最終選別から那田蜘蛛山までの軌跡

 最終選別から戻ってきた時に目を覚ますなど、まるで鬼退治を待っていたかのようだ。
 ここに来てから一度も起きることのなかった禰豆子は、義勇が任務から戻ってきてしばらくした頃に目を覚ました。
 ひと晩眠って目が覚めたかのように、まるで今までもそうしていたかのようにごく自然に布団から起き上がった。
 様子を見に来た義勇に目を向け首を傾げてから、ふいに立ち上がって庭へ繋がる障子を禰豆子が蹴り倒した時、こちらへと向かってきている炭治郎の姿が見えたのだ。
 禰豆子にしがみついて泣く炭治郎と、宥めるように撫でる禰豆子の姿は、鬼と人であることを忘れさせるくらいに自然で異質なものだった。
 兄妹の再会を一先ず見届け、落ち着いた頃に義勇は風呂に入るよう促し、食事をさせて休むよう指示をした。七日間の最終選別を終えて戻ってきたのだから、今日くらいは労ってやるべきだろう。鬼である禰豆子は人を襲う素振りもなく兄から離れようとしなかったので、ひと通りの身のまわりのことを終えた後、二人ともを布団に押し込めて寝かせることにした。
 刀が届くのは半月ほどかかり、届けば隊士としての任務が始まる。死の危険が跳ね上がる世界に身を投じることになるのだ。
 一癖も二癖もある刀鍛冶から届けられた刀は、青にも赤にもならず混じり気のない黒へと変色した。
 鋼鐵塚は怒りがっかりして帰っていったが、黒とは。
 義勇が見てきた隊士の中に黒い日輪刀を持つ隊士はいなかったし、どの呼吸を極めればいいかもわからないと聞く。新たに呼吸法を派生させるものなのかもしれないが。
 まあ、とりあえずは水の呼吸を扱えるのだから、炭治郎に合った呼吸は模索していくしかないだろう。黒い日輪刀のことくらいなら鱗滝にも聞けるかもしれない。
「禰豆子は隠しておけ。隊士たちの混乱も避けたい」
 屋敷に留まらせておくことも提案したが、連れていきたいと炭治郎が譲らないのでそのための箱を作り、禰豆子を背負わせることにした。
 それが吉と出るか凶と出るか、義勇にもわからなかったが。
 ただ、妹と離れたくないという炭治郎の気持ちが、会いたくても会えなくなった姉を思い出させた。
「本部へは折を見て呼ばれるだろう。柱にはいずれ顔見せする時が来る。鬼を憎む者たちだ」
 生易しい反応は返ってこないだろう。悲鳴嶼の最初の反応が正常だ。産屋敷が許しているとしても、納得できない者は必ずいる。義勇を信じた彼らがおかしいのだ。本当に、有難い存在だ。
「その時は、お前も覚悟をしておけ」
「……はい。行ってきます!」

*

「えっ!? もう次に行くのか。待って、せめて義勇さんに報告を」
「待タナイ!」
 浅草に向かう前に何とか屋敷を通れないだろうか。禰豆子とともに初任務を完遂できたのだと一言だけでも伝えたかったのだが、もしかしたら不在にしている場合もあるかと思い直した。
 義勇が禰豆子にかけた暗示はどうやら機能しているのだろう。できればそんなものをかけてほしくはなかったが、人を殺さないためには必要なことなのだろうことも理解している。全ては禰豆子を人に戻すまでの間の我慢だ。
 ――鬼の首魁の名は鬼舞辻無惨。
 鬼が人に戻る方法を知っているとするならば、鬼を作り出すことのできる者が可能性は高い。
 増やすだけ増やして人を殺して、元に戻す方法を知らない可能性もあるだろうと義勇は言った。炭治郎とてそれを考えなかったわけではない。しかし、それ以外に手は見つからないなら探すしかないのだ。
 禰豆子が鬼になっているということは、その鬼の首魁と接触しているはずだと義勇は言っていた。鬼を作り出せるのは鬼舞辻無惨しかおらず、そいつの血を飲んで鬼に変貌したのだという。忘れもしない、血に塗れた家族に残ったあの匂いが、鬼舞辻無惨の匂いのはずなのだ。
 だから鬼に聞くことは、鬼舞辻無惨の情報だ。外見、居所、急所、何でもいい。とにかく知っていることを吐かせる。義勇でさえ鬼の首魁とは接触したことがないというし、そうでもしなければ途方に暮れるだけだ。
 だが、あの沼の鬼の様子では、情報を吐かせるのは難しいかもしれない。
 しかし泣き言など言っている暇は炭治郎にはない。難しくてもやらねばならないことがあるのだ。
 かといってひと筋縄ではいかないだろうことだけは、浅草に着いてから思い知ることになるのだが。

*

「僕は自分の糸で頸を切ったんだよ」
 疲弊するほど必死に頸を狙ったのに、あちらが一枚上手だったらしい。
 十二鬼月だという鬼の片目には下弦と伍の文字が刻まれていて、今の炭治郎では太刀打ちできないというのが身に沁みて感じられた。きっと重要な情報は強い鬼が知っているだろうに、こんなことでは人に戻す方法も聞き出せない。
「……だったらもう一度斬る」
「どうやって? 体力の限界にきてるよね。お前一人で糸が斬れなきゃ僕に勝てやしないよ」
 禰豆子はすでに回復のための眠りに落ちている。
 落ち着け。正しい呼吸なら疲弊なんてものは関係ない。技を乱発し過ぎたせいか苦しいけれど、修行のおかげか炭治郎はまだ動ける。鬼の糸を警戒しながら折れた刀を構えた。
「細切れに刻んであげるよ」
「………!」
 鬼が綾取りの手を見せた瞬間、籠状の糸が炭治郎を囲うように現れ逃げ場を失った。
 鬼の言うとおり糸の強度はとてつもなく硬いことが窺える。この糸が触れれば炭治郎は細切れになることが容易に想像できた。ただ糸を斬りつけても折れた刀が更に折れてしまうだけだ。
 だからといって黙って諦めるわけにはいかない。乱れた呼吸を整えて、もう一度先程のヒノカミ神楽の技を出そうとした瞬間、炭治郎を囲んでいた糸がばらばらに切れて地面に落ちていく光景を目の当たりにした。
「俺が来るまでよく堪えた」
「………、義勇さん」
 静かに着地した後ろ姿は、炭治郎がずっと見ていたものだ。
 見知った姿の名を呼ぶと、鬼は苛立ったように大掛かりな血鬼術を使い始めた。
 先程の籠よりも大きく強力な糸が目の前で形成されていき、それが一気に義勇へと襲いかかった。
 だというのに、義勇に到達する前に糸は全て地面に落ちた。
 何をしたのか殆ど見えなかった。なのに技から見える水だけははっきりと見え、それが水の呼吸の型であることは理解した。鬼が再度血鬼術を使う前に、義勇の手で静かに頸は落とされた。
 見たことのない、炭治郎の知らない型。水の呼吸の型は拾までだと義勇は言っていたが、まだ型は存在していたのか。炭治郎には教えてもらえない型なのだろうか。刀を鞘へ収めた義勇が炭治郎を振り返り、禰豆子が倒れているほうへ目を向けた。慌てて炭治郎は禰豆子の元へ駆け寄った。
「禰豆、うわ!」
 禰豆子を抱え上げようとした炭治郎に向かって走ってきた女の子が刀を振り被った時、咄嗟に禰豆子を庇った背中側から剣戟の音が響いた。振り向くと義勇の刀が彼女の刀を止めていて、女の子の驚いた目が揺れたのを見た。
「刀を下ろせ。これは隊士だ」
「………」
 最終選別にいた女の子だ。あの時は何にも動じない様子だったが、今は義勇の言動に動揺しているようだった。
「カナヲ」
「………、は、はい」
 名前らしきものを義勇が口にして、ようやく女の子は腕を下ろした。刀は握ったままだが、それでも今攻撃を仕掛けることはやめてくれたらしい。
 だが、不安げに義勇を見上げ、炭治郎と禰豆子へ視線を向けた。
「その坊やが匿ってる鬼は捨て置いて問題ありませんよ」
 木の上から声が聞こえ、地面に着地して現れたのは以前禰豆子の血を提供したしのぶだった。
「カナヲは隠の指示をお願いしますね」
「……はい」
 しのぶの指示に素直に引いた女の子は、周囲を見回しつつその場を離れた。
 久しぶりだと笑みを向けられ、炭治郎も挨拶を返す。どうやら義勇とともにしのぶも指令を受けたようだった。
「本部からの要請だ。これからお前は柱合会議に出る」
「……はい。大丈夫です、覚悟はできてます」
 鬼を憎む柱が待つ本部へ、炭治郎はこれから向かう。義勇が言うには禰豆子の存在を容認してくれているのは鬼殺隊の当主だという。柱はその当主に全幅の信頼を置いているが、鬼の存在を受け入れる者はいないと思うべきだということだった。家族を失って鬼殺隊に入る者が多いから、憎悪を抱くのは当然ともいえるのだろう。
「では、連れていってください。すみませんが一応拘束するよう命が下っていますから」
「あ、はい。大丈夫です。お願いします! あ! 箱取って来ていいですか? 禰豆子を入れないと」
「お、おお……」
 しのぶの声とともに現れた黒ずくめの者たちに挨拶をすると、少しばかり困惑したような匂いを醸しつつ炭治郎の言うことに頷いてくれた。そのまま目隠しをされて背負われ、もう一人には箱を抱えられ、炭治郎は連れていかれた。