共同開発と勘違いと失言と

 爆発したしのぶの怒りはカナエには効かなかった。
 普段あれだけ柔らかい空気を醸すカナエは、鍛錬の時は厳しく柔らかさの欠片もなかった。その当時を彷彿とさせるほどである。
「結果を見なさいしのぶ。私は何度も鬼の棲家に向かって無事ここに戻ってきてる。言わなかったのは守秘義務があったから。いくら柱といえど特殊な任務の内容までは担当以外には知らされなかったはずでしょう」
「それは、そうだけど……姉さんは隊士じゃないのよ」
「でも鬼殺隊の一員だわ。適任が私しかいないなら私が行くのは当然のことよ」
 鬼との薬の共同製作。炭治郎が出会った鬼が医師をしていて、鬼舞辻無惨を倒すために手を組んだ。禰豆子を人に戻すための研究をしていて、それにカナエが噛んでいるという。
 しのぶに話が来たのは、その研究以外にも役に立つことがあると踏んでのことだと言った。
 確かに鬼殺隊預かりの蝶屋敷の主人なのだから、鬼殺隊の一員であることは間違いないけれど。呼吸を使えないカナエが丸腰で鬼の棲家に向かうなど、いくら隊士が同行しているとはいえ危険過ぎる。
「珠世さんを信じられないのもわかるけれど、一度会ってみてほしいの。きっとしのぶの研究にも役立つものがある」
 鬼を信じるなど正気の沙汰ではないと突っぱねられることはもうできなくなった。禰豆子を受け入れた以上、他にもそのような鬼がいることは有り得たことだ。そして現実に見つかっているのだ。
 しのぶに来た産屋敷からの指令は鬼舞辻無惨の無力化計画の遂行だ。その一環として秘密裏に作ったと聞かされた特務の存在。鬼との共闘を実現させるべく動いている特務隊の責任者は義勇であり、カナエの任務は義勇からの要請だというが、それを求めた本来の目的が産屋敷からの指令内容だった。
 特務隊の働きは産屋敷が絶賛している。鬼への支援要請はカナエと炭治郎によってこうして了承を得たといい、その結果をもってして産屋敷は計画を進める算段なのだろう。全ては鬼舞辻無惨打倒のための布石だった。
 わかっている。それが実現できればきっと無惨を追い詰められる。わかっているけれど。
 唇を噛み締めたしのぶは大きく息を吐き出し、やがて眉根を寄せたまま口を開いた。
「……わかりました。その珠世さんという方の研究を手伝うのが任務ですね」
 感情の制御ができないのも、鬼への憎悪を無くせないのも未熟故だ。己の感情など後回しでいい。そうしなければならない場面に直面しているのだ。
 産屋敷がしのぶへ命じたのだから、しのぶはそれを全うする責務がある。研究に役立つことがあるというのなら、その分を利用させてもらうのが一番良いだろう。
 そうして心を殺して向かった先にしのぶへ敵意を向ける鬼がいたことは、はっきりいって最悪だとは思ったが、まあ、そこについてはしのぶの憎悪に気づかれたせいもあるだろうとは思っている。
 だが毒についての助言、禰豆子の血の研究、珠世自身がしていることについてはしのぶも目を見張ったものである。鬼にされたのは随分前だという話なので、その長い間培ってきたものがあるのだろうとは思うが、やはり悔しさは募る。
「――最後に細胞破壊。こちらは上手く使えば上弦の鬼にも使えるものになるかもしれません」
 毒はすでにかなり強力なものになっているが、上弦の鬼ともなると一発で効かない可能性もあり、自力で分解されてしまう恐れがある。薬も併用することで毒以外の効力も無効化しなければならず、そう簡単には攻略されないだろうという。
 数人の手では大量生産とまではいかないが、余分に作ることができれば使えるかもしれない。
 だが、鬼側で情報を共有される恐れがある以上、上弦の鬼には最終手段ということになる。
 鬼舞辻無惨に投与する薬も、毒以外の滅殺方法も考えたことがなかったしのぶは、珠世の話す内容が大層興味深かった。鬼であることを一瞬でも忘れたのは、しのぶ自身驚くことだった。
 鬼舞辻無惨と袂を分かった鬼。存在を産屋敷は知っていた。その鬼が人を襲わないことも。
 底知れぬ方だ。禰豆子の存在は、もしや産屋敷には予想できたことなのだろうか。
「それから、……鬼舞辻無惨が探しているものがありました。今も探しているかはわかりませんが」
「それは?」
「青い彼岸花」
 鬼舞辻無惨と珠世が行動を共にしていた時に探させていたことがあるのだという。
 花を愛でる感性など持ち合わせているはずもなく、何を企んで手に入れたいのかはわからない。何かの比喩表現の可能性もある。だが、当時は間違いなく探していたのだという。
「彼岸花に青なんて、自然のものなのかしら」
「珠世様は比喩表現かもしれないとも仰っている。話を聞け醜女」
「大事な話をしてるので黙っててもらえます?」
「……愈史郎」
 しのぶが睨みつけながら口にした言葉に、珠世の付き人だという愈史郎もまた顔を歪めて睨み返してきた。窘めるような声音で愈史郎を呼んだ珠世の対面には、困ったように笑いながらしのぶを宥めるカナエがいた。
「鬼殺隊の情報網ならあるいはと思いましたが、公に探すとあの男に嗅ぎつけられる可能性もある」
「地道に探すしかないということね。わかりました」
 何に使えるかわからない、実在する花であるかもわからないもの。だが鬼舞辻無惨は間違いなくそれを欲しがっていた。
「義勇くんと炭治郎くんにも聞いてみましょう。任務で訪れたところに咲いてたこともあるかもしれないわ」
「そうね。私の担当地区にはなかったと思うけど……」
 向かうのは夜、鬼を殺してまわっているので、視界の隅に咲く花にまで気がまわっていないこともあっただろう。任務の際にはそこにも注意しておくことを決めた。
「じゃあ私たちは青い彼岸花の捜索と、珠世さんとは薬の精製を頑張りましょう!」
「……そうですね」
 愈史郎の敵意をひしひしと鬱陶しく感じながら、しのぶはその後カナエとともに珠世の元を去った。
 これから忙しくなる。耐えきれなくなる可能性も考えてはいたが、恐らくしのぶは大丈夫だ。
 珠世は遥かな知識を持っていて、鬼舞辻無惨への憎悪を感じることがあった。人を助け、自らを改造し、少量の血だけの摂取で人を襲わずに日々を生きている。
 こんなのは、しのぶの知る悪鬼ではない。
 後日カナエはしのぶを連れて任務報告のために義勇と炭治郎を呼んで集まり、そこで青い彼岸花の話を口にした。
 どちらも見た覚えも聞いたこともないと口にしてカナエは少しがっかりしていたが、気を取り直して二人にも任務の際に探してもらうことを頼むことになった。

 蝶屋敷で青い彼岸花の話を聞く前。
 本日の鍛錬からひと息ついて禰豆子の遊びに付き合っていた時のことだった。
 陽の当たらない一室で義勇は炭治郎と禰豆子に囲まれていた。何くれと話しかける炭治郎が隣に座り、禰豆子は義勇の膝を陣取り遊んでいた。
 来客というのも滅多となくなった義勇の屋敷にしのぶが現れた時、三人へ目を向けて一瞬だけ動きを止めたのに気がついた。
「炭治郎」
「あ、はい。禰豆子、おいで。お茶淹れてこよう」
 炭治郎が呼ぶと禰豆子は義勇の膝から降り、手招きされるままに部屋を出ていった。
 わざわざここに来る理由は思い当たる。今日はしのぶを連れて珠世の元へ向かうとカナエから報告されていたので、その件で言いたいことがあるのだろうと察したのだ。
「特務だなんて、そりゃ隊士どころか柱にも気づかれるわけにはいきませんね。珠世さんの存在、知ってたんですか」
「裁判のあと聞いた」
「会ったことは?」
「基本的には炭治郎とカナエに一任してるが、一度」
「さては会う前に任せたんですか、さすがですね。姉さんも炭治郎くんも信頼に足る人であることは認めますが……」
 皮肉を義勇に突き刺してくる。
 炭治郎やカナエからの報告だけでも、珠世が理性的な鬼であることはよく伝わっている。義勇が出しゃばるよりも良い結果をもたらすだろうとも思っているが、感情とはそう簡単に押し込められるものではない。特に、負の感情は。
「憎いか」
「多少はね。……医師としての彼女は、私や姉さんより遥かに経験も知識も豊富で。鬼だからこそ長く生きて知識を蓄えられもした。人にはできない芸当です」
 産屋敷が手を借りたくなる気持ちも理解できる。
 だがそれでも、しのぶ自身は憎しみも悔しさも感じている。鬼の手を借りなければ鬼舞辻無惨打倒は達成できないと突きつけられたような気分だと、ごく小さな声で呟いた。
「……お前たちの力が及ばないというわけじゃないだろう」
 己の二本の腕は大したこともできない戯けであるが、しのぶは違う。頸を斬る以外の鬼の殺し方を証明したただ一人の隊士だ。
 産屋敷の思考は義勇には及びもつかない。だが、それでも彼が口にした言葉は本心なのである。
「耀哉様は……考え得る最悪の状況を回避したいのだと」
「最悪……」
 鬼舞辻無惨滅殺の失敗、産屋敷含めた鬼殺隊の全滅。柱は皆自分が死することを恐れてはおらず、また産屋敷も自身の命を惜しいとは思っていない。彼が求めるのは昔からただ一つだけだ。
「……鬼殺隊の歴史の中でも、今の世代の柱が最強に近いと仰った。だが、それでも犠牲は少なくないだろう」
 この時代を逃せば鬼舞辻無惨を殺せる機会は訪れないかもしれない。鬼の首魁を滅殺するためなら、更には隊士の生存確率を上げるためなら、鬼に頭を下げてでも助力を求めることを厭わないのだと。
 ――任せきりにしておいてこんなことを言うのは納得がいかないかもしれないけれどね。私が直接動くよりも、炭治郎が打診したほうが早く協力を結べると判断した。
 産屋敷はそう口にして、珠世を本部へと招いたのだ。
 義勇が炭治郎とカナエに一任することも、指令を下す前から予想していたのだろう。
 任せきりというならば義勇もそうである。ただ、何が起ころうと特務の責任は全て負う。産屋敷自身がそうであるのだから、義勇も死ぬ前に出来る限りのことはしておきたい。
「間違いなく強いが、必ず倒せる確証はない。今のこの代で確実に倒すためには、鬼舞辻無惨を出し抜く必要がある」
 刀を振るえないのなら、頭を使わなければならない。命を懸けるやり方はいくらでもあるのだと産屋敷は言った。
 産屋敷の思考は義勇の想定など軽く超えてくる。何をしようとしているか、義勇には及びもつかないことを考えている。
 それが何なのか、危険なことをする気ではないかと不安にもなったが、それを恐れていては悪鬼滅殺など夢のまた夢であることも理解していた。
「……お前たちに死んでほしくないから、憎悪を押し込めての協力を頼んでいる」
「………。それ、あなたも入ってることは理解してますよね」
 義勇の言い方が気に食わなかったしのぶから突っ込まれ、産屋敷からも似た指摘をされたことを思い出し、一先ず小さく頷いた。まだ不審そうな目を向けていたが、しのぶは溜息を吐いて仕方ないと口にした。
「お館様の命ですからね、断る選択肢は元より作ってませんが……少し、整理できました」
「そうか」
「ええ、大丈夫。珠世さんであれば、……問題ありません」
「……確か、愈史郎という、」
 珠世の付き人のような鬼がいたはずだが、と続けようとした時、しのぶの空気が憎悪というより敵意を含んで膨らんだ。
 これは嫌いな隊士の治療があった時のような空気に似ている。まあ、向こうも当然だが敵意を隠していなかったので、しのぶにもあのような態度だったのだろう。
「あれさえいなければ、もう少し私も落ち着けるんですがね」
「……席を外してもらえ」
「そうはいかないようです。付き人などと自称してるし、珠世さんも手を焼いているようでしたが。まあ、あれはいいです。考えると腹が立つので。それはそうと」
 鬼でなくとも愈史郎とはあまり相性は良くないのだろう。しのぶは取り繕うことが多くなったが、本来負けん気が強くはっきりとして、頑固で怒りっぽい性格である。敵意を向けられればしのぶは何倍にもして返すような。
「……姉さんとこそこそしてたのはこの話ですか?」
「……してたか? 炭治郎と話すほうが多かったと思うが」
「………。いえ、どっちでもいいんですけど」
 しのぶがもじもじと言い淀む様子は珍しい。大抵義勇が言葉を発せず窘められることが多いが、何か言い難いことでもあるのだろうか。ついでだからと話すよう促すために口を開いた時、義勇はふと以前煉獄と話したことを思い出した。
「………、そういえばお前、俺がカナエを好きだと勘違いしてたな」
「あら、自覚してらしたとは驚きです。勘違いじゃないでしょう」
 自覚とは何だ。しのぶの勘違いが義勇の想定どおりのものであったことは、良くはないが置いておいて、頑ななしのぶにどう理解させるかを悩んだ。
 義勇が本当にカナエを好きだったとして、カナエの想い人は悲鳴嶼なのだから勝ち目など更々ないわけである。そしてそもそも鬼狩りである義勇は恋などしたこともなければするつもりもない。まあこれは見守りたがる悲鳴嶼などには通用しない理由である。
「確かに私は姉さんの恋を応援したいとは言いましたが……申し訳ないことをしたと思ってるんです。あなたが恋をすることを止めたいわけじゃないんですよ」
「いや、だから、」
「禰豆子っ!」
 蹴り倒された襖の奥から禰豆子が飛び込んできて、義勇にしがみつく禰豆子を炭治郎は謝りつつ必死に宥め始めた。
「す、すみません! お茶置いときますね!」
「……聞こえてました?」
「いえっ! 何のことか!」
 義勇とて得意なわけではないが、これでよく嘘を吐こうと思えるものだと逆に感心した。別人かと思うほど顔を歪めて苦しみながら話を聞いていなかったと宣う炭治郎に、もしや持病でもあるのかと疑いたくなるほどだった。
「どこから聞いてた」
 溜息を吐きながら問いかけると炭治郎は口元をもごもごとさせ、やがて小さく呟いた。
「……義勇さんがカナエさんを好きだってところからです……いや! お似合いだなって思いましたし、お互いよく知ってると仰ってたし、気が変わることもあると思いますので俺は応援します! ……わあ、義勇さんそんな顔するんですね」
 気が変わるとは何だ。
 どんな顔になっていたかはわからないが、滅多に動かなくなった表情筋が動いた気がするので、恐らくは相当嫌な顔になっていたのだろう。
 とりあえず額を押さえていると、しのぶはまたも勘違いしたまま口を開いた。
「色々考えましたけど、私も義勇さんを応援しようかと」
「ちょっと待て」
「いえ、確かに相手は凄く手強いですけど。大丈夫です、頑張ればきっと」
「そうじゃない」
 怒りが暴走することはあっても、ここまで勘違いが暴走することはあまりなかった気がするのに。勘違い自体が殆どなかったといえばそうである。
「……義勇さん、困惑してますね」
「当たり前だ。いいか、俺は別にカナエをそういう目で見たことは一度もない」
 首を傾げた炭治郎としのぶに言い聞かせるかのように言葉を口にした。少し悩んでいるような様子を見せた炭治郎は黙っていたが、大きく瞬いたしのぶが口を開いた。
「……そうなんですか?」
「そうだ。というか、……何でそんな勘違いが起こったのかわからん」
 聞く耳は持ってくれたようだ。義勇の疑問に少し悩む素振りを見せたしのぶは、ちらりと炭治郎へ目を向け、義勇へと視線を戻した。
 何故任務の話からこんな話に飛躍するのかもよくわからないが、義勇はしのぶの言葉を待った。
「それは……その。ええと……炭治郎くんはどこまでご存じかによって、話す内容が……」
「あ、俺外しますね! しのぶさん、義勇さんは本当に困惑しかしてないので、好きな人は今いらっしゃらないと思いますよ。禰豆子、ほらおいで」
「………。……あの子、色々狡いと思います」
 義勇の羽織を掴む禰豆子の手を離させ、慌ただしく部屋を出ていった炭治郎の足音が聞こえなくなるまで見送った後、しのぶは小さく呟いた。何が狡いのかよくわからず首を傾げると、しのぶはかぶりを振って何でもないと誤魔化した。
「……悲鳴嶼さんは恋をするつもりはないという話をしたことがあったでしょう。誰かが姉さんを慕ってるような話を」
 あった。とんでもない情報をさらりと伝えられ、義勇は非常に困ったのだ。不死川がカナエを好きだなどと、他でもない悲鳴嶼から教えられては何も言えなかった。
「……義勇さんがその人なのかと」
 要するに、カナエに恋慕している誰かを義勇が誤魔化したせいでしのぶが勘違いを発動したということらしい。義勇は頭を抱えた。
 まさかそんなところで。いや、そういえばあの頃からこの手の話題を避けるようになったり気を遣うような素振りを見せていたことがある。そういうことかとようやく腑に落ちた。
「……成程」
「まあ、誰が姉さんを、なんて野暮なことは聞きませんけど。あなたじゃないなら別に」
 どうせ悲鳴嶼がいる以上、カナエが他を見ることはないに等しい。そう呟くしのぶに、不死川がそうであることを告げたらどんな反応になるのかと少し気になった。この様子では悲鳴嶼以上という認識は恐らくしていないだろうが、柱であり頼りになる男なのは間違いない。
「……俺じゃなくても、他の柱とかなら」
「柱? 柱なんて癖のある人ばかりですよ。悲鳴嶼さんか義勇さん以外にどこに姉さんに相応しい人がいるというんです。まあ、煉獄さんはいい人だとは思いますが」
「………。少なくとも俺よりは」
「いませんったら」
 誤解が解けても頑な過ぎる。昔馴染みに並々ならぬ信頼を置いているらしいしのぶは、悲鳴嶼か義勇か錆兎以外にカナエを任せられる者はいないと不機嫌になってしまった。
「……まあ、たとえ俺がカナエを好きだったとしても。何年も気にかけるほどのことじゃない」
「自覚してないだけとか、ありません?」
「ない」
 悲鳴嶼を想うカナエを見ていても、胸が痛いとかもやもやするとか、蝶屋敷の三人娘がはしゃぐようなものは一度として感じなかった。たとえ好きだったとしても、想いを口にすることは絶対にない。鬼を狩る以外のことは義勇には必要ない。カナエでなくとも義勇は何も言わないことが決まっているのだ。そもそも恋などしたことはないのだから、このまま知らずに生きてどこかの任務で命を落とすくらいだろうに。
「納得しろ。お前には誤解されたくない」
 俯いたまま息を呑んだのはしのぶだった。その様子を目にして、義勇もまたふと瞬きをした。
 余計な言葉が混じっていなかったか。今しがた自分の口から出た台詞を反芻していたせいで、しのぶが立ち上がろうとする動きに反応が一瞬遅れた。
「いえ、そうですね。わかりました。要件も終わりましたしそれでは」
 義勇が引き止める間もなくしのぶは適当な挨拶をし、足早に部屋を出ていった。
 廊下で鉢合わせたのだろう炭治郎の声が聞こえた。
 義勇の言葉がまたも誤解を招いたのではないだろうか。考えてみれば、しのぶ以外の人間にも誤解されていたら嫌なはずだ。なのに義勇は余計な言葉を付け足して言ってしまった。
 ……誤解。
 いつものように呆れて窘めてくれれば、義勇も言い訳することができたはずなのに。
「しのぶさん、帰られましたけど……」
「……ああ。カナエのことは」
「あ、はい。義勇さんは恋とかではないんですよね。ずっと困惑と呆れの匂いがしてました」
 炭治郎の鼻は便利だ。義勇の言いたいことを匂いで汲んでくれるのが大層助かる。嘘も隠しもしていないことはわかってくれたらしい。
「誰かが恋をしてる時の匂いって、砂糖菓子みたいな甘い匂いがするんです。これは何の匂いなのかなあ。帰る時ほんの少しだけ果物みたいな甘酸っぱい匂いが」
「……そうか」
 溜息を吐いて義勇は立ち上がり部屋を出た。
 腹が減っては何とやら、そろそろ食事をしておかなければ任務に支障が出る。炭治郎が準備していたのだろう、台所から匂いが漂ってきていた。
「……義勇さんからも薄っすら漂ってきたんだけど……何だろうなあ。好意の匂いにも似てるけど……嗅いでると切ない気分になる気がする」
 部屋に残してきた炭治郎が呟いた言葉は義勇の耳には届いていなかった。
 たとえ聞こえていても、その時の義勇にはその匂いの感情が何なのか、わかりはしなかったが。