無限列車にて
「ふむ、寄り道をしてよかった。お前のような強者と会えるとは」
先ほど斬った鬼とは比べ物にならない気配。その目には上弦と刻み込まれている。
弐。
悲鳴嶼たちが以前倒した上弦も弐だったが、繰り上がりでもしたのだろう。
あの時から何度も何度も隊士を上弦に殺された。柱の入れ代わりはそれ以前よりも酷くなった。今の柱が揃ってからは入れ代わることはまだないが、上弦の動きは恐らく緩やかになっていたのだろう。遭遇すればまず間違いなくただでは済まない相手だ。柱ですらない隊士が生きて逃げ延びることなど有り得ないと思えるほどの威圧、絶望感。
ついに義勇の前に現れたか。
目を細めるようにして上弦の弐を観察した。
「素晴らしい。俺が殺した柱の中にも、お前ほど練り上げられた気を持つ者はいなかった」
至高の領域に近いと鬼は笑った。
分が悪いのはよくわかっているが、遭遇した以上は逃がすわけにはいかない。何百人と人を喰った気配と、極限まで鍛え上げられた気。これを今ここで倒しきらねばならない。
「名を聞いておきたい。俺は猗窩座だ」
「鬼に名乗る名前などない。話しかけるな」
義勇が刀を振るっても、鬼は頸以外を守ることはない。腕を斬り落とそうとも胴を真っ二つにしようとも、頸さえ無事なら鬼は生き返ってくる。義勇は決して胴や腕だけを狙っているわけではないが、上弦の弐の頸を落とすには足りなかった。
「速いな、水の柱か! 剣技も極限まで練り上げられている。名に恥じない、正しく水のような流麗さだ」
地面を踏み鳴らし盤のようなものが浮き上がる。空を殴る衝撃が、そのまま攻撃となって義勇へと襲いかかってきた。
「ほう。攻撃を斬ったか、素晴らしい。初めて見る技だ」
心底楽しそうな声が癪に障った。
地面が抉られるほどの踏み込みから、義勇に向かって飛んでくる拳と衝撃。油断すれば刀諸共折られてしまいそうだった。
「良いな! 今まで殺した柱の中でも随一だ!」
側面から拳が来る。背後に逸らしても息つく間もなく足が飛んでくる。血鬼術は拳だけでなく衝撃波すら致命傷だ。防戦一方では義勇に分はない。
視界の端に現れた腕に刀を折られると感じた義勇が避けた時、上弦の弐の猛攻は義勇をその場から弾き飛ばした。
鴉が夜に舞う。
鬼殺隊にいればそれは見慣れた光景だ。助けてくれと慌てている鴉の様子もそうである。ただその鴉の主が誰なのか、煉獄はよく知っていた。
汽車の乗客は無事だった。腹を刺された隊士に止血を教えて上手くできたことを確認した時、煉獄は二つの気配に意識を引き締めて鴉に声をかけた。
強い鬼の気配。人を何百人と喰っている気配だ。
先程の汽車の鬼は上弦の陸だという話だったが、比べ物にならない禍々しさを感じる。
「――煉獄さん、」
「待機命令だ。何があっても手出しはさせん」
乗客はまだ避難できていないが、猪頭の少年が下敷きになっている者たちを助けているという。そこに手を出させるわけにはいかない。腹を刺された隊士にも。
煉獄は気配の方角へ向かいこの場から離れるつもりだったが、気配の先から生い茂った木の茂みへ吹っ飛んでくる何かが見えた。
「冨岡!」
「え、義勇さん……?」
宙で体勢を整えた冨岡が、少し離れた場所にある気配に向かって木の幹を蹴った。
抉れるほどの力で蹴られた木がずんと地面に倒れた時、冨岡を呼んだ隊士が茫然としているのが目の端に映った。
「成程。お前は冨岡義勇というんだな」
上弦、弐。鬼の目に刻まれた文字が視界に映る。煉獄の身にひしひしと感じるのは出会ったことのない強さと禍々しさだった。懐に飛び込んだ冨岡の一撃は鬼に血を流させたが、頸を斬るには足りなかった。
「今日は良い日だ。至高の領域に近い者がまた一人現れるとは。お前の名も聞いておきたい」
「……煉獄杏寿郎だ」
「そうか杏寿郎! 義勇、お前たちは鬼になれ。こうしている間にも刻一刻と人間の体は老いさらばえていく。お前たちのような人間は」
猗窩座の話を聞く気などないらしい冨岡が動いた瞬間、煉獄は彼が次にどう動くかを予測した。
稽古で散々手合わせをした。冨岡の動きは大体把握しているが、やはり実戦、上弦の鬼相手にもなると更に速度が上がっている。
猗窩座の攻撃を紙一重で躱している。透き通る世界を視ているのだろうが、冨岡ですら決定打に欠けるようだった。
かくいう煉獄もその世界に足を踏み入れかけていたのだが、本人にその自覚はまだなかった。
動けない。
待機命令を言い渡されてしまっては、上官を無視して動くわけにもいかないけれど。
そもそも腹を刺された炭治郎は動きたくても動けないのだ。
だがそんなことを言っている場合ではないことはわかっている。かといって二人の邪魔をするわけにもいかないのが歯痒かった。
動いたら邪魔になる。助太刀にやってきたはずの伊之助もそれを肌で感じているから動けないのだ。
義勇と煉獄の邪魔になってはいけない。加勢に入ることもできない自分の力不足をひしひしと感じた。
「おい、紋次郎。あいつ、何か……変だぞ」
立ち塞がる義勇は相変わらず猗窩座に食らいついていて、煉獄との連携も一心同体かと思うほどだ。ぎりぎりの部分で攻撃を避ける義勇と煉獄が炭治郎の目には見えている。
なのに、この戦いが始まってから炭治郎の鼻は義勇を捉えることができなくなっていた。
義勇だけではない。今の煉獄の匂いは薄くなったり現れたりと不安定だ。目で追わなければ何が起こっているのかも把握できないけれど、目で追い続けるには二人の動きは速すぎた。
「気配がねえ」
猗窩座から戸惑いのような匂いを感じた時、義勇の刀が頸へと差し向けられた。その瞬間、地面を踏んだ猗窩座の足元に羅針盤のようなものが出現し、爆発でも起きたような多量の攻撃が辺り一面を襲い、炭治郎と伊之助は危うくやられるところであった。
「杏寿郎は攻撃に攻撃をぶつけて相殺し、義勇はその水の技でほぼ全てを防いだ……弱者を庇わなければ全て潰されていただろう。残念だ」
致命傷を避けているのはさすがだ、と猗窩座が嬉しそうな声音で口にした。
煉獄の額から血がどろりと流れ落ちた。黒に塗れて見えないが、隊服の下は血みどろなのだろう匂いがする。致命傷を避けられても攻撃自体を避けられたわけではなく、煉獄は相殺しきれなかった猗窩座の攻撃を食らっていた。義勇もまた食らった一撃のせいで口の端から血が滲み、血に塗れた二人の匂いが炭治郎の鼻に届いた。
「取るに足らない雑草さえいなければさぞ素晴らしい戦いになったというのに……義勇、お前はやはり鬼になるべきだ。お前の剣技、至高の領域に届いた肉体……永遠に残すべきものだということがわからないか? 杏寿郎とて同じ。弱者のためにお前たちの命が無くなるのは納得がいかない」
「物事の価値基準が違う。きみの話は不愉快だ」
「事実を言っているだけだ、杏寿郎」
老いていくのは見るに耐えない。強者こそ永遠の時を生き、鬼となり肉体を高め合うべきだ。そうすれば弱者に気を取られることもなくなる。猗窩座の言葉が炭治郎の堪忍袋を突き刺していく。
「………、……俺は、戦いは嫌いだ」
「何とまあ、勿体ないな。流麗な剣技を持ってしてそのような腑抜けたことを言えるとは」
炭治郎が感じ続けた義勇の人となりは、本来は穏やかな優しい人だ。なかなか見せてもらえない本当の姿は、平和な世の中でのんびりしながら笑っているような人だと昔馴染みの人は炭治郎に教えてくれたことがある。
そんな人が嫌いな戦いを強いられているのは、全て鬼のせいだった。鬼が存在するから義勇も煉獄も戦う。人を守るため、命を懸けて。
「大丈夫だ、鬼になればそんなことも忘れられる。何が好きで何が嫌だったかなど瑣末なこと。生まれ変わるんだ。お前は柱の中でも最強格だろう。この先お前たちほどの者が現れるとも限らない」
「お前の話は聞くに耐えない」
「ふむ、頑固だな。鬼にならないなら殺さなければならない。早く撤回しておけ」
「要らん。節穴は話しかけるな」
義勇の匂いが怒りを孕んでいく。猗窩座との会話が忌々しく相当嫌なのだろうこともよく伝わってきた。
「俺が? お前の剣技も闘気も練り上げられたものだ。その剣技はお前自身しか扱えないだろう。お前が作り上げたものはお前の手で残すべきだと俺にはわかる」
「煉獄を見る目は確かなようだが……俺程度にそんなものを見出している時点で、……お前の目は節穴だ」
「……ほう。お前や杏寿郎より強い者がいると言うのか」
心底楽しげに笑みを見せた猗窩座が地面を踏み鳴らす。
またあの血鬼術が来る。自分たちは生身の人間だ。いくら義勇と煉獄が強くても、粘られては圧倒的に人間が不利なのだ。
邪魔をしたくない、できない。だが少しでも二人の役に立ちたい。現れた上弦の弐をここで葬らなければならないのだ。
冨岡が鬼殺隊の最強格であることに間違いはない。煉獄含めた周りからすれば、彼もまた充分高い壁の一人だ。猗窩座の見る目は確かであることを煉獄は知っていた。
現在の産屋敷家当主の代で、上弦の鬼と相対して帰還したのは四年前に上弦の弐を打ち倒した時だけ。当時の上弦の弐であった鬼を倒した三人の隊士のうち、今も現役で柱として戦っているのは悲鳴嶼だけだ。その悲鳴嶼が最強であることに間違いなどあるはずもない。
「過去の上弦の弐を殺した柱は確かに強かったようだが……お前も一定の水準を越えているんだぞ」
「どうでもいい」
「ああ、残念だ」
煉獄自身、競うことに固執しているわけではない。だがどれだけ柱としての実績を積んでいても、悲鳴嶼や冨岡がいるだけでまだまだだと思わされてきた。彼らは煉獄に一目置いてくれていることもわかっているが、やはり目の当たりにすると言葉を失くしてしまうほど差は歴然だったのだ。
透き通る世界への到達。柱がそれを視るためにどれほどの時間と鍛錬を注ぎ込んだか、彼らの努力を煉獄はよく知っているが。
血反吐を吐いて痛めつけ、更に先を求めていく。鬼などにこの努力の結晶をしかと理解してもらいたくはなかった。
冨岡の気配が消える。煉獄の目には普段と違う光景が広がっていて、冨岡と猗窩座の皮膚の下がはっきりと視えていた。少しでも集中が途切れれば視界は元に戻るが、どう動くのかが感覚でわかる。これが、柱が求めた透き通る世界なのだろう。
衝撃すら飛んでくる血鬼術が何度も煉獄と冨岡を襲ってくる。猗窩座の攻撃を冨岡は何度も防いでいるが、防戦一方では勝ち目は見えない上、隊士二人の存在など気にも止めないような攻撃を乱発されては、守りながらでは防ぎきれない攻撃も出てくる。煉獄では技をぶつけるのが精一杯の猗窩座の攻撃を防ぎきるのは冨岡くらいだ。彼がいなければ二人の隊士はどうなっていたかわからない。
戦いに敗れ命を落とすことは隊士である以上覚悟の上なのだろうが、下の者を守るのは柱の役目だ。
逃げ場を無くす。仕掛けられた攻撃を避けずに、煉獄は殴りかかってきた猗窩座の腕を掴んだ。夜明けが近かった。
陽が昇るまで離さない。反対側の腕が煉獄の腹に風穴を開ける前に刀で何とか腕を割り攻撃を分散させたが、そのまま今度は片目へと勢い良く殴りつけられ、危うく頭を潰されるところだった。両腕を無理やり千切った猗窩座が煉獄から逃げるために跳んだ。逃がすまいと刀を構えた時、冨岡の刀が頸を一閃した。
「………っ、がはっ、」
「義勇さん、煉獄さん!」
貫通を避けようと腕を真っ二つにしたにも関わらず猗窩座の攻撃は煉獄の胴へ届いていた。内臓から何もかもが逆流してくるような気分だった。
だが崩れるのを見届けなくては倒れてなどいられない。落ちた頸が転がって暗い茂みへ潜り込んでいくと、猗窩座の体がふらりとついていった。
頸を斬っているのに死んでいない。
駄目だ。何故そのようなことになっているのかわからないが、このまま放置するわけにはいかない。
「逃がすな、殺せ!」
「………っ、伊之助、那田蜘蛛山で斬った鬼のように袈裟懸けに斬るんだ!」
冨岡が叫ぶと隊士二人はびくりと反応し、どうやら頸が落ちている鬼を相手取ったことがあるようなことを口にして斬りかかった。膝をついていた冨岡も立ち上がり猗窩座の体へと向かう。
情けない。失血と内臓が悲鳴を上げているせいで、煉獄は両膝をついてから立ち上がれなかった。
だがふいに頸のない鬼の体が、腕を振り上げて隊士を狙った。
「――避けろ少年!」
煉獄が何とか叫んだ時、猪頭を掴んだ冨岡が背面へ引っ張り、その勢いで隊士が転がった。
斬られた頸の断面が蠢き始め、再生しようとしているのがわかった。
意識があるのか、防衛本能か。頸はなくとももう一度斬れば崩れていく可能性はある。夜明けももうすぐそこだ。日輪刀が効かずとも、陽光ならば確実に効くはずだった。
「―――っ! 下がれ!」
隊士二人の刀が鬼へと向けられたところで、冨岡は二人の首根っこを掴んで引きずり戻そうとした。煉獄が無理やり立ち上がり壱ノ型を繰り出した時、猗窩座の体は地面を踏み鳴らし、血鬼術で攻撃を食らわせ三人を無理やり引き剥がし、煉獄の攻撃を相殺した。
「ぐあっ!」
「ぐ……っ!」
「伊之助、義勇さん!」
冨岡の背後まで下がっていれば凪で守ることができたかもしれないが、猪頭の隊士に猗窩座の攻撃がぶつかった。冨岡自身も防ぎきれてはいなかった。
短く荒い息を吐く。まだ終わっていないのだ、柱としての責務を果たさなければならない。いうことを利かない己の膝を無理やり前へと踏み出したところで、猗窩座の姿は消えてなくなっていたことに気がついた。
「………、猗窩座はどこだ?」
崩れる気配のなかった様子が、このまま死んだとは到底思わせてはくれなかった。直前まで頸を落としたとは思えないほどの技を出され、そのせいで冨岡が血を吐き、猪頭の隊士が致命傷に近い傷を負っている。
「逃げ、られた……?」
どうやって。血鬼術の攻撃で隙を作って逃げ出したのか。
鬼の首魁である鬼舞辻無惨ならば、陽光でしか殺せなくても理解はできる。鬼舞辻無惨から作られたであろうあの上弦の弐、猗窩座に日輪刀が効かないとは想定していなかった。
「―――」
「冨岡。動かないほうが良い」
「お前が動くな。……あれを、逃がすのは、……まずい」
それは煉獄にもわかっているが、現状どこに逃げたかもわからないのでは追いようがない。
夜明けが来て、乗客は無事で、煉獄含めた四人は生きている。死を恐れるつもりはないが、生きていられるならそのほうが良い。猗窩座を見つけるまでに倒すための方法を探すこともできるだろう。刀が本当に効かなくなったならば、鬼狩りなど今以上に歯牙にもかけられなくなる。あまり悠長にはできないだろうが。
「隠が来る。きみたちも止血しておけ」
「………、煉獄」
冨岡が小さく名を呼んだのが聞こえたが、煉獄は答えることができなかった。朝日を浴びて気が抜けでもしたのか、情けない話だが意識を飛ばしてしまっていた。
「………、」
「義勇さん……」
刀を地面に刺し、柄に頭を預けて大きく息を吐き、少し寝るとだけ呟いて義勇は黙り込んだ。
本当に寝息が聞こえてきたのでとりあえずは安堵し、先に意識を飛ばした煉獄の手当を何とか無理やり終わらせた。
二人は炭治郎と伊之助を守りながら戦っていた。柱が凄いことなんて知っていたけれど、いざ目の前で見た二人の戦いは本当に異次元のようだった。
「伊之助……伊之助も大丈夫か?」
「……中身がぐちゃぐちゃになってる気がすんぜ」
「炭治郎ー!」
横転した汽車に乗客が取り残されていないかを確認していたらしい善逸が、禰豆子の箱を背負って駆け寄ってくる。何があったのかを問いかけてきた。
「……上弦の弐が現れて」
義勇が頸を斬ったけれど、猗窩座の体が崩れるのを確認できなかった。反撃してきた。二人をここまで苦しめて消えた。
「……上弦の……弐? 何でそんなのが……柱も、こんなになるくらい強いの? 陸は皆で戦って勝てたんでしょ? 同じ上弦なのにさあ……」
「………」
「負けてねえし。こいつは頸を斬ったんだぞ。普通ならそれで終わりだろ、上弦ってのも大したことねえって感じだったのに。死ななかったあっちがおかしいぜ。こいつは殆ど攻撃防いでたんだ。こんなぼろぼろになんのがおかしいんだよ! ギョロギョロ目ん玉だって、鬼を引き止めるために片目と腹をやられた」
猪頭の奥で明らかに血を吐きながら、伊之助の声音が涙を溢していた。
悔しい。何もできずに守られていた自分が。何のための修行だったのか、義勇の教えを何一つ身につけていないではないか。強くなったと思っても、鬼はそれ以上に卑怯だ。義勇と煉獄が生身で、夜という鬼の舞台で戦っているのに、あいつらはさも自分たちが強いかのような思い違いをしている。
伊之助の言うとおりだ。二人は負けてなどいない。猗窩座が二人から逃げたのだ。