みえるもの
指示がないと食事すら摂らなかったし、不器用なのか手当を上手くできない。硬貨を投げて衣食住のことは何とか決めさせられるようになったけれど、まだまだ見ていなければ仕事もままならない。向き不向きがあるのはわかっているが、と苦虫を噛み潰したような顔をしたしのぶがカナエに相談しているところに出くわした。
せめて意思表示をできるようにならなければと溜息を吐くしのぶに大丈夫だと笑ったカナエが去った後、人手不足を何とかしたかったのではないのかとしのぶはアオイに愚痴を溢した。そこに声をかけたのが冨岡だった。
「あいつは呼吸を使ってる」
「は?」
「視てないか。……しのぶが教えたのかと思ってたが。悲鳴嶼さんも視て泣いてた」
「あのね、私はまだ視られてないんです。悲鳴嶼さんが泣くのはいつものことだし、……教えてませんよ、鍛錬より蝶屋敷のことを覚えてほしかったから……一体誰がそんなこと、」
「教えてないならたぶん、妙な目を持ってる。しのぶの肺の動きにそっくりだから」
体の動き、呼吸の仕方、それらを目で見て真似ている。
冨岡と悲鳴嶼とする鍛錬を眺めていたこともあったし、しのぶがたまに水の呼吸や花の呼吸を使っているところをアオイも含めて見学していたこともあった。
けれど、誰も鍛錬をカナヲに勧めたことはない。
そもそも隊士を目指して蝶屋敷に来たわけではないし、冨岡たちがやってくれていることと同じようにカナエたちの指示の元、蝶屋敷で働けるようになればいいと彼らは思っていたのだ。まあ、食事すら指示がないと食べられないのは想定していなかっただろうが、カナエの渡した裏表の硬貨は決められないカナヲのために誂えた物で、投げているところをアオイも見たことがある。
見ただけで覚える。そんなことが可能なのだろうか。いや現にそうして覚えていると冨岡が言うのだ。アオイには見えないものが見えている冨岡が。
「あ、あの……透き通る世界とは違うものなんですか?」
「恐らく違う。気配が薄いわけじゃない」
「……そうですね、充分近いのだろうとは思いますけど。天性のものでしょうか」
天性。天賦の才。アオイにはないけれど、例えあったとしても宝の持ち腐れになったものだ。それをカナヲが持っていて、教わらなくても呼吸を使えるようになっている。
「確認しましょう。義勇さんと悲鳴嶼さんにも視てもらいます。アオイ、悲鳴嶼さんとカナヲを呼んでくれる?」
「は、はいっ!」
悲鳴嶼は今病室を見回っていたはずで、カナヲはカナエとともに洗濯物を干していた。アオイは小走りで二人を呼びに行った。
測定値は軒並み高かった。
見て覚えるだけではなく、身体能力も群を抜いている。しのぶが修行を始めた頃より、恐らくはその頃のカナエよりも。
天賦の才。しのぶが欲しても手に入らなかったもの。今でもあればと考えることがある。
己の無力な腕ではできなかったことが、カナヲにはできるかもしれないのだ。
「凄いわね。この年齢の女子で……」
カルテを見ながらカナエが呟いた。悲鳴嶼に伝えるために読み上げて数値を伝えている。
比較対象はカナエとしのぶだ。どの項目もカナヲは同じ年齢だった頃の二人より高かった。そして。
「静止視力も確かに良いけど、この……動体視力」
突出しているのは動体視力だ。
聞けばカナヲが見ているのはやはり人の動きだという。ここに来る前の生活で覚えたのだと口にした。
腕の振り方や足の向き、視線を見て次に何をするかを予測する。そうしなければ怪我をするからと、これまでの生活で痛い思いをしてきたのだと想像できる言葉を聞かせた。天性のものではなく、これは危機回避のために覚えたものなのだろう。身体能力は天賦の才であっても、この目は無理やり会得したものだ。何と悲しい。
身体検査はひと通り終えた。次は数値化できないことを確認しなければならない。
「カナヲ。こちらへ」
竹刀を渡すと少し悩んだように見えたが、カナヲはそのまま受け取った。しのぶも竹刀を持ちカナヲと向かい合う。やることは一つ、実力を測ることだ。
「本気で私を叩きのめしなさい」
「………、」
竹刀を持ったまま固まったカナヲは、絵に描いたように目を泳がせて冷や汗を掻いていた。これが鍛錬の一環であることを理解していないのか、悪いことでも教わったかのような様子で焦っている。
「これは試験です。喧嘩とも暴力とも違うもの。カナヲが見て覚えたものがどれほどのものか、私は確認しなければならない。……あなたが本気で叩いて私が怪我をすると思いますか」
「……い、いえ」
「それなら思いきり来なさい。手を抜けばその分回数が増えますよ」
脅しのように言ってやると、カナヲは冷や汗を掻きつつも小さく頷き、竹刀を構えてしのぶを見据えた。
「カナヲっ!」
しのぶが叫ぶとカナヲの体はびくりと震え、竹刀を落として動きを止めた。
カナヲの実力はやはり驚くべきもので、現在甲のしのぶですらひやりとする攻撃ができていた。カナヲの能力がどれほどのものかを見極めるため攻撃を躱して受けていなしていた時、しのぶの視界に映るカナヲの体が透けて視えた。
ついに視えた。悲鳴嶼と義勇が視ているものをしのぶも視ることができた時、振り被った竹刀の先のカナヲの眼球に血流が集まっていくのを視た。結膜の毛細血管が切れかけていることに気がつき、止めるためにカナヲの名を叫んだのである。
「何をしようとしたの!?」
元に戻った視界の隅に立ち上がりかけた義勇が映り、悲鳴嶼も険しい顔をしていた。二人はどうやらカナヲの皮膚の下を視ていたのだろう。近くには驚いた顔を晒したカナエたちがいて、息を切らせたカナヲが小さく口を開いた。
「………、よ、よく、見ようと」
「……目を凝らしたの?」
不安げに頷いたカナヲの目を確認する。少し充血しているが、今は問題なく見えているようではあった。
「呼吸を覚えた時も今のように見てたの?」
「……見てません。速くて、いつもより無理やり見ようとしました」
見様見真似で覚える時は目を酷使していなかった。しのぶの動きについていくために、覚えた呼吸で血流を良くして眼球に集めればもっとよく見えるかと考えた、らしい。おかげで血管が破裂しかけていた。
「……それは、使うのを禁じます。使ってしまえば視力を失い、二度と目が見えなくなる。よく見ることは大事だけど、それを使うのは命の危機に瀕した時のみです」
血流を眼球に集めるなど、そんなことをしたら血管が破裂して失明する。危険があり過ぎて、試させるわけにはいかなかった。頷いたカナヲに少し安堵して、しのぶは更に口を開いた。
「それから、これからは鍛錬に参加しなさい。見様見真似よりも柱に稽古をつけてもらったほうが強くなれます」
「しのぶ。カナヲを隊士にさせるつもりなの?」
反対するつもりなのだろう声音が発せられ、視線を向けるとカナエが眉を顰めてしのぶを見ていた。
しのぶはまだ柱には届いておらず、カナヲは弟子でも何でもなく、そのつもりで引き取ったわけでもない。蝶屋敷の主人であるカナエの意向を無視して進めるのも良くないかもしれないが。
酷かもしれないが、カナエはもう隊士ではない。鬼狩りとして戦うしのぶの意見も通されて良いもののはずだ。
「半端な強さを持つより成長させたほうがいいと判断したわ。二人はどうですか?」
「……好きにすればいい」
「鍛錬をするだけなら私も反対するつもりはない。カナヲは蝶屋敷付けの子だ、お前たちの判断に任せる」
話し合えということだろう。しのぶとカナエで対立していては、ただでさえ判断できないカナヲも迷ってしまう。どちらかが折れるか、落とし所を見つけなければならないということだ。
「ただ、隊士になるのは……やはり反対はするが」
その意見も相変わらずだ。
悲鳴嶼は子供が鬼狩りになることを決して良しとしていない。尊重しようとしてはくれるが、最初は必ず反対する。鬼狩りにならない方法を伝えようとするのだ。恐らくは義勇も本心ではそれがあるのだろうけれど、彼はそれを口にはしない。少なくとも、しのぶたちには。
「勿論蝶屋敷の仕事も覚えてもらいます。仕事ができなくても私が怒るくらいですので、失敗は付き物です。……あなたにできることが何なのかを探して、したいことが何なのかを見つけてほしい」
剣士になることなのか、怪我の治療をしたいのか。料理がしたい、稽古がしたい、どんなことでもいい。義勇と悲鳴嶼の厚意をどうにかしようと人手を募っていたのだから、働かない選択肢は与えられないが。
「……はい」
カナヲの目が不安げに揺れ、表情を翳らせたカナエの目もまた揺れていた。