邂逅―胡蝶姉妹―
義勇が飛び込んだ部屋には泣いて抱き合う娘が二人と、襖の隙間から二人の男女を貪る鬼が見えた。皮膚を噛み切り骨を噛み砕き、血を啜る音が辺りに響く。背筋に悪寒が走った。
駆け込んだ任務先は民家で、目の前の光景は姉の最期を彷彿とさせるようなもので、息絶えた両親らしき二人が子を守ろうとしていたことが窺えた。
間に合わなかった。義勇が遅かったから人がまた死んだ。泣かなくていいはずの娘が二人も泣いていて、義勇を見た鬼は不機嫌そうに顔を顰めゆらりと体を起こし、長く鋭利な爪を出して襲いかかってきた。
鬼は刀で何とか堰き止めたが、娘たちの上に襖が薙ぎ倒された。そこに気を向けている暇はなく、義勇は食いしばりながら爪を弾いた。その拍子に数本折れたらしく、鬼は苛立ったまま義勇を睨みつけていた。
落ち着け。冷静さを保て。義勇に意識が向いているなら後ろの二人はまだ大丈夫だ。
姉を守れなかった己などに誰かを守れるだろうか。卑屈な感情はずっと義勇を支配していたが、今はそんなことを考えていられるほど余裕はない。雑念は捨てろ。
悲鳴嶼とともに励んだ修行には反復動作というものがあった。爆発的威力を出すための動作。悲鳴嶼は念仏を唱えながら岩を動かしていた。義勇の場合もまた決めたものがある。頸を斬る。その一点だけに集中して型を繰り出した。
刀を一閃した次の瞬間には、目の前に迫っていた鬼の頸は畳に転がり落ちていた。
倒れた襖が動くのを視界の端に捉え、義勇は顔を向けた。下敷きになっていた娘二人が身動ぎしたらしく、茫然としたままの目を義勇へと向けていた。
「………、お父さん、お母さん……」
鬼が咀嚼した後の惨い遺体に娘の一人が涙声で呟いた時、頸を斬って消えたはずの気配をふいに感じた。
瞬間、義勇の足元から飛び出したものに立ち上がった娘二人が驚いた声を上げた。
土竜のような大きな爪が畳を突き破って起き上がる。鼻なのか口なのか、顔の下半分には短い触手が何本も生えていた。血の匂いに誘われてきた二体目のようだった。
考えるよりも先に体が動いたことはあまりない。ここに来るまでにいくつかの任務に当たったことがあるが、今までは案外余裕があったということなのだろう。
「………っ!」
勢い良く血液が飛び散るのが視界に映る。
硬く長い土竜の爪を避けきれず義勇の額を削った。
咄嗟に腕を伸ばして襖を二人に向けて薙ぎ倒した。襖から這い出していたにも関わらず二枚目の襖にまたも倒れ込ませてしまったが、少しでも土竜の爪から民間人を守らなければ。怪我をするのと命を落とすなら前者のほうが余程良いはずだ。義勇の判断が間違っていなければだが。
「駆け出しのくせに反応良いなあ」
拙い体捌きを見極めることができるらしく、先程の鬼と同様に下卑た笑い声を土竜鬼は漏らし、勿体ないと呟いて残っていた男女の遺体の血や内臓を、その触手で吸い込み飲み込んだ。あとに残った遺体は中身がなくなったかのように干からびていた。
吐き気が込み上げるほど気分が悪い。随分深く抉られたのか、額から滴る血が右瞼に流れ落ちた。
「……動けるか」
「え、」
「引き留めるからここから逃げろ。藤の花の家紋を探せ」
そこなら迷いなく鬼の話を信じてくれる。
姉だろう娘に声をかけると、恐怖に染まった目が義勇を見つめた。
鬼が口にした駆け出しというのは間違っていない。義勇は隊士になったばかりで、任務も数えるほどしかこなしていなかった。更に毎度怪我をしては治療に時間を取られていて、誰かを守りながら鬼を倒すなど至難の業である。
せめて二人を逃がさなければと思い、額の血を袖口で無理やり拭い去り義勇は立ち上がった。
「早く行け!」
「ばーか、三人仲良く俺の腹ん中に収まるよ。まずはてめェからだ!」
逃げる時間を稼ぐこと。移動の邪魔をすること。先程の鬼と違い土竜鬼は地面どころか床まで抉り潜り込む。逃げ出した先に現れられてはどうしようもない。先手を取らなければならない。
「んな太刀筋で斬れると思ってんのかぁ!?」
動かれる前に斬りかかったが、鬼は爪で義勇の刀を止めた。楽しげに残念だったなと笑う鬼は義勇を舐めきっているらしい。
集中を高めるための反復動作。義勇の場合は言葉を思い浮かべた。岩の呼吸の師の元で、義勇は悲鳴嶼が口にした言葉を合図にしていた。狭霧山に行ってからは、鱗滝と錆兎の言葉も浮かべるようになっていた。思い浮かべるのが姉の顔では、きっと義勇は奮い立つよりも縋り泣いてしまうから。
「なっ! てめェっ」
「ぐっ、」
だがその瞬間、鬼が剣戟を縫って床へと爪を向かわせたのを目にし、殆ど無意識にその爪が突き立てようとする先に足を出した。
止めたとはお世辞にもいえない。畳を抉るほどの爪が義勇の足の甲へ突き刺さり、骨でも折れたかのような痛みが走り、顔を歪めて呻いてしまった。心頭滅却とは程遠いが、とにかく土竜鬼の意表を突けたらしい。
「クソが、粘るんじゃねえよ、ぎゃあっ!」
鬼が悲鳴を上げたその瞬間、視界の端から突如現れた鉄球が鬼を連れて真横に吹っ飛んでいった。
集中が途切れた義勇が思わず唖然としたまま吹っ飛んだ先へ顔を向けると、鬼に近寄る悲鳴嶼の背中があった。鎖で繋がれた手斧が、鉄球の奥で蠢く鬼の頸を的確に飛ばした。任務中にも関わらず、義勇はつい目を輝かせてしまったが。
「怪我をしたか」
「………、怪我は?」
「え、……わ、私たちはないわ」
気配が消えて無事を確認し、ようやく義勇は大きく息を吐き出した。途端に額と足の甲から痛みが深く伝わってくる。少しばかり困ったような顔をした悲鳴嶼が、お前の怪我のことだと義勇に指摘した。
「どこを怪我した?」
「……額と、足の甲……大丈夫です」
正直なところ、まだ夜は明けていないというのに悲鳴嶼が来てとてつもない安堵感を覚えていた。彼は隊士となって半年あまりだというのに、すでに階級は柱となっているのである。年齢差も体格も違う悲鳴嶼と義勇では比較するのも烏滸がましいが、きっと義勇では悲鳴嶼のようにはなれないのだろうと何となく感じていた。柱になったばかりではあるけれど、他の柱よりも安心できる気がするのだ。いや、それは柱に失礼なのかもしれないが。
見ず知らずの娘二人も安堵で腰が抜けたようで、よろよろとその場に座り込んでいた。
「藤の家紋の家まで送ろう。お前も背中に乗りなさい」
「大丈夫です。歩くくらいなら」
「……あ、ま、待って。手当」
腰が抜けたまま、恐らく妹だろう娘がどうにか這いずって手拭いらしきものを引っ張り出した。手当と聞いた姉の娘がはさみを持ち出し、手拭いを縦に切り離して義勇の頭へと巻き始める。
「……ありがとう」
「こちらこそ、助けてくれてありがとう。あの、そちらの方も」
手当に礼を告げると姉妹の姉が義勇へ礼を返した。続くように妹も小さく礼を呟いたが、義勇はそれを素直に受け取ることはできなかった。ぼんやりと目を伏せ、体の痛みよりも苦しいことを経験させてしまったことを悔いていた。
「間に合わなかった」
足の甲の手当へ進ませた妹の手がぴたりと止まり、やがて震え出したことに気づいた。
もっと早くここに到着していれば、怪我は免れぬとも息はあったかもしれない。義勇が悲鳴嶼くらい強ければ、鬼に手こずらず恐ろしいものを見ずに済んだかもしれない。遺体の残骸は姉を思い出させて、義勇の心を蝕んでいた。
「……ごめん」
震えたまま手当をする妹の目からはぼろぼろと大きな雫が零れ落ち、姉もまた悲しげに表情を翳らせて泣いていた。
「間に合わなかったのは私もだ。すまなかった」
頭を下げた悲鳴嶼に義勇が驚くとともに、姉妹もまた涙に濡れた目を悲鳴嶼へ向けた。
本来なら義勇が一人で片付けるべき任務だったはずだ。間に合わなかったのは義勇一人だというのに、悲鳴嶼は労るように義勇の肩を静かに叩いた。
「……まだ、整理もつかなくて。でも、あなたたちのせいじゃないことはわかってます。助けてくれてありがとうございます」
泣きじゃくり始めた妹を抱き締めながら鼻を啜った姉もまた、涙が止まらないのだろう。両親が喰われて家族がいなくなるのは慣れるものではない。そんな二人に現実を知らしめる言葉をかけることが間違っていたのだ。ああ、己はまた失敗したらしい。
*
足の骨折が良くなり、義勇はようやく任務に復帰できることとなった。
療養というのは落ち着かない。自分が休んでいる間にも鬼は出没し、人は殺されていく。義勇一人が足掻いたところで変わりはなくても、ただ寝ているより余程良い。
姉妹の両親を助けることは叶わなかったが、悲鳴嶼に滾々と諭されたおかげで義勇は少しばかり考えを改めることができていた。何もできずに姉を見殺しにして、悲鳴嶼の無実を晴らすことのできなかった義勇が、二人の姉妹を助け出せるようになったのだと考えるようになった。
最終選別でも自分は鬼を斬って生き残るのに必死で、義勇の見ていなかったところでも人は死んでいた。更に早々に厄除の面を落として失くしたおかげで随分落ち込んだものだった。だが悔い続けるのも心が摩耗すると言われ、姉妹二人は礼を告げてくれたのだからと慰められてようやくほんの少し楽になった。もっと鍛錬を積んで悲鳴嶼のように鉄球すら振り回せるようになりたい。いや、義勇の父は悲鳴嶼ほど大きくなかった気がするので、やはり難しい気がするが。
任務先にいた姉妹は同じ藤の家紋の家に身を寄せており、家人の手伝いと称して義勇の世話を焼いてくれていた。食事を一人で食べるのは寂しいと言えば、家人が気を利かせて三人分の食事を部屋に運んでくれるようになった。言葉も行動も失敗することの多い義勇だが、言いたいことは口に出すよう悲鳴嶼に言われてから、気づいた時にはそうするようにしていた。
そうして完治するまでの間二人と話すようになると、段々と姉妹の表情が真剣味を帯び始めたことに義勇は気づいた。
「あ、……もう行くの?」
「指令が来てないから待機する」
久しぶりの隊服と姉の羽織を纏い、義勇は充てがわれた部屋で静かに指令を待つつもりだった。姉妹の姉は布団を干しにきてくれたらしく、廊下の奥に妹もいる気配がした。
部屋に入ってきた二人は正座をし、義勇に向かって畳へ額を擦り付けるほど深々と頭を下げた。
「私たちに戦い方を教えてください」
予想していたことではあった。
そもそも義勇自身が姉を殺されて鬼狩りになったのだ。
義勇が療養している期間、悲鳴嶼も何度か見舞ってくれた。義勇を見舞った後悲鳴嶼を呼び止めた姉妹は、鬼狩りになるためにどうすればいいかと問いかけたらしいが、彼はやはり難色を示したようだった。義勇にも何度も問いかけていたことがある。
義勇が声をかけるまで顔を上げるつもりがないのか、教えを請うてから一度も動くことはなかった。
義勇の成長期はまだ終わっておらずまだまだ体格が大きくなると希望を持っているが、岩の呼吸は悲鳴嶼のような恵体の者にしか使いこなせないと言われている。元々岩の呼吸の育手は悲鳴嶼のように体格の良い者しか弟子入りさせていなかったらしく、彼と悲鳴嶼の情けで義勇は修行を受けていたのである。師の元で教わったことは義勇にとっても大事なことばかりで、教えを無駄にすることは絶対にしないと決めているが、岩の呼吸を使わない義勇が頼み事をするには少し気が引けた。
もう一人の師である鱗滝ならば大岩の移動や滝行を鍛錬に取り入れると言っていたし、水の呼吸は扱いやすいらしい。頼めば受け入れてくれるかもしれない。
「……狭霧山に、俺の師がいる」
「! 紹介してくださるの?」
「紹介するだけだ。先生が受け入れるかどうかは俺にもわからない」
どちらの師も鍛錬は生半ではない。岩の呼吸の修行はまずもって筋肉量に物をいわせるような鍛錬も多かったし、鱗滝は元々厳しい修行に追加してまで鍛錬を過酷なものにした。きっと死なせたくない一心でやってくれたことなのだろうし、それに耐え抜ける者しか鬼狩りになれないのだろうとも感じる。
義勇がどこまでできるのか、それは自分自身にもわからないけれど。二人の師や兄弟弟子、悲鳴嶼が憐れむような目を向けることにならないよう励むばかりだった。
「厳しいものになると思う」
「ええ、紹介さえしていただけるなら、その方の説得は自分たちでします。どんな厳しい修行でも構いません。それくらいでないと鬼とは渡り合えないもの」
「ありがとうございます」
一度上げた頭をまた深く下げ、二人は礼を口にした。畏まらなくていいと一言告げると、姉妹は同時に顔を上げた。
「悲鳴嶼さんには伝えたほうが」
普段通りの気安さが戻った時、義勇の言葉に二人は固まり無言で目を見合わせた。今までどんな引き止め方をされたのかは知らないが、どうやら絶対に反対されると思っているらしい。
「たぶん、……最終的に決めたことを無下にはしないと思う。俺とお前たちでは違うかもしれないが」
悲鳴嶼が鬼狩りになることを止めるのは優しさ故だ。義勇が引かないことを悟った時、悲鳴嶼は困った顔をしながらも頷いて一緒に励むことを提案してくれた。自分で決めたことをきっと怒りはしない。
ただ、鬼に殺されてしまうことを悲鳴嶼は悲しむ。生き残ることがひと際難しいこの世界で、死なない約束などできないけれど。
「悲鳴嶼さんみたいになれると良いな」
「………! そうよね! あの鉄球振り回すんだもの、凄い筋力よ! 義勇くんも憧れてるの?」
「うん」
どうやら悲鳴嶼に憧れたのは姉妹もらしく、姉は興奮したようにはしゃいで言い募り始めた。
まず武器が他と一線を画していて、彼のような手斧や鉄球を扱う隊士を義勇はまだ見たことがない。基本的に隊士は皆刀を差している。あれを振り回せる筋力をつけることができたら、義勇ももう少しくらい上手く立ち回れるようになるかもしれないのだが。
「義勇くんの剣も凄いなって思ったのよ。どんな修行したら二人みたいになれるんだろうってしのぶと話してて」
「岩の呼吸は悲鳴嶼さんみたいに体格とか筋力とか飛び抜けてる人しか扱えない。俺の刀は青に染まったから、もう岩の呼吸は適正じゃないことはわかってるけど……」
「………? 刀に色がつくんですか?」
藤の家紋の家に世話になっているとはいえ部外者であり、元来口数の多くない義勇は、鬼殺隊の詳しい事情は二人に話していなかった。興味が湧いたらしく妹から少しだけ刀身を見せてほしいと言われ、触らないことを条件に見せることにした。
「綺麗だね、しのぶ。私たちは何色になるかな」
「……うん」
日暮れが近づいた空から羽ばたく音が聞こえた。窓を振り向くと一羽の鴉が義勇の頭に止まり、労る言葉をかけた後に指令を伝えた。
「もしここに戻れないなら場所を教えて。私たちが伺うから」
「気をつけてくださいね」
「鬼狩り様のご武運をお祈りしております」
藤の家紋の家人たちと姉妹に礼とともに頭を下げ、義勇は一つ息を吐いてから鴉の先導に従い駆け出した。