水面下の弟子

「はあ、はあ……き、来ました。こんにち、いや、おはようございます」
「………」
 ――お前が妹をどうにかしたいと心底思うなら。
 家族を失い妹が鬼になったあの日、道を示してくれた目の前の男は、本気でやり遂げたいなら自分のところまで来いと告げて炭治郎たちの前から去っていった。
 山育ちである炭治郎には土地勘もなくなかなかに居場所を探すのは苦労したが、千年竹林と書かれた岩の奥にある屋敷がそうであることに気づき、ようやく再会を果たしたのである。
 鬼の妹に人を殺させない。鬼の妹を人間に戻す。そのために炭治郎はここまで来た。わからないことばかりだったが、あのまま家にいても妹はどうにもならないことだけははっきりしていた。最初こそ警戒したが、思い返せば彼の匂いは炭治郎を慮っているものだったのだ。悪い人ではないことはわかったし、頼れる者は彼以外にいなかった。
「竈門炭治郎といいます。俺は、わっ、!」
 自己紹介の途中でふいに頭を鷲掴まれ、抱え込まれるようにしてその場から無理やり移動させられた。同時に先程まで炭治郎が背にしていた玄関に鉄球のようなものが思いきりぶち込まれ、どごんとかガシャンとか、とにかく大きな破壊音が鳴り響いて土煙やらが舞い上がった。
 彼に庇われずあのまま立っていたら炭治郎は怪我では済まなかっただろう。血の気が引いて何も言えなくなった炭治郎は言葉にならないか細い声が喉から漏れた。
「………。何故、鬼を庇った」
「………」
 彼の背後から聞こえた声は、怒りを孕んだものだった。炭治郎の何倍もある大きな体躯が持つ武器は、手斧と鎖で繋がれた鉄球だった。投げつけたのはこの大男だったらしい。
「俺が庇ったのは人間です」
「では何故その子供から鬼の気配がする?」
 このままでは殺されるのではないか。炭治郎を庇ってくれた男は炭治郎では太刀打ちできない人だったが、奥の大男とは比べるまでもなく体格に差がある。どちらが強いかなど炭治郎には判断がつかないが、見た限りでは庇ってくれた彼は負けてしまうのではないかと不安になった。
 炭治郎が背負っている籠には妹が入っている。せっかく妹を見逃してくれたのだから、殺されるわけにはいかないのに。
「あ、あの、」
「お前はそっちの部屋にいろ。さっさと行け」
「う……は、はい」
 大丈夫だろうか。炭治郎が来たせいで彼はあの大男から何かされるかもしれない。かといって部屋にいろと言われて頷いてしまった手前、炭治郎は従う以外にできなかった。
 障子を閉めて静かに座り、いつでも動けるよう籠は背負ったままで待機することにした。あの大男がこちらに近づいてきたら逃げるしかないかもしれない。どうすればいいのか判断できず、炭治郎はただあの男を待つしかなかった。

「……鬼を……見逃した、だと」
 柱として任務地を駆け回っておきながら、よもや義勇がそのような愚行を犯すなどと考えたこともなかった。
 現れた子供を隔離し、義勇は悲鳴嶼に説明した。
 指令の場所へ向かった時、山奥にあったある家の者たちは惨殺されていた。雪に残った足跡を辿り、先程の子供とその妹を見つけたという。妹は鬼に変貌していたが、あの子供の動きを止めるために攻撃した時、鬼の娘は子供を庇ったのだという。
 何かが違うのだと感じた。だから見逃すことにしたのだと。
 優しい子であっても、鬼に対しての憎悪は持っていた。柱として鬼殺隊に貢献し続ける姿は隊士から見ても憧憬や羨望といったものが含まれていた。産屋敷や隊士を裏切る行為だけはしないと信じられる子だ。
 有り得ないと断じるのは簡単だ。恐らく義勇は除隊処分も、最悪の処分も視野に入れているだろう。そこまでしてあの子供と鬼となった妹を助けたいらしい。
「すみません」
 口にした謝罪が何に対してなのか、悲鳴嶼は少し悩んだ。義勇があの子供を見捨てることはないだろう。だからこそ謝ったのだろうと思い至った。
 何が起ころうとも覚悟は決めているらしい。悲鳴嶼が溜息を吐いても、義勇の空気は泰然自若としたまま揺れることはなかった。
「狭霧山には頼らないのか」
「……カナエとしのぶの時も無理を言いました。これ以上先生に迷惑はかけられません」
 誰にも頼ることなく子供を匿うつもりだったということも理解した。本当なら悲鳴嶼にも言うつもりはなかったのだろう。たまたま悲鳴嶼が義勇の屋敷に来ていた時に子供がやって来たからばれてしまったという形だ。
「………。ならば私も手伝おう」
 揺れることのなかった義勇の空気が動揺した。悲鳴嶼の言葉は冷静さを保つことができなかったらしい。
「鬼は憎い。だが、私の無実を晴らそうとしてくれたお前がいたから、私も人を信じたままでいられる。……義勇の信じた鬼というものが何なのか、お前が信じた鬼を私も見てみたい」
 今の悲鳴嶼がこうしているのも義勇が無実を伝え続けたことと、それを聞いてくれた産屋敷、二人のおかげだ。ならば義勇の手助けをするのも吝かではない。隊士の理解を得ることは難しいかもしれないが、産屋敷ならば耳を傾けてくれるだろう。
「なに、もういきなり殺そうとしたりはしない、たぶん。……冗談だ」
 悲鳴嶼の言葉に少々狼狽えたらしく、冗談だと口にすると義勇はあからさまに安堵した。すでに随分気にかけていることがわかったが、優し過ぎるあまり少し心配にもなる。戦いに関しては心配などないのに。
「だが、そうだな。先程の子供はお前の継子にしなさい」
「……継子は、錆兎以外に取る気は」
 片腕を失くし義手で日常生活を送り、鍛錬もできるところから再開している錆兎だが、彼は隊士に復帰したわけではない。まして継子は柱候補であり、そう易々と戻れはしない。それをわかっているはずの義勇は、もう継子を取るつもりはないと暗に伝えている。
「ならば弟子にしなさい。屋敷に呼んだのなら衣食住は面倒を見るつもりだったのだろう」
 鬼狩りになれば任務で各地を飛び回り、情報収集もしやすい。狭霧山の師を頼らないのなら、義勇自身が稽古をつけて剣士に育て上げることになる。それならば弟子としても問題はない。
「今後何が起ころうとも、後ろ盾になる覚悟があるのだろう」
「………。……信じるんですね」
「お前が嘘を吐く子ではないことを、私はよく知っているよ」
 たとえ覚悟をしても不安は付き纏う。義勇の気配が不安定さを醸したが、すぐにいつもの静けさを取り戻した。
 そして子供を弟子にすることを決めたらしく、義勇は悲鳴嶼の提案に頷いた。
「最後の責任は私も取ろう」
「、それは、」
「お前を信じたい。私にも背負わせてくれ」
 鬼を引き入れて人に害をなしてしまった場合。命を奪ってしまった場合、何をもってしても償えるものではない。恐らく義勇は殺させるなと伝えてはいるだろうが、当事者であるあの二人とともに自分の命も懸けているだろう。
 悲鳴嶼の命が抑止になるかなど、鬼の娘本人にしかわからないことだが。

 障子が音もなく開けられ、現れたのは炭治郎が目的としてきた男だった。その後ろには先程殺されそうになった大男が立っている。
 慌てて弁解をしようと口を開くと、炭治郎が声を発するよりも先に男が言葉を紡いだ。
「竈門炭治郎といったな」
「は、はい。あの! 妹は禰豆子で、今は鬼ですけど、人を殺していません! 今日はまだ眠ってて、起こしても起きないので」
「……眠っているのか」
 大男は驚いたような匂いを発し、炭治郎は必死に何度も頷いた。
 ここに辿り着く前、山道にある小屋で休もうとした時のことだ。人を喰う鬼に出くわし、禰豆子と協力して何とか倒せたのは夜が明けた頃だった。陽に当たった鬼は焼け崩れて灰になり、禰豆子は籠の中に避難した。背負って歩いているうちに禰豆子は眠っていたのだ。
 何度も揺り起こしたけれど、禰豆子は目を覚ます素振りもなかった。一応息はしているので死んでいないはずなのだが。
 禰豆子が炭治郎を助けてくれたのだと必死になって伝えると、大男は少し困ったような匂いを発し、やがて踵を返した。
「……お館様に報告を上げる」
「はい」
 長髪の彼が大男を見送ってから少しの沈黙が訪れ、炭治郎は思わずいたたまれなくて身動ぎをした。
 目の前の彼が炭治郎の元へ現れた時の様子と、そして今し方の大男の様子。もしかしなくてもとんでもないことになってしまったのではないか、炭治郎と禰豆子だけの問題ではなくなっていることを今更再認識した。
 まだどこかで、炭治郎は他人事のような気分だった気がする。
「あ、あの……それで、俺は……どうなるんでしょうか。冨岡……さんに言われてここを目指してきたけど、俺は何も、」
「ここは俺が住んでいる屋敷だ。これからお前たちはここに住む」
「え」
「お前には鬼殺隊に入るための修行を受けてもらう」
 妹を人間に戻す手段を見つけるためには、鬼からも情報を奪わなければならない。
 鬼は人を喰う。妹を元に戻す前に、情報収集のために炭治郎自身が強くならなければならないのだという。
 確かにそうだ。ただ話しかけて教えてもらえるなら、炭治郎は鬼に襲われることはなかったはずだ。鬼は人を喰い物として見ている。襲われた時に動きを止められれば、少なくともこちらから質問することはできる。
「わかりました」
「……夜の間、俺は屋敷を離れるが、外には出るな。誰が来ても居留守を使え。妹の存在を気取らせるな」
「……はい」
 あの大男――悲鳴嶼というらしい――と冨岡以外の鬼狩りに見つかれば妹の命はない。どうやら去っていった悲鳴嶼は殺さないことを約束してくれたらしい。よかった。本当によかった。
 屋敷内にあるものに関しては自由に使って構わない。暇潰しになるようなものがあるわけではないが、外に出ないなら何をしてもいいと冨岡は言った。
「……食事は置いてある。好きに食べろ」
「は、はい。ありがとうございます」
 この部屋を炭治郎に明け渡すと言って、彼はまた部屋を出ていった。張り詰め通しだった息をようやく深く吐き出し、炭治郎の体から力が抜けた。
 恐かった。わけもわからず冨岡に怒鳴られた時も不安だったが、吹っ飛んできた鉄球が自分を殺そうとしたのだと気づいて肝が縮み上がった。冨岡が庇ってくれなかったら炭治郎はどうなっていたやら。
「……いい人……だな」
 禰豆子を刺して炭治郎にも攻撃を仕掛けられたけれど、あれは炭治郎を奮い立たせるための行動だったと今ならわかる。薄くて嗅ぎ取り難いけれど、静穏で落ち着いた匂い。その深い奥底に優しい匂いがする。
「住まわせてもらうだけじゃ駄目だ。ちゃんと仕事をしないと」
 禰豆子はこの部屋で陽を遮って寝かせて、炭治郎は掃除や食事の用意をすれば喜んでくれるかもしれない。外に出るなと言われたのは鬼狩りに見つかるなという意味だ。屋敷内のことならやれることはある。
「禰豆子。兄ちゃん頑張るからな」
 すやすやと眠り続ける妹の額へ手を当て、炭治郎は決意を新たに気を引き締めた。

「……成程。鬼であるにも関わらず兄を殺さず、更に数日前から眠り続けている。興味深いね」
 産屋敷には報告という名目で現れた兄妹のことを相談することにした。
 鬼があの子供を助け、更には何も喰わずに眠っているという事実。悲鳴嶼は義勇を信じてはいるが、やはり驚きは隠せなかった。
 義勇は嘘を吐かない。そしてあの子供が虚偽を述べている様子もなかった。だから悲鳴嶼は産屋敷に相談することにしたのだ。彼ならば良い判断を下してくれるだろうと信じて。
「わかった。その二人はこのまま義勇のところで面倒を見てくれるかい。子供たちには折を見て私から話すよ。それまでは秘蔵っ子として隠しておいて」
「……御意」
 それを求めていたことには違いないが、軽く決めてしまった産屋敷に義勇自身も少し困惑していた。
「そうだね……カナエたちには言っておいてもいいよ。義勇の頼みなら必ず助けてくれるだろう」
「いえ。要らぬ心労をかけるのは」
 言ってしまえばその分の責任が彼らにも発生してしまうと危惧しているのだろう。確かに悲鳴嶼は背負うと口にしたが、悲鳴嶼自身も自分以外に背負わせる気は毛頭ない。義勇も誰にも背負わせる気はなかっただろうが。
 たとえ伝えたとしても、悲鳴嶼が彼らの分を受け持てばいいのだ。
「……折を見て話すのもいいだろう。恐らくあの子たちは、黙っていたほうが怒る」
「そうだね。上手く言えなくても義勇の言葉で伝えてあげなさい。彼らはきちんと聞いてくれる」
「怒られることは覚悟したほうがいいが……」
 特に喜怒哀楽の激しいしのぶは烈火の如く怒りそうだが、それも義勇を心配してのことだ。義勇の気配がどこか不安げに揺れた。般若のようなしのぶから怒られることを想像でもしたのだろう。
「……いずれは話すことにします」
「うん、心配しなくていい。力になってくれるよ」
 話すことに不安を覚えるのは、幼少の頃の経験のせいであることを悲鳴嶼は知っている。だが、突拍子もないことでも彼らは話せばきっとわかってくれる。
 義勇の心が決まった時がそのいずれになるのだろうが、いつになろうと悲鳴嶼は見守るつもりでいた。