水柱邸の子供
目まぐるしい日々だった。
冨岡の屋敷に来た翌日から、炭治郎は修行漬けの毎日だった。
鬼殺隊の剣士になるには肺が強くなければならず、いいと言うまで足を動かし続けろと言われ竹林を只管走り続けた。山道を走ることもあった炭治郎はそれくらいならいけそうだと高を括ったのだが、これが少しも楽ではなかった。
冨岡は本当に朝から陽が落ちるまでいいと言わない。拳大の石だとか当たればただでは済まない刃物だとか、とにかく色んなものを使った罠がそこかしこに仕掛けられていて、足を止めると倍以上の威力の攻撃が木の上にいる冨岡から飛んでくるのである。何ならいいと言わずに任務に出掛けられたこともある。この場合は屋内に移動していたので確実にわざとで、冨岡が戻るまで只管筋力運動を課せられていた。
何とか足を止めずについていけるようになってきた頃、修行は新たな段階へと進んだ。
千年竹林を超えた先にある断崖で立ち止まった冨岡に倣って足を止めると、突然体が宙に浮いた。
「屋敷まで一人で戻ってこい。あまりに遅ければ宙吊りにする」
冨岡の静かな声を聞きながら、崖下の池へ投げられたのだと落ちながら気づいた。悲鳴すら上げられないまま、たまたま木に引っかかって何とか無傷で着地できた。残念ながら水は被ることになったが。
屋敷からここへ来るまででも時間はかかっていたし、夜になれば鬼が出る。それまでには帰らないとならないのだが、迂回しようにもかかる時間が読めなかった。これも鍛錬だと崖を登ろうとしたが、これまた非常に細かく痛い罠がありとあらゆるところに仕掛けられていた。
水を吸って重くなった服を絞り、寒いなか八方塞がりだったが何とか陽が落ち切る前に帰ると、遅いと言われて部屋の真ん中で宙吊りにされ、またもそのまま放置して任務に行かれてしまった。縄を外せないかと試行錯誤してみたが、非常に難解な結び方をされておりどうにもならなかった。夜明けに帰ってきた冨岡は宙吊りの炭治郎を見て、まだぶら下がっているのかと溜息を吐いた。悔しかったが、外せなかったのだから言われるのも仕方なかった。何度も挑戦しているうち縄は外せるようになったし、宙吊りにされることも少なくなった。
少し余裕が出てきた頃、ようやく炭治郎は冨岡が普段何をしているのか気になるようになった。
朝日のなか戻ってくる冨岡が仮眠を取り、炭治郎の修行を一人でさせている間。日中彼は出かけることがある。
毎日ではないが案外頻繁に。毎度彼は薬品の匂いをさせて帰ってくるので、もしや病院通いしているのか、どこか痛めているのかと心配になり問いかけたことがあった。
鬼殺隊預かりの診療所があり、そこで昔から手伝いをしているのだと聞かされた。炭治郎が来てからは少し頻度を落としたが、人手が足りているわけではないので顔を出すことにしているらしい。
人手が足りない。炭治郎にもできることがあれば手伝いたいが、そう考えたのを察されたらしく今は鍛錬に集中するように冨岡に窘められた。確かに、自分のことすらままならないのでは足手まといにもなるだろう。
それに起きない禰豆子のことも気になっている。
ここに来てからずっと、もう半年以上になるというのに、禰豆子は一度も目を覚ますことがなかった。
不安だ、心配だと相談すると、冨岡は少し思案した後、考えがあると一言口にした。
*
いつになく酷く緊張していた。この後のことを考えると吐きそうだった。
だが全ては自分が招いたことであり、本来なら悲鳴嶼も巻き込むはずではなかった。伝えるつもりもなかったが、炭治郎諸共殺してしまいそうだった彼を宥めるには言うしかなかったのだ。
悲鳴嶼は信じてくれた。彼らもきっと信じてくれると義勇も感じられるけれど、どうしても義勇にとっての最悪を想像してしまう。頭と心は裏腹の思考が巡り巡っているのだ。
だが、炭治郎を安心させるためにも意を決して口を開かなければならない。他の医者に診せることも考えたが、鬼のことまでわかるかどうかは不明である。まあそれはカナエにも言えることではあるが。
たとえ信じてもらえなかろうと、罵られようと殴られようと、義勇は自分のしたことに最期まで責任を持つつもりであり、持たなければならないと考えていた。
怒られるのも罵られるのも殴られるのも全部大したことはない。だが、信じてもらえないのは何よりも苦しい。あの目を向けられるくらいなら逃げ出したいと奥底では感じてしまうが、それでは駄目なのだ。自分自身に逃げ癖などつけたくない。つけてはならないのだ。
吐きそうだった。彼らの顔を見るのが怖かった。悲鳴嶼は静かに様子を窺っていて、頭を抱えた錆兎と、怒りを顕にしたしのぶと、カナエもまた泣きそうなほど驚いていた。
「……半年も、鬼と生活してたっていうんですか」
「屋敷に来た時点で眠っていた。一度も起きてない」
ぎり、と忌々しいとでもいうように歯噛みしたしのぶは、あまりに頭に血が上っているのを見兼ねた錆兎が落ち着くよう窘めていた。錆兎自身は頭を押さえつつ溜息を吐いて、呆れたような視線を義勇へと向けた。
「不思議な話だわ。眠り続ける鬼なんて今までいたのかしら。人を喰ってないのなら生態も他の鬼と全然違うかもしれないわね」
「………」
しのぶの表情が変わった。眉間の皺は刻み込まれていたが、何かを思案しながら黙り込み、カナエが少し不思議そうに眺めていた。そして強い光を灯した目が義勇を捉えた。
「鬼を見逃したことはこの際不問にしましょう。お館様が問題ないのであれば私も文句は言いません。その代わり」
不問。文句は言わない。
普段のしのぶから考えてもやけに寛容な答えだった。一体何を言うつもりなのか想像がつかない。義勇には想像だにしないことをしのぶはやってのけるのだ。毒も呼吸も。
「私にその鬼の血を提供してください」
驚いてしのぶを凝視した義勇の目を真正面から見返しながら更に口を開いた。
「勝手に血を抜くことに気が引けるのなら、その坊やと話をさせてください」
鬼の血を研究すれば生態がわかるようになるかもしれない。より強力な毒を作り出すこともできるかもしれない。しのぶが憤りを飲み込むことに成功した理由だった。
兄に直談判して血を提供してもらうことを考えているという。頑固な兄が頷くかはしのぶの口八丁によるが、しのぶに口で勝てる者を義勇は見たことがなかった。恐らく炭治郎も頷くだろうと予想できる。
それとは別に、義勇は彼らの反応につい口にしてしまった。
「……信じるのか」
「はあ……所業はともかく、あなたが嘘吐けるわけないでしょ」
「そうだな。最近何か隠してるとは思ってたが……会話避けてたなお前。そういうところは治せよ」
「会うの楽しみだわ、その鬼の女の子!」
「………」
安堵して情けない顔を見られたくなくて、義勇は手のひらで顔を隠して俯き、大きく息を吐き出した。吐きそうだった気分が別の意味で吐きそうになっている気がする。これほど安心したのは悲鳴嶼が牢から出てきた時以来かもしれない。黙って座っていた悲鳴嶼は小さく笑みを浮かべていたが、相変わらず涙腺が緩んでいるようだった。
*
「こんにちは、竈門炭治郎くん」
ぎくりと肩が揺れたのは、突然現れた匂いがあったこと、自分の名を呼ばれたこと、そして名を呼んだ者が鬼殺隊関係者であることを察したからだった。
隠れていなければならなかったのに、声をかけた張本人はよもや屋敷の塀に飛び乗ってこちらを眺めていた。口元は笑っているが、少しばかり怒っているようにも見える表情で。
「私は胡蝶しのぶ、鬼殺隊の者です。ご存じでしょう、鬼殺隊」
「……は、はい。すみません、こちらのご主人は今不在で……」
「ええ、存じ上げてます。あなたに話があって参りました。家主には許可を取ってあります」
確認するならばどうぞ、と空を旋回していた鴉を呼び、手紙でも書くかと問いかけられた。
義勇にも鴉がそばにいることがよくあったことを思い出しながら、多忙な義勇の手を煩わせるのは駄目だと判断し、炭治郎は彼女の言葉を信じることにした。嘘を吐いている匂いではないし、確認を促すくらいだ、本当に義勇には許可を得ているのだろう。炭治郎は身を隠すべきだったのだろうが、殆ど不法侵入のように入られるとは思っていなかった。
「今日は坊やに頼みがあって来たんです」
「俺に、ですか?」
「ええ。私は鬼を殺す毒を作り蟲柱として鬼殺隊に属しています。主に藤の花を使った毒を精製してるんですが、少し協力してほしいことがありまして」
蟲柱。鬼殺隊の詳しい内情までを義勇は炭治郎に話すことはなかったが、柱とつく言葉が目の前の彼女の口から飛び出てきた。
義勇と悲鳴嶼以外の柱に見つかったら、禰豆子の頸は確実に飛ぶ。義勇にそう脅されていたのを瞬時に思い出し、炭治郎はつい後退りをした。
「そんなに怯えなくても、あなたに危害は加えませんよ」
その言葉は禰豆子の存在を知った上で、更に危害を加える気があるとでも言っているように炭治郎には聞こえてしまった。そういう匂いが漂ったように感じたのだ。
先程よりも楽しげに見える笑みを浮かべながら、彼女は小さく笑い声を漏らした。彼女は義勇の同僚なのだろうから、炭治郎が追い払うなど失礼なことはできない。悲鳴嶼や義勇と同じ柱だと自称したのだから、恐らく炭治郎より腕が立つのだろう。見た目からは想像もつかないが。
「鬼が絶命するのは日輪刀で頸を斬るか、陽光に晒すことだというのはご存じですね」
「……はい。だから剣士になって鬼を斬るのだと」
「ええ。ですが私は藤の花の毒を用いて鬼を殺します。頸を斬れない者が隊士として生きるには毒を使うしか現状手はない。私はそうして柱になりました」
凄いんですよ、と自画自賛する彼女が初めて柔らかい笑みを見せ、炭治郎はついどぎまぎと焦ってしまった。まだ禰豆子の頸を狙っているかもしれないのだから気を引き締めるべきだというのに。無理やり気を取り直して話を促した。
「その毒は藤の花から精製しますが、様々な調合を必要とします。そこでですね、あなたの妹だという鬼のお嬢さんに、血液を提供していただきたいんです」
「……血液?」
するりと話題に挙げられた禰豆子の存在を隠す間もなく、炭治郎は頸を狙われているのではないのかと不思議に思った。何をするつもりなのだろう。
「ええ。妹さんの血を使って毒の研究を進めたいんです。私は薬学に精通してまして、研究者ともいえるかもしれません」
「研究者……」
「効率良く鬼を殺すために、あなたの妹さんの協力を頼みたいんです」
協力。禰豆子を殺すためではなく協力を頼みに来た。禰豆子は今眠っていて話はできないが、血液くらいなら差し出すことはできそうだった。
頸ではなく血を狙っていたのだろうか。どちらにしろ嘘の匂いはせず、その言葉に偽りはないようだった。いや、そうか。これは観察している匂いだ。敵意にも思えるほど厳しい視線で炭治郎を見定めている。
「はい、それくらいなら大丈夫です」
「………。竈門くん。きみは素直な良い子のようですが、私が悪い人ならすぐに騙されて妹さんは殺されてしまうかもしれませんよ」
「あ、えっと。胡蝶さんが嘘を吐いてないのはわかったので……」
目を丸くした彼女がどういうことかと問いかけてくる。
炭治郎は鼻が利く。義勇が優しいことも、彼女が何かを企んでいたことも匂いで気づいたことだ。だが彼女が話す言葉に偽りはなかった。嘘の匂いがしていたら、いくら炭治郎でも頷きはしない。
「匂いで大体の感情がわかるんです。俺、鼻が利くので」
「……成程。大体わかりました」
何がだろう。首を傾げて問いかけてみても、彼女はそれ以上このことについて話すことはなかった。
「それから、あなたの妹さんの睡眠についても、医者を呼ぶよう家主から頼まれています」
「え……そうなんですか?」
「ええ。鬼殺隊預かりの医療従事者が参りますので、その時に血液も採取させてもらいますね」
「わかりました。よろしくお願いします」
そうか。炭治郎が心配だと言った時、義勇は考えがあると口にしていた。その考えとは彼女の言った医者のことなのだろうと思い至った。
気を回してくれたのか。きっと禰豆子を殺さないよう話を受け入れてくれた柱を采配してくれたのだ。彼女とその呼んでくれた医者にも炭治郎は感謝した。