとは……」
「幻惑と愈史郎さんの血鬼術は無惨に有効だったようです。禰豆子ちゃんが珠世さんの元にいるという幻術を使うと言っていましたから」
顔半分を包帯で覆い、病床から必死に抜け出そうとする産屋敷をあまねが支える。カナエは慌てて動かないよう進言したが、産屋敷は聞くことはなかった。
「私の、命はもって夜明けまでだ……今更安静など必要ないよ。彼女や子供たちにばかり任せていては、私の立つ瀬がない」
吐き出した血が布団を汚す。
子息はすでに新しい拠点へ移動させていて、今ここにいるのは産屋敷とあまね、そして息女二人のみ。向こうに移動するには産屋敷の体に負担がかかり過ぎて現実的ではないが、こちらでもできることをすると産屋敷は言った。
「カナエ……珠世さんから預かったものを」
「……はい」
己の命を囮にするつもりだったことを知った今、珠世からの包みの中身が何なのか、カナエは予想がついてしまった。
「鬼狩りである子供たちが全滅した最悪の場合……無惨は必ずこちらにやってくる。我が一族の血を根絶やしにするために。……だが、それでは遅いからね」
己の城に引き篭もったのなら、引きずり出さなければならない。陽の光の当たる場所に。産屋敷の目の前に連れてくるつもりなのだろうか。
「子供たちへの指示は……輝利哉が上手くやるだろう。あまね……カナエと蝶屋敷へ避難しなさい」
「はい」
「お館様、」
「あまねたちを頼むよ、カナエ」
「………っ、……はい」
産屋敷の指令に否など言うことはできない。そのまま下がるようカナエに告げられてしまい、廊下で唇を噛み締め、爪が食い込むほど拳を握った。
「カナエ様」
「は、はい。申し訳ありません、すぐに参りましょう」
「いいえ」
襖を閉めて少し歩いた先で、あまねはカナエへ声をかけた。
あまりに落ち込んだカナエの様子に見兼ねでもしたかと慌てて顔を上げると、いつもの美しい顔がカナエを見つめていた。
「私は産屋敷とともにこちらへ残ります。娘二人をお連れください」
「………、そ、れは」
「本来なら、この屋敷ごと我々は鬼舞辻無惨に襲撃されるはずでした。最期は産屋敷のそばに居させていただきたいのです。我儘をお許しくださいませ」
深く頭を下げるあまねにカナエは何も言うことができなかった。
自分の伴侶のそばにいたい。その気持ちはきっと、夫婦なら誰しもあるものだろう。巻き込むつもりだった娘二人だけはせめて助かるようにと、母親の思いが伝わるようだった。
我慢できずにカナエの目から涙が落ちる。
無理やり連れていくことがあまねにとって良いことかどうか、カナエは答えを出すことはできない。生きることが大事だとわかっていても、カナエはその気持ちがわかってしまったからだ。
「……あまね様……」
絶対にここには来させないと言えたらよかったのに。そうすれば二人とも、二人の時間を過ごせたはずなのに。
鬼舞辻無惨を討ち取るのは今夜。それ以外はない。
産屋敷邸を囮にすることを珠世にも伝えていたはずだが、彼女はそれを逆手に取ったということだ。
信じていたのに裏切られてしまったらしい。産屋敷は小さく笑みを浮かべた。
「やはり残ったのかい、あまね」
「はい。最期までおそばにおります」
動かない体を必死に動かして包みを引っ張った時、襖が開いてよく知った人の気配が室内へと入ってきた。
蝶屋敷へ避難するよう伝えた時彼女は返事をしていたが、産屋敷はあまねが残ることを予測していた。
上手く体は動かないのだから、誰かの手を借りなければ薬も仕込めないのである。
「珠世様からの包みに文が」
「そう。……読んでくれるかい」
産屋敷を出し抜いたことについての詫び、そして後を託すという頼み。それから完成した人間返りの薬が一つ。
産屋敷の命は朝日を拝めるかどうかまで差し掛かっている。無惨自ら動くほど追い詰めたのは何百年ぶりか。
己の代で必ず鬼舞辻無惨を殺さなければならない。そのための犠牲は、子供たちであろうと払うつもりだった。
「皆、苦労ばかりかけてしまった……大丈夫、すぐに向かうよ。輝利哉に鴉を飛ばしておくれ。無惨をこの場所に引きずり出すように」
珠世が送った人間返りの薬を、力の入らない手で強く握り締めた。