兄弟弟子・水と雷
「女児から受けんのも微妙だけど、カタワに訓練受けんのは流石に俺らを馬鹿にしすぎだろ」
カナヲとの鬼ごっこまでを済ませた炭治郎たちが顔を出した道場には、すでに数名の隊士が隅に座って話していた。
相対していたのは錆兎だ。義勇の元継子だというのは本人から直接聞いたが、彼の匂いは隊士を辞めているというのが信じられないくらいのものだった。
「馬鹿だなあいつら。あいつ、俺らより強えぞ。すぐ抜かしてやるけどな」
ひっそりと呟いたのは伊之助だった。
常中を会得していたはずの炭治郎でもまだ届かない錆兎の強さ。カナヲにもまだ届いていないのは理解しているが、強さへの道程は遠く先が長い。彼のような者が訓練を施してくれるのは貴重な機会だというのに。彼らはまだカナヲとの鬼ごっこも終えていないらしく、先にこちらへ来たらしい。
錆兎への言葉があまりになっていない。炭治郎が窘めようとした時、錆兎は楽しげに竹刀を肩へと置いた。
「ふむ、お前たちは駆け出しか? 対峙した者の力量もわからんようでは鬼は倒せんぞ」
駆け出し程度に負けるほど落ちぶれてはいない。錆兎が隊士だった頃、彼は甲まで上り詰めていたという話だった。義勇に何かあればすぐに柱として跡を継げるような人だったのだ。片腕を失くそうとも義手を軽々扱う様子は本物の腕とそう変わりないくらいだ。
「あの人、アオイちゃんたちと一緒に手当してくれる人じゃん」
「義勇さんの元継子だよ」
「誰?」
「水柱の冨岡義勇さんだ。蝶屋敷にも来てたけど、会ってないか? 葡萄色の羽織を着て、髪は一つに纏めてて、そばにいると落ち着いて……ええと、目元が涼しげだ。凄い人だよ」
知らねえ、と伊之助の興味は義勇の話よりも錆兎へと向いていた。義勇を思い出したらしい善逸は相槌を打った後、何故か忌々しげに舌打ちをした。
失礼な物言いをしていた隊士は錆兎に軽く捻られていて、不貞腐れながらも頭を下げていた。
「柔軟からやり直せ。お前たちがここにいるならすみたちは手が空いてるんだろう」
「他の人がいなければたぶん」
錆兎に追い出され渋々道場を出ていく隊士たちと入れ代わりに現れたのは、正に今話をしていた義勇の涼しげな顔だった。錆兎に用事があったのか、何やら話をしに来たらしい。
「あーっ! てめえ、俺をぐるぐる巻きにした奴!」
「………。お前のことなど知らん」
「何だと!?」
落ち着いていたはずの伊之助が騒がしくなり、義勇を指して暴れようとし始めた。善逸とともに押さえつつ落ち着くように宥めた。伊之助は興奮してなかなか落ち着かなかったが。
「そりゃお前、猪頭被ってたらそうなるよ! どうせどっかで会った時も被ってたんだろ?」
「……猪頭」
「知ってますか?」
どうどうと宥めつつ、何やら思案している義勇へ炭治郎は声をかけた。
義勇と伊之助が会うなら、那田蜘蛛山での任務だろうか。あの時も伊之助は半裸で猪の被り物をしており、今それは置いてきている。普段の特徴を伝えると天井を仰ぎながら義勇は小さく呟いた。
「……ああ。怪我の程度もわからない未熟者か」
「ああーん!?」
「手厳しい……」
「………!? ちょっと待て! お前嘴平だったのか!? 何で炭治郎と我妻がいるのにいないのかと思ってたら!」
錆兎は素顔を晒した伊之助が伊之助だと気づかなかったらしく、それはもう驚いていた。善逸もその反応に深く頷いて理解を示すほどである。
「はー、成程……。強者の見極めはできても引き際は見極められなかったということか。男には引いてはならない時もあるが、お前はし損なって義勇に止められたわけだな」
「……そもそも隊内のやり合いは隊律違反だ。俺に向かってくるから止めたのもある」
「伊之助、義勇さんにかかっていったのか?」
「命知らずな奴め」
善逸は顔を歪めて伊之助に引いている。炭治郎の声が咎めているようにでも聞こえたのか、伊之助は炭治郎の手を振り払って距離を取った。
「うるせえ! てめえも強えのはわかってんだ、俺が相手になってやるぜ!」
「水柱に刃を向け、俺にも食ってかかる。元気が良いな」
錆兎はどうやら伊之助に興味が湧いたのか、何やら楽しげに笑って竹刀を構えた。
「機能回復訓練は終えたという話だったな。早く勘を取り戻すことだ」
炭治郎も匂いで感じていたけれど、伊之助が強いと言うのだから、錆兎の実力はまだ辿り着けないものなのだろうと考えてはいた。
息を切らせて膝をつく伊之助に、錆兎は呆れたような様子で一言言い放ったのである。
伊之助だって弱くはないはずなのに。
「やいお前! 何で隊士じゃねえんだよ、凄え強え癖に!」
「ただの隊士なら本人の感情だけで続けることもできたかもしれんが、俺は継子だったんだぞ。利き腕が失くなるだけで能力は半減どころじゃなくがた落ちだ。任務は鍛錬とは訳が違う。他人の命がかかってるんだ、危険は晒せない」
たった一瞬の判断と行動の遅さが命取りになる。
これほど強くても隊士を辞めなければならなかった錆兎は、きっと歯痒い思いをずっとしていたのだろうと思うけれど。
――当たり前のように自分の命は数えないんだ。
柱もきっとそうなのだろう。自分が戦うことで誰かの命が助かるなら、彼らは迷いなく戦い続けてきたはずだ。きっとそうでなければ柱にはなれない。
そういった強い人が来てくれることは、炭治郎にとっても安心できるものではあるけれど。
*
ぎくりと肩を震わせて振り向いた時、耳を澄ませるほどに静かな音を持つ水柱がそこにいた。
先程の小競り合いを見られてしまったか。小競り合いといっても、善逸が急に手を上げたような形に見えただろう。逃げていった彼らだって不満とともに何故殴られたのかわかっていないようだった。
「……お前の兄弟子は、獪岳というのか」
「へ……。は、はい。……知ってるんですか」
「………」
「え……、ええ……」
問いかけたのに黙って去っていかれた。善逸はどうしていいかわからなくなった。
動揺があった気がする。静かな音が波紋を浮かべたような、静かな動揺。そして静かな喜びの音。
獪岳と知り合いなのだろうか。任務中に会うようなことがあったのか。獪岳は善逸には八つ当たりも真っ当な怒りも酷くぶつけてきたけれど、目上の者には敬意を払っていた。育手である桑島のことは尊敬していたし、喜んでいるくらいだ、きっと何か粗相をしたということはないと思うが。
「は? 隊士と揉めた? 知らねえよそんなこと、俺に迷惑かけんなよカス」
数日後に街で顔を合わせた時、その理由も聞くことなく獪岳は隊士に手を上げた善逸を詰った。
別にそれはいい。どうせ善逸のやることは全て気に入らないと思うような奴だ。ただ善逸が獪岳の文句を言われるのが我慢ならなかっただけだった。
「獪岳は……水柱と知り合いなの? 冨岡義勇さん、て名前の」
「―――、……知らねえな」
知り合いなんだ。
一瞬とはいえ言葉を失った獪岳は、あからさまに動揺の音を鳴らした。それからすぐに善逸の肩を強く押して、これ以上迷惑をかけるなと念を押して去っていった。
獪岳と水柱が知り合い。なのに獪岳は知らないと嘘を吐いた。水柱も動揺していたが、小さくとも喜んでいたことは間違いない。どういう知り合いならこんなに素知らぬ振りをすることになるのか、一方通行のような関係に善逸は不審さを感じていた。
「……獪岳が鬼殺隊にいるのをご存じですか」
「―――、」
義勇の言葉にらしくもなく動揺した悲鳴嶼は、湯呑みに手が当たり中の茶を少し溢してしまった。
義勇の声は柔らかい。生きていることを知って安堵でもしたのだろう。見かけたのかと問いかければ、獪岳の名を知る隊士に会ったのだと言った。
「獪岳が兄弟子だという話でした」
「……兄弟子……」
まだ幼かった義勇に伝えることはしなかったが、悲鳴嶼は獪岳があの当時の寺で何をしたかを聞いていた。だからこそ獪岳以外の子供たちを守ろうと必死になったともいえる。でなければ獪岳を探しに悲鳴嶼も外へ飛び出した可能性があったし、そうすればきっと義勇と沙代は生きてはいなかっただろうとも思う。
獪岳は藤の花の香炉を消した。
寺の人間を鬼に売ったのは獪岳だ。悲鳴嶼は子供を信じられなくなるところだった。
だが鬼殺隊にいるということは、鬼に与することはなかったということだろうか。心を入れ替えたのか、それとも鬼が嘘を吐いて混乱させようとしたのか。悲鳴嶼はもしかしたらずっと大変な勘違いをしていた可能性もあったのかもしれない。
顛末を知らず、素直に生きていたことを喜んでいる義勇には黙っておくべきだろう。恐らく悲鳴嶼と義勇が鬼殺隊にいることも獪岳は知っているはずだ。己の存在が少しでも獪岳の良心に引っかかるものであれば良いのだが。
「そのうち任務で顔を合わせるかもしれんな」
「………、はい」
悲鳴嶼が動揺したことを悟りでもしたか、義勇は少し訝しげにしながらもそれ以上何かを聞くことはなかった。