師弟、兄弟、兄弟弟子

「見えたか」
 しばらくして道場に戻ってきたのは義勇だけで、宇髄はあのままどこかへ向かったようだった。
 道場の隅に正座し、見学していた時から微動だにしなかった炭治郎に、義勇は静かに問いかけた。
「……全部は見えませんでした」
 善逸と伊之助、カナヲが不思議そうに炭治郎へ目を向けたのがわかった。
 原理がわかれば考える。
 そう義勇は以前口にした。義勇が編み出した拾壱ノ型、凪を炭治郎に教えるかどうか、余地を持つと言ってくれたのだ。
 もしかしたら先程の手合わせで使ったのも、炭治郎に見せる意図が含まれていたのかもしれない。
 義勇の想いが詰まった技だ。義勇が守りたいものを守れるように編み出しただろう技。唇を引き締めて炭治郎は義勇を見上げた。
「やっぱり俺も覚えたいです。義勇さんみたいに綺麗に身につくとは思えないですけど、もしかしたら俺も、あの型で誰かを守れることだってあるかもしれません」
「わかった」
「一つを極めることも大事です、けど、え、あら?」
 相槌のように義勇が呟いた言葉に炭治郎は反応が遅れた。
 竹刀を持った義勇が道場の真ん中まで戻っていく。善逸が不安げに炭治郎と義勇を見ていた。
「見えたんだろう。試してみろ」
 今。今か。そりゃまあ稽古中ではあるが、なんて判断の早さだろう。
 常々言われていたことだ。判断が遅ければその分任務でも遅れが生じる。正しい判断を瞬時に下せるようにならなければ、人の命どころか自分すら守ることなどできはしない。そう、できるわけがないのだ。
「は、はいっ! ええと、」
「深く考えるな。見えたとおりにやれ」
「――はい」
 竹刀を構えた義勇が攻撃を仕掛け、炭治郎は日輪刀で受ける。目を奪われるような剣技から、炭治郎へ向けて放たれる攻撃。雫波紋突き。
 攻撃を、斬る。斬る。ただ只管に斬る。
「き、うわあ!」
「ぎゃあっ! 炭治郎ー!」
 突きの回数が多くて思いきり食らってしまい、炭治郎は道場の壁に弾き飛ばされた。三人が避け、大きな音を立てて埃が舞った。庭で休んでいた隊士たちが何事かと慌てたように覗き込んできた。
「も、もう一度お願いします!」
 慌てて立ち上がりながら叫んだ時、義勇の口元がふと綻んだのを炭治郎は感じ取った。
 あの昔馴染みたちには見えていた義勇の笑みが、ようやく炭治郎へほんの微かに向けられたのだ。嬉しく感じている匂いが漂ってくる。
「どうした」
「いえ、大丈夫です。お願いします!」
 拾壱ノ型を教えてもらうことも、義勇が炭治郎に笑みを向けてくれたことも、色々と嬉しいことが重なって炭治郎は舞い上がりそうだった。まあ、斬り損ねた攻撃は炭治郎に向かってきて、喜んでいる暇はなかったのだが。
 攻撃を斬る、只管に。たったそれだけの、身体能力任せの力技。だからこそ技巧の差が顕著に出てしまう技だ。義勇が欲したのはそれだけの、誰も死なせないための技だった。
 初めて見た時は何をしているのかも見えなかったけれど、今ようやく教えてもらえる地点に立つことができた。いずれ義勇の隣で、足手まといにならず、煉獄のように連携しながら戦いたい。それができるようになるのは、きっとそう遠くないのではないかと希望を持つことができていた。

*

 玄弥の師である悲鳴嶼の元に炭治郎が来てしばらく経った頃、倒れ込んでいた炭治郎の濃くなっている痣に突っ込みを入れつつ和やかに会話をし始めた。以前に比べれば大した違いである。
「冨岡さんがさ。お前のこと、行動制限するつもりはもうないって言ってたことがあったんだよな」
 不思議そうな顔を向けた炭治郎に、玄弥は以前までのやり取りについてのことだと口にした。
「俺と衝突ってか、腕折ったりとか色々あっただろ。そういうのいちいち気にしないっていうか……もう、って何だろって気になったことがあったんだよな」
 まあ、いざこざを引き起こすこと自体は頭を抱えていたようだが、師だからといって説教して反省させるだとか、そういうことはしないという話だった。寡黙な人だし、人に何か言うのは苦手なのかもしれないとも思ったことはあるけれど。
 少し考え込んだ炭治郎は、ああ、と思い当たったように相槌を打った。
「それはたぶん、俺、二年くらい義勇さんのところに匿われてたんだけど、それのこと言ってるんだと思うよ」
「匿われてた?」
「うん。禰豆子が鬼になって、義勇さんは斬らないでいてくれた」
 鬼狩りの道を示してくれて、冨岡のところに辿り着いて、禰豆子を匿いながら修行をつけてもらっていた。その当時、他の鬼狩りに見つかれば妹の命はないと低めに脅されていて、二年の間炭治郎も隠れながら過ごしていたのだと言った。
「まあ早々に悲鳴嶼さんに見つかって死ぬところだったんだけど」
 何やら冨岡の屋敷に辿り着いた時、悲鳴嶼の鉄球が炭治郎目がけて飛んできて玄関が吹っ飛んだそうだ。当時は冨岡も怖いと感じたらしいが、悲鳴嶼のほうがよほど恐ろしかったという。
「義勇さんがいなかったら確実に殺されてたなあ……。まあ、だから俺の行動制限っていうのはそれのことだと思うよ」
 禰豆子を斬らずにいて、炭治郎と禰豆子を匿った。鬼狩りなのに、鬼殺隊の水柱なのに。噂にも話にも聞いていたけれど、当事者から聞くと更に驚きがあった。
「……凄いな」
 そんなこと、柱になれば決断できるのだろうか。いや、悲鳴嶼ですら問答無用で炭治郎ごと殺そうとしたというし、普通なら見逃したりしない。鬼の中でも禰豆子は特別だと今なら皆わかっているけれど、当時は冨岡も葛藤したりしたのだろうか。
「うん。義勇さんは凄い人なんだ」
 恩しかないのに恩返しがなかなかできないと悩んでいるらしい。教わること、してもらうことばかりで、日常のちょっとしたことくらいしか炭治郎は返すことができていないと落ち込んでいた。
「玄弥は話したりするのか?」
「あー……たまに、かな。兄貴とのこと、気にしてくれてるみたいだけど、あの人話すの得意じゃないだろ。しかも兄貴は色々気が立ってるから、冨岡さんも話を聞いてもらえないんだってよ」
 玄弥とのこと、竈門兄妹のこと。兄が気に食わないことばかりが起こり、悲鳴嶼も手を焼いていると言っていた。
 昔はもっと穏やかだったけれど、きっと玄弥が言ってしまったことで変わってしまったのだ。それはそうだ。守ろうとしてくれたのに、その守った身内から人殺しなどと罵られ、更には鬼に変貌したのは大好きな母親だったなんて、玄弥なら発狂してしまいそうな出来事だ。
 だからこそ謝りたいけれど、兄はもう玄弥のことは弟だと認識してはくれていない。
「そうなんだ……ああ、そうだ玄弥、お兄さんといえば。あの人はさ」
 炭治郎自身も兄とは接見禁止を言い渡されている身だった。そんな炭治郎から聞かされた話は、玄弥にとってこれ以上なく救いになるような話だった。

*

 隊士の手から零れ落ちた手紙が悲鳴嶼の足元までひらりと落ちた。小さく囁くほどの声量で呟いた名に、悲鳴嶼は合点がいった。
「お前が弟弟子だったのか」
 纏う空気が不安定で歪みきっている。今にも叫んで泣き出しそうな混乱を感じた。
 獪岳の名を呼んだのは我妻善逸。悲鳴嶼の稽古にもひと際騒がしくしていた隊士だ。義勇が言っていたのは我妻だったのだろう。
「義勇から少し聞いている。獪岳の弟弟子がいたと」
 獪岳の名に動揺した悲鳴嶼に気づいたのか、義勇はあれ以降話題に出すことはなかったが。
 悲鳴嶼は思い違いをしていたのかもしれない。
 獪岳が鬼殺隊にいるということがどういう意味を持つのか、ずっと考えていた。
 寺に鬼を引き入れたのは獪岳だった。だが今はどうだ。わざわざ鬼殺隊に入隊し、鬼を斬って過ごしているというではないか。
 もしかしたら、鬼を引き入れたというのは嘘で、香炉が消えたのも偶然で、当時の獪岳はただ寺から脱走しただけだったのではないか。そんな希望のようなものを抱いたが、我妻の空気は澱んだままだった。
「……何があった」
 空気が揺れて引き攣るような音がする。普段からよく泣く子供ではあったが、普段と比べ物にならないほど絶望感に満ちた泣き方だった。
 落ち着くまで悲鳴嶼は我妻の隣で待った。しばらくしてようやく会話ができるくらいまで落ち着いた時、我妻が口を開いた。
「俺はあいつを許さない」
 稽古中泣き出すことも逃げ出すこともあったが、我妻がここまで怒りを増幅させたことはなかった。
 あいつというのは誰のことか。問いかけようとした時、震えた声で我妻は呟いた。
「……隊士が鬼になったら、育手は責任を取るために切腹するって」
「―――、」
「介錯もつけずに爺ちゃんは……。俺は、あいつを、……尊敬してたのに。何であいつは鬼になったんだ!」
 何ということだ。
 最悪の事態が起こったということか。
 ぼろぼろと苦しげに泣いている気配がする。
 我妻の兄弟子である獪岳が鬼になり、その責任を取るために我妻の育手は腹を切った。介錯も立てず、たった一人で。
「何で……爺ちゃんは、ずっとあいつのことも大事にしてくれてたのに……」
 稽古に現れないのは、どこかで立ち止まっているからだと思っていた。生きているのならそれでいいと考えて、話をすることを躊躇していた。もっと早く向き合っていれば、未来は変わったかもしれないのに。
「……取り乱してすみませんでした」
「いい。辛い時は吐き出すのも大事だ」
 喚いて泣いて暴れかけた我妻は、しばらく泣き続けると少し落ち着きを取り戻したらしく、腫れ上がった目を擦りながら悲鳴嶼へ謝った。
「……人を、殺してない可能性だって。……いや、あいつは殺してるだろうな。とにかく認められたい奴だから、鬼になったら人だって、き、きっと」
 いや違う、最後の理性くらいあるはずだ。禰豆子ちゃんがそうなんだからあいつだって。そう呟きながら我妻はまた涙声になっていく。
 わかっているだろうに、希望はどうしても捨てられないのだろう。
「……人を殺していない可能性はある。だが、特別なのは竈門禰豆子だけだとも思っておいたほうがいい。……鬼とはそういうものだ」
 きっと喰っていない、などという理想は会ってから考えるべきだ。今からそんな希望を抱いても、現実はそんなものを軽く打ち砕いてくるものだ。悲鳴嶼はそれをよく知っている。
「……わかってます、それくらい……。あいつはきっと、認めてもらうために何でもするんだ。鬼殺隊に認められたいだけならよかったのに……命を惜しんで鬼に魂を売ったんだ!」
 子供の頃から変わっていないのか。それとも成長するにつれて変わってしまったのか。悲鳴嶼の知りたい真実は、もはやわかりようもなくなってしまった。
「爺ちゃん……俺がケリをつけないと……」
「………」
 獪岳。鬼殺隊に入ったのは何のためだったのか。
 弟弟子を泣かせ、育手を殺した。ただその事実だけがこうして目の前にある。悲鳴嶼が見たかったものとはまるで正反対の事実だった。ただ現実に打ちのめされ、泣いている我妻の背を擦りながら、悲鳴嶼は深く後悔した。