柱稽古にて
鬼の出没が止まってから、鬼殺隊では隊士たちの能力向上に向けた稽古が始まった。
柱を辞した煉獄としのぶを抜いた七人の元を順繰りに回っていき、初心者向けの基礎訓練から順番にみっちり鍛えられる内容になっている。
本当に憂鬱だった。最初の宇髄の稽古すら逃げ出したかったくらいなのに、あの悲鳴嶼と冨岡の稽古のようなのが残り六つである。初心者向けなどと謳っているが、所詮それも始めの宇髄のところだけだ。宇髄だって普通に厳しかったし。楽しみなのは甘露寺のところだけである。
大体、善逸はそれ以外にも気にかかることがあった。
明確に順番は決まっていなかったが、階級の高い者から先に稽古は始まっていた。善逸たちも昇級しているので早い段階で受けるわけだが、善逸より前にいると思っていた男が見当たらないのである。
まさか善逸が階級を追い抜いたなんてことはないはずだが。
宇髄に聞いても隊士は多く、いちいち顔と名前まで覚えていないと言われてしまい、納得がいかないまま善逸はそのことを頭の隅に追いやった。片手間にやれるような鍛錬ではなかったからだ。
隊士になってからというもの、手紙を送っても返事は来たことがない。善逸だけに送らないのならまだいいが、せめて育手の桑島には送っていることを祈る。
ふと長い先に待ち構えているはずの炭治郎の師を思い浮かべた。
悲鳴嶼と冨岡の稽古には、炭治郎に呼ばれて参加したことが何度かある。そういう時には周りに混じって会話はしていたけれど、ごく稀に彼は善逸へ質問することがあった。
兄弟子は息災か。
善逸はあの隊士を殴った一件以降顔を合わせることがなく、また死んだという報せもないので恐らく、としか答えられなかった。不安げに顔を見ると特に顔色が変わることもなく、冨岡はそうかと呟いて善逸から離れていった。
どういう関係なのか結局聞くことはできなかったが、冨岡自身は獪岳を気にかけている。わかりにくい人ではあるが、確かに心配しているようなのだ。
柱稽古で顔を合わせることができたら、もう一度獪岳に聞いてみようかと善逸は考えていた。獪岳自身も気にしていたような素振りはあったから、今も気にかけてくれていると言えば少しは頑なさが取れるかもしれない。そう考えて善逸は兄弟子の姿を探しながら稽古に励むつもりだった。
まあ、あんまり厳しいので休みの時にしか思い出せないわけなのだが。
柱稽古が始まってから、炭治郎は自分の力が以前よりも強くなっていることを自覚したのだが。
宇髄と時透の稽古を抜け、甘露寺とのおやつの時間――基、柔軟を終わらせ、伊黒の太刀筋矯正と私怨のような嫌味攻撃も何とか抜け出し、未だ接見禁止中の不死川のところは悲鳴嶼の手が空いている時のみ、監視下のもと受けるという制限があったのだが、早々に悲鳴嶼から次に向かうよう指示が出たので何とか私闘と判断されることはなかった。
竜巻地獄のような稽古から一変。勝手知ったる義勇の屋敷では、まるで嵐の前の静まり返った空気が逆に肝を冷やすような気分だった。
義勇に師事してから二年以上、炭治郎は色々と感じてきたことがあった。
義勇が血を流して戦った上弦の弐との戦闘を見ても、炭治郎には義勇の底は見えなかった。
彼の実力を過不足なく測れるほどの力が炭治郎にはなかったからである。あの時は炭治郎という足手まといがいたけれど、庇うものが何もなかった時、彼はどれほど強いのだろうと考えたことがあったのだ。
だが底の深さがどのあたりなのかはわからなくても、彼が強いということだけは、屋敷に来る前からわかってはいた。初めて会った時から敵わないと感じ、ふとした時にも感じることがあった。
それは成長できたと感じられた今もそうなのである。
だから稽古の内容が、そんな人から急所を守りきれたら終了などという、とんでもないものだったことに炭治郎は目眩がした。
ここに来るまでに疲労困憊になっている隊士たちは、何というか諦めにも似た匂いを燻らせていた。
しかも柱稽古はまだ先がある。悲鳴嶼の稽古は義勇の後だ。
五人の稽古、ここまででも何とかできたことだというのに、無理難題過ぎないだろうか。いや、普段の鍛錬も大概なものだが、それはそれである。
何を弱気なと思われるかもしれない。
確かに守らなければ死に直結する部分である。重要なことだ。それは皆わかっているけれど、少しも思うとおりにいかないあたり、やはり炭治郎にはまだ義勇の力量を測れるだけの力がないのだろう。残念だが。
「炭治郎はいけそう……?」
「いや、全然。まず逃げられる気がしないし」
「直弟子がそれは駄目じゃん。俺らとか完全合格できないじゃん」
休憩時間が決められていてよかったと思うくらいだった。でなければずっと義勇に狙われ続けて精神が先に摩耗する。鬼との戦い、それも上弦や鬼舞辻無惨が相手では休む間もなく攻撃は向けられるだろうから、義勇の稽古など優しいものなのだろうとは思うが。
「―――っ!」
「油断するな。鬼は待たない」
「っ、はい!」
炭治郎は少し凹んでいた。
先に来ていたカナヲが呼ばれ、一人で義勇の攻撃を受けているからである。
まず一人で義勇から急所を守ること自体がすでに凄い。周りでへばっている隊士は呆然と二人を眺めていた。炭治郎もただ眺めていた。
カナヲは義勇からの攻撃を最終的には食らっていたが、何度か避けているのである。表情も匂いも必死だったけれど、目を開けたまま逸らさず、動きを見落とさないようにしているようだった。
「………」
「ま、まだいけます」
義勇が動きを止め、竹刀を持つ手を下ろした。休憩かと思ったのだろうカナヲが声をかけたが、義勇は休ませるつもりではないようだった。
「よく視ろ」
言葉と同時に義勇の竹刀がカナヲへ振るわれる。緩い力で振るわれていたのは炭治郎にもわかったが、カナヲは最小限の動きでそれを避けた。
「は、はい」
間髪入れずに切っ先が更に向けられる。どんどん速くなる太刀筋にカナヲの表情から困惑が削がれ落ち真剣味を帯び、更に表情が強張っていく。カナヲでも義勇の攻撃を避け続けることは難しいのだろうが。
向けられる竹刀を避け、逸らし、受ける。期待のような匂いがした。
「目だけじゃない、極限まで集中しろ。お前が見てるもののすぐ先にある」
カナヲが追い詰められていくように後退りしていく。二人の稽古、もはや死合にも見えるそれを、炭治郎はただじっと見つめた。
極限の先にある世界。それは義勇と悲鳴嶼がしている鍛錬の最中にも聞いたことがあった。決して視えるようになることを強制しているわけではないが、視えたほうが確実に良いもの。柱ですら視えていない者もかつてはいたという、透き通る世界の入り口にカナヲは近いのだろう。
義勇の攻撃を避けて避けて避けた時、カナヲの匂いがふいに変わった。その瞬間、眉根を寄せた義勇が容赦なくカナヲの竹刀を叩き落とし、彼女の目元を手の平で覆った。
「うっ!」
目元を隠されたカナヲは地面に力なく座り込み、乱れていた息を整えるように呼吸をした。
「使っていいとしのぶは言ったか」
「………、……い、いえ。命の危機があった時のみ……です。すみません……」
匂いが変わった瞬間、カナヲは何かしでかそうとしたらしい。それを義勇は無理やり止めたということか。周りの隊士はわかっていない者もいるようで、何故か目を輝かせている隊士もいた。
「お前が見てるものは透き通る世界に程近いが、肉眼で見ようとするな」
義勇が手を離すと、目を瞑らされていたらしいカナヲが瞼を上げた。腕を掴んで立ち上がらせ、縁側へとカナヲを座らせた。
「使い分けろ。五感の鋭い者はコツを掴むのも早い」
「は、……はい」
五感の鋭い者。炭治郎にも視える可能性があるのだろうか。だとしたらどれほど研鑽を積めば辿り着けるだろう。
「悪くねえなあ。おい、冨岡。付き合えよ」
最初の稽古を担当していた宇髄が、隊士は全員通り抜けたと言って手の空いている柱と手合わせに来たようだった。義勇とカナヲの稽古を見ていたらしく見応えがあったと笑い、左手を握ったり開いたりとしながら道場に掛けていた竹刀を手に取った。
「………」
「視んなよ、肩慣らしだっての」
「……爆破はするなよ」
何やら二人にしかわからないことと注意をしつつ、義勇は宇髄に向き合い竹刀を構えた。
もっと見たいと思っていた義勇の観察に丁度いい機会だった。炭治郎は道場に上がり、隅で見学することにした。それに倣い善逸と伊之助、カナヲも近くへやってきた。
「凄かったな、さっき」
「ううん。冨岡さんには、全部視えてたし……」
視えていた、か。確かにカナヲが何かをする瞬間、義勇はこの先何が起こるかを察したように竹刀を叩き落とした。透き通る世界は先読みも可能になると聞くが、そのおかげなのだろうか。まあ、とにかく。
先程までカナヲは受けるか避けるかで攻撃を仕掛けることはなかった。義勇がどんな動きで避け、どんなふうに攻撃を返すのかを見るのだ。あわよくば盗む。それができれば遠い遠い先へ近づく一歩になるだろう。
義勇は静かだ。稽古をしている時ですら清流を思わせるような静けさ、流れの穏やかさを感じる。ともすれば波紋すらないような、張り詰めた水面のような人だ。波打つことのない、冷たく硬い氷に近い。流麗で形のない水が、まるで捉えどころがなく躱しきれない攻撃を生むのかもしれない。
だが義勇自身の心は氷などではなく、真冬の水よりもむしろ春の麗らかな陽だまりに流れる川のような人だ。触れれば心地良い温度がある。そばにいると居心地が良い。
戦いが嫌いな、そんな人が、鬼との戦闘では驚くほど強いのだ。炭治郎が想像もつかないほどの鍛錬を課してきたのだろう。
「あー、残念。お前のそれ本当にでたらめだよな」
「宇髄」
宇髄が仕掛けた攻撃が義勇の凪によって無効化され、ようやく二人は立ち止まった。そして義勇が少し悩むような素振りを見せ、宇髄を連れて道場を出ていった。
「稽古で透き通る世界視てんじゃねえよ」
「蝶屋敷で診せたのか?」
無視かい。
溜息を吐きつつ宇髄は首を振った。冨岡の眉間に皺が寄り、理由を問いかけてきた。
「まだだよ、動くしな。しかも今胡蝶いねえし」
「神崎がいるだろう。血鬼術の治療も問題なくできる」
宇髄の左手に力が上手く入らないことを見破られ、手合わせ相手を間違えたと後悔した。
違和感が出てきたのは最近だ。上弦の伍との戦闘から復帰した時はさほど気にならなかったが、恐らくその時点で痛めていたのだろう。そして任務で段々悪化し、柱稽古が始まった頃からふとした時に痛みが走るようになってきている。
「無茶をすれば使い物にならなくなる」
「この先に待つ決戦は無茶するもんだけどな。まあ神崎には診てもらうわ」
腕がもげようと戦う術は持っているが、五体満足であるほうが戦力的にも良いのは間違いない。足手まといになるわけにはいかないのだから、できることはやっておくべきではある。
「心配すんなよ、お前以外と気にするよなあ」
他人など興味がないとでも言いそうな顔をしておいて。
悲鳴嶼はずっと冨岡のことを情け深いと言っていたし、宇髄の目にも周りを気にかけていたように見えていた。間違いなく冨岡は悲鳴嶼が言うとおりの奴である。
「俺より胡蝶心配してやれよ、稽古できねえんだからさ」
「……してる」
有能であることは間違いなく、鍛錬にも余念がなかった胡蝶は間違いなく強い。だが強くても簡単に死んでしまうのが鬼との戦闘だ。それはこの世界に足を踏み入れた時から思い知っているが。