炎柱の父

「す、……すみません……」
「………、いえ、すっきりしました……」
 冷や汗も反省も止まらず千寿郎の顔を見ることができなかった。興奮している伊之助とそれを押さえている善逸の顔も。
 煉獄の父に頭突きを食らわせたことを煉獄に知られたら一体どれほど怒られるだろうか。義勇も呆れて迷惑をかけてしまうかもしれない。
 平謝りした炭治郎に千寿郎は引きながらも、彼は気を遣ってくれたのか気が楽になれそうな言葉をくれた。
 そもそもの発端は、煉獄が見舞いに来た千寿郎を炭治郎たちに紹介したところから始まる。
 炭治郎たち三人が煉獄と義勇の病室へ顔を出した時、そばには煉獄によく似た少年がいた。それが煉獄の弟だと紹介された千寿郎だった。
「竈門少年たちは千寿郎と歳も近い。話も合うだろう」
 各々挨拶をして少し話をしたのだが、それよりも炭治郎は気になっていたことがあった。
「あの、千寿郎さんの頬はどうなさったんですか?」
 腫れ上がった頬が痛々しく、湿布で隠してはいたが見るからに殴られた痕だと気づいた。こんなに仲が良さそうなのに、兄弟喧嘩でもしたのだろうかと心配したのだ。
「ああ……いや、気にするな。少し強く拳がぶつかったんだ」
 どこか悲しげな匂いを感じて、それが煉獄の誤魔化しなのだということはわかった。経緯を知らない炭治郎にこれ以上聞かれても、二人にとっては不躾になるかもしれない。
 悩んでいると隣で善逸が少しそわそわとし始め、どうかしたのかと問いかけた。
「いや、別に……」
 煮えきらない善逸に首を傾げつつ、カナエに診てもらうのはどうかと提案してみた。経緯はわからなくても頬の痕が相当痛いだろうこともわかるし、カナエならきっとよく効く薬をくれるだろう。
「ああ、そうするか。診てもらうといい。すまないが、千寿郎を連れていってもらえるか」
 そうしてカナエの元に連れていくと、カナエは少し悲しげに笑みを向けてから手当をしてくれた。
 処置を終えて二人の病室に戻る頃千寿郎にもう一度大丈夫かと問いかけると、千寿郎は困ったような笑みを見せて頷いた。
「親子喧嘩のようなものですから……」
「親子……って、でもかなり強く殴られてませんか」
 喧嘩ならまあ仕方ないかもしれないが、それにしたって痛そうだった。もっと手加減してもいいと思うのに。
「あ、ちょ、炭治郎。ちょっと待ったほうが」
「え?」
 二人が話しているから。病室への帰り道、廊下で立ち止まった善逸は曖昧な笑みを見せて炭治郎を引き止めた。
 疑問符を掲げた千寿郎は知らないが、善逸の耳は様々な音を捉える。耳が良すぎて気絶しながら戦えるほどだ。善逸は煉獄と義勇の会話の邪魔をしないほうがいいと言う。恐らく彼の耳が重要な会話をしているのを捉えたのだろう。
「任務の話かな?」
「や、親父さんの話……あ、いや」
「――聞こえたんですか?」
 千寿郎の驚愕した言葉に善逸の肩がびくりと揺れた。どちらからも怯えのような匂いを微かに纏わせながら、善逸は意を決したように小さく頷いた。
「………、耳が、良いんですね。そうですか……兄は何と?」
「俺は気配に敏感だぜ!」
「……ふふ、皆さん凄いです」
 伊之助の言葉で少し気が紛れたのか、千寿郎は落ち着きを取り戻してもう一度善逸へと問いかけた。
 こんなところで話していいのかと善逸が問いかけると、千寿郎は周りには聞こえないようにとだけ注意を告げた。
 そして、善逸から聞こえた話の内容を掻い摘んで聞いた時、炭治郎は颯爽と部屋の扉まで走っていったのだ。

「……父上か。痛かったろう」
 大丈夫です、と小さな柔らかい声が答える。その隅で心配そうな音が聞こえていた。
 煉獄の声と、冨岡の心配そうな音と、知らない少年の声。炭治郎と伊之助とともに二人の病室に顔を出そうとしていた時に聞こえてきた音だ。
「お見舞いに誘ったんですが、それが逆鱗に触れてしまったようです」
「……そうか」
「私の怪我などより、兄も冨岡さんももっと大変でした。お勤めご苦労様でございました」
 長引くようなら引き止めておくか、それとも日を改めるかしなければならないだろうと思っていたが、善逸はつい盗み聞いてしまっていた。
 憤りを我慢しているような音。それは煉獄も鳴らしていたが、彼の音は冨岡よりも更に複雑な音になっていた。
 そんな会話を聞いていたから、善逸だけは千寿郎の怪我の原因を知っていた。自分たちが部屋を出ていってからも、二人は煉獄の父について話をしていたのを聞いたのだ。
 いつか前を向いてくれると思っているが、まだそれは先らしい。昔はもっと自信に満ち溢れていた。本来千寿郎を殴るような人ではない。
 迷惑をかけて申し訳ないと続けて、かけたかかけられていないかの応酬の後、その先は柱である二人にしかわからない会話をしていた。それを伝えることはしなかった。
 の、だが、炭治郎に伝えるのはやはり間違っていたような気がして仕方なかったのだ。
「どうした竈門少年」
「煉獄さんのお父様と話がしたいです」
 面食らったように目を丸くした煉獄は、ちらりと隣にいた冨岡へ視線を向けた。
 こちらとしてはどうしようと青褪めるばかりだ。善逸が聞こえたのは耳が良いからに他ならないが、それはいうなれば盗み聞きなのである。確かに喋ったけれど、聞こえたのは不可抗力なのに怒られるのは絶対に嫌だ。
「……我妻は耳が良いんだったな」
 静かな声にぎくりと体を強張らせた。
 冨岡が知っているのは恐らく炭治郎が喋ったからだろう。どこまで話しているのかわからないが、とりあえず現時点で煉獄に善逸の耳がばれてしまった。
「成程、原因は何となく理解した。それで、何の話をするんだ?」
「千寿郎さんは素晴らしい人です。いくら親だからって、そんな人を、子供を殴るなんて絶対に間違ってます!」
 煉獄の隣で額を押さえた冨岡を見て、善逸も同じように頭を抱えたくなった。
 本当に頑固者め。恨めしく炭治郎を睨みつけた時、驚いてぽかんとしていた煉獄がふと瞬きをして、快活な笑い声を上げた。
「ははは! きみは融通が利かんな」
 笑い飛ばしてくれた煉獄に心底ほっとして、怒っていないことにもう一度息を吐いた。
 いくら煉獄とはいえ、相手は柱。突然家に行きたいと言い、父親と話をさせろなど不躾過ぎるのではなかろうか。
「冨岡も頑固なところはあるが、少しは師の柔軟さを見習うといい。まあ、気持ちは有難いが……ふむ。では千寿郎の友として遊びに来るといい。きみたちもな」
「ありがとうございます!」
 寛容だ。善逸の耳を許してくれた。しかも気味悪がらずにいてくれた。鬼殺隊に入ってから、善逸はすんなり受け入れてくれる人にばかり会っている。炭治郎も、煉獄も。冨岡はどんなふうに受け入れてくれたかはわからないけれど。

 そうして帰ろうとする千寿郎について煉獄家へと訪れた時のことだ。
 煉獄によく似た壮年の男が門から現れ、炭治郎の耳飾りを見て突然文句をつけてきた。始まりの呼吸、選ばれた人間、始まりの呼吸以外のものは全て猿真似の紛い物。憤慨して殴りかかろうとした伊之助を善逸は止めていたけれど、あまりに腹が立った炭治郎は食ってかかってしまった。
「うるさい! 倒したのは上弦の陸、弐は取り逃がしたらしいじゃないか。猿真似の呼吸など所詮その程度でしかない。火も、水も、風も、五大呼吸などと言われるものから全て無駄だ!」
 せめて言葉で彼を納得させられればよかったけれど、炭治郎の頭は血が上ってどうしようもなく、善逸と千寿郎が止める言葉すら耳に入っていなかった。そのくらい許せないことだったのだ、いくら煉獄の父といえど。
「炭治郎さん! 父は元柱です、危ない!」
 始まりの呼吸。何なんだそれは。そんな凄い呼吸なら、それほどに凄い呼吸を炭治郎が知っているなら、もっと二人と一緒に戦えたはずだ。せめて炭治郎が足を引っ張らないような実力であれば、煉獄の片目と腹は無事だったかもしれないのに。あの戦いを見ていれば、猿真似などという言葉は絶対に出てこない。炭治郎はあまりに格の違う二人の戦いに目を奪われていたのだ。
「うわーっ! 馬鹿、炭治郎!」
 たとえ猿真似だろうと何だろうと、家族だけは、親だけは子供を否定してはならないはずだ。元柱だというのなら、自分自身もそうして研鑽を積んだ過去があるのだろう。そんな力を持っていながら、煉獄も義勇も、鬼殺隊の全員を否定した彼が許せなくて仕方なかったのである。
 まあ、それは言い訳だ。結局のところ炭治郎は人に頭突きを食らわせて昏倒させ、千寿郎に多大な迷惑をかけてしまった。遊びに行くことを許してくれた煉獄にも、師である義勇にも申し訳ない。伊之助を止めてくれていた善逸にも。
 反省はしているけれど、頭突いたことについて後悔はしていなかった。そもそも悪いのは煉獄含め全員を貶めた彼だ。千寿郎にはさすがに後悔していないなどとは言えなかったが。
「……兄は柱としての責務を果たしていましたか」
「、はい。凄かったんです、お二人とも。俺は二人の動きを目で追うのもひと苦労で、動いたら邪魔になってしまうので動けませんでした。……本当に強かった。尊敬します」
「強え奴見ると肌がビリビリすんだ。凄えぜ、ギョロギョロ目ン玉と、」
「煉獄さんと義勇さんだ」
 親族の前でなんて呼び方をするのかと慌てて指摘したが、千寿郎は気にしなくていいと笑った。
「本当は、兄が生きて帰ってきてくれただけで嬉しいんです。父も心底ではそう思っているはずです」
「そう、ですよね」
 そうだ。なくなってから気づくのでは遅いのだ。生きていてくれたことがどれほど難しくて尊いことか、死んでからでは伝えることができないのだから。
「……ありがとうございます」
 きっといつかその大事なことに気づいてくれる。そして元の父に戻ってくれる。そう口にした千寿郎の声は震えていた。
「もし戻ってなかったら言ってください。俺がもう一度頭突きをします」
「それはやめたほうがいいです」
「お前って本当にすぐ暴力に訴えるよな……」
 善逸にまで止められ、炭治郎は口を噤んだ。頭に上った血がまだ下がっていないのかもしれない。項垂れて小さく返事をした。

「煉獄さんと冨岡さんの戦いってそんなに凄かったの?」
 蝶屋敷に戻ると玄関で仁王立ちをしていたしのぶに耳を引っ張られ、三人はまたもベッド送りとなってしまった。
 猗窩座の攻撃を食らってしまった伊之助の怪我はまだ治っておらず、炭治郎の刺された傷も案外深く、実は善逸も頭を怪我していた。脱走教唆したということで煉獄と冨岡にも雷が落ちたらしい。冨岡はとばっちりのような気がするが、同室の連帯責任ということだろうか。
 カナエは優しいのにしのぶは怖い。しのぶやアオイのような厳しい女の子は善逸も苦手とするところだが、女の子であるだけで全てを許せる気分にはなる。可愛いし。ただまあ、周りの隊士からは割と怖がられたりもしているようだ。可愛いからと許す善逸のような隊士も多いようだが。
「ああ、本当に凄かった。猗窩座がドカーンとやったら義勇さんがシュバってして、煉獄さんがグアーッと打って」
「全然わかんねえわ、打つって何だよ」
 炭治郎は教えるのが下手だ。とにかく感覚でものを話すからこちらには少しも伝わってこない。炭治郎の頭ではきちんと映像化されているのだろうが、それを外に伝えるのが壊滅的だ。こちらは全く想像できない。
「……あいつ、いやあいつら、気配が消えた時があった。姿は確実に見えてたのに、存在がそこにねえような」
「何それ?」
 炭治郎よりは何故かまだわかる伊之助の言葉ではあったが、言いたいことが伝わっても謎な話だった。
 見えているのに存在しない。それは二人の動きが速すぎて気配を感じるのが難しかったとか、そういう感じではないのか。
「ああ、そういえば。俺も匂いが辿れなかった時がある。あれは何だったんだろう」
「よくわかんないな。聞いたら教えてくれないのか?」
「どうだろう。拾壱ノ型も俺がわからないと駄目だし」
「何の話?」
 千寿郎に聞いていたヒノカミ神楽というものとは別に、炭治郎にはまだ何やら型があるらしい。善逸は一つの型しか覚えられなかったのに、やはり強くなる奴は出来が違うようだ。
「水の呼吸の拾壱ノ型だよ、凪。原理がわかれば教えてくれるかもしれないんだ」
「何で確定じゃないんだよ」
「それは、覚えなくていいって言われてて。俺の刀黒いだろ。たぶんそれで、水の呼吸じゃなくてきちんと適正のある呼吸を覚えさせたいんじゃないかな。拾壱ノ型は義勇さんが作ったもので、継子だった錆兎さんと二人しか使えないらしいし」
 柱になるような人間は型を作るのか。そういえば柱は何とも個性的な呼吸法を使う人もいたはずだ。呼吸を派生させるくらいなのだから、型を増やすことくらい普通にあることなのかもしれないが。
「人を守るために作られたんじゃないかと思うんだ。原理がわかれば教えてくれるかもしれないし、俺も見様見真似でできるようになるかもしれない。できれば覚えたいんだけどなあ。たぶん、物凄く速く攻撃を斬ってるんだと思うけど……」
 見たことがないので何ともいえないが、そんな単純な原理なのだろうか。
 しかし。
 増やして良いんだなあ。雲の上の人のことを聞いたところで何一つ参考にならないと思っていたが、善逸は成程と一つ納得した。
「冨岡さんてさ、どんな人なの? 炭治郎の師匠だよな」
「うん。そうだなあ……清流みたいな人だ。近くにいて凄く落ち着く匂いがする。厳しい時は本当に厳しいし、表情が変わらないからわかりにくいこともあるけど。……凄く優しい人だよ」
 お前より?
 聞きたくなったけれど善逸は相槌を打つだけに留めた。
 どうせ炭治郎は自分が優しいなど自覚しているわけではなさそうだったし、聞かれて頷けるかといえばそれは無理だろう。
 ただ一つわかったことは、泣きたくなるほど優しい音がする炭治郎が優しいと言うほど、冨岡はわかりにくい優しさを持っているということだった。