上弦の弐
特注の刀ができてから、しのぶの階級は瞬く間に上がっていった。
最初こそ鬼の頸を斬れないと嘆いていたしのぶだが、突きの速度は斬るより速い。今まで刀という重しを抱えて戦っていたようなものだ。毒で倒した鬼の数は一気に増えていた。
ともすればカナエより優秀なのではないだろうか。花柱の継子として過ごしているが、そうでもなければすぐにでも柱になっただろう。
カナエさえ生きていればしのぶは柱にならなくて済むが、他の柱が殉死して他に誰もいなければ、しのぶや錆兎にお鉢が回ってくる可能性だってあるだろう。そうであればやはり不安だった。
終わりが来るかもわからないこの戦いに、何とか終止符を打ちたいけれど。
カナエは鬼との共存の糸口を見つけられてはいなかった。
「良い夜だなあ。可愛い子が俺のところに来てくれた」
体が痺れてしまいそうなほどに強い鬼の気配。カナエは即座に察した。
十二鬼月。それも上弦の鬼。
その鬼の目には弐の文字が刻まれているのが確認できた。
上弦の鬼には柱が三人は必要だと聞かされていた。現在相対したのはカナエ一人である。
「きみは柱かな? 可愛いのに随分強そうだね。喰べたら美味しそうだなあ」
穏やかな口調でよく喋る鬼。今までの鬼の中でも、これほどにこにこと朗らかな鬼は初めてだった。話した印象だけならば、恐らく鬼の中でも一番人当たりが良い。
彼の気配は何百人と人を喰った者のそれだ。だが、意思疎通ができてこちらの話を聞いてくれるのなら、或いは。
「……あなたの名前は?」
「俺? 鬼狩りに名前を聞かれたのは初めてだ。童磨だよ、きみの名前も聞きたいなあ」
「……胡蝶カナエ」
「カナエちゃんだね! うん、可愛らしい名前だ」
刀は握ったまま。だが斬りかかる前にカナエは対話を求めた。話し好きなのか、鬼はそのまま楽しげに笑んで言葉を紡いでいた。自分が喰うことで人を救っているなどと、カナエには到底理解できない内容だったが。
「あなたは、人と共存することは考えなかったの?」
「共存? うーん、人間は救ってあげてるけど共存とは違うかなあ。それに、手元に置こうとしても俺に文句言って逃げるでしょ? 喰われるのが自分以外なら放っとけばいいのに騒ぐからさ。琴葉だって俺は喰うつもりなんてなかったのに」
少なくともこの鬼は、人間を喰わずにそばに置こうとしたことがあるらしい。
光明のようなものが見えた気がしたのに、童磨言い草はそばに置きたかった人を喰らったと思わせる言い方をした。何ということだろう。
「……あなたは、可哀想だわ。人の情を理解できないのね」
一瞬表情が消え落ちたが、童磨はまたすぐに笑みを浮かべた。にこにこと笑いながら手に持った扇を弄んだ。
「手元に置くのはきみみたいな強い子ならもっと違うのかな?」
空気が冷えていく感覚に、カナエは童磨へ意識を向けた。緊張したカナエと違い、童磨は気にした様子もなく近づいてくる。一定の距離を保つために後退りした。
「もっときみと話がしたいなあ。俺についてくるなら喰わないであげるよ」
「……そう。残念だけど、私は帰る場所があるの」
理性のある鬼。それは歪でごく一部にしか向けられないものだが、少なくとも今までの鬼とは違っていた。
だが童磨に気に入られた人間の中で、逆らわず人を喰うことを享受する者だけが彼のそばにいることを許される。それはカナエにとって共存とは程遠いものだった。
穏健そうに見えてもやはり鬼だ。カナエの求める鬼とは違う。
「そうかあ、残念。じゃあせめて俺が喰べてあげよう」
「っ、!」
「あれ?」
カナエが刀を構えると同時に童磨は扇を振り、何かがばら撒かれたことに気づいて口元を押さえた。
氷の霧だ。吸えばただでは済まないことは考えなくてもわかる。鋭い霧がカナエに細かい傷を負わせていった。
「わあ、さすが柱! 吸っちゃ駄目ってわかるんだ。偉い偉い」
馬鹿にしたようにはしゃぐ童磨から距離を取っても、血鬼術の範囲はかなり広い。悲鳴嶼のように飛び道具でも扱えれば違ったかもしれない。或いは義勇の凪なら氷の霧すら凪いでしまうかもしれない。
間合いに入らなければ頸は斬れない。童磨に良いように転がされているだけでは追い払うことも至難だ。
「ふうん、一応身体能力は高いみたいだけど、飛び抜けてるわけじゃないんだね。それを補うために死ぬほど鍛錬したんだろうな。よく頑張ったね。でも」
「くっ!」
髪が凍る。まるで真冬の山のように視界が白く染まっていく。気配を辿って距離を保とうとする前に、カナエは目の前に突然降って湧いた童磨の顔を凝視した。
「それも俺の前では無駄なものだった。可哀想に」
まるで憐れんでいるかのように表情を翳らせ、童磨は扇を一閃した。次の瞬間、カナエの胸から血飛沫が上がり、離れる前に腕を掴まればら撒かれた霧を吸ってしまった。
「俺に喰われるために強くなってくれたようなものだよね。血まではさすがに難しいけど、骨まで残さず喰ってあげるよ」
カナエには悲鳴嶼のような圧倒的な力はない。義勇のように極限まで剣技を練り上げることはできていない。特異体質があるわけでもない。しのぶのように機転が利くわけでもなかった。
しのぶはカナエの体格を羨んでいたけれど、カナエにできることは少ないのだ。羨むほどのものを持っていない。
でも。
それでは駄目なのだ。血反吐を吐いて限界まで体を痛めつけて、そうして出来上がったのが今のカナエだ。自分がしてきたことを否定することはできない。なけなしの自尊心のようなものだった。
どれほど無残に殺されても、この鬼をここで殺さなければならない。
童磨は危険過ぎる。今が上弦の鬼を討ち取る千載一遇の機会なのだ。誰もいなくてもやらなければ、誰がいたってカナエがやらなければならない。花柱としての責任は最期まで取らなければならないのだ。
「わっ。粘るねえ」
カナエの腕を掴む童磨の腕を斬り落とし、息を乱しながらも距離を取った。血鬼術を吸ってしまったが、それより肺を斬られたことのほうが重傷だ。上手く息ができなかった。
「女の子がこんなに粘ったのは初めてかもしれないな。いやあ、喰うのが楽しみだ」
「………っ、」
「ああ、でも痛そうだなあ……今楽にしてあげるからね」
型を繰り出す瞬間、カナエの眼前で童磨の頸に水が纏わりついた。
見覚えのある背中がそのまま半分ほど頸を斬ったが、斬り離すには至らなかった。
「錆兎く、」
「無事か!? 上弦の鬼だな!」
「………っ、霧を吸っちゃ駄目!」
援軍は錆兎が来てくれた。近づいてきた童磨との距離がまた開き、体勢を整えた。
夜明けが近い。刀で壁に縫い付けることができれば陽光も武器となる。肺の痛みを無視してカナエは伍ノ型を繰り出した。
「邪魔が入っちゃったか、しまったな。せっかく遊んでから朝ごはんにしようと思ってたのに……」
「………、やっぱりあなたとは、わかり合えないわ」
ぎりぎりまで希望を見せておいて喰らうつもりだったのだろう。血飛沫を上げながらも童磨の表情は穏やかなままだった。童磨がカナエに伸ばした手は、錆兎によって斬り落とされた。
構えて跳躍した瞬間、視界の端から飛んできた鉄球が童磨の頭を木っ端に飛び散らせたのを目の当たりにした。
「南無阿弥陀仏……」
どこまでも安心する声がカナエの耳に届いた。
「うわー危ない! びっくりしたよ、豪快だねえ。あのまま攻撃受けてたら俺死んでたな、ずらせてよかった。あ、わ、ちょっと、待ってくれよ」
はしゃいでいるようにも聞こえる声音が辺りに響く。錆兎に一言声をかけ、悲鳴嶼は話している最中の童磨へ攻撃を仕掛け続けた。息つく間もない攻撃に童磨も少し困惑しているように見えたが、氷の人形のようなものを数体創り出し悲鳴嶼へと差し向ける。
「止血したか」
どうやら悲鳴嶼の指示はカナエの怪我についてだったらしい。
駆け寄った錆兎は一言謝りつつ、カナエも手早く処置を済ませるために隊服をくつろげた。呼吸で血管を止めても止血は間に合っていなかったからだ。
柱の中でも圧倒的な強さを誇る悲鳴嶼といえど童磨は危険だ。
あの人形はどうやら童磨と同等の力を有しているらしい。あれでは上弦の鬼を複数同時に相手しているようなものだ。
止血の途中だが錆兎には大丈夫だと告げ、悲鳴嶼の助太刀に入るよう促した。
やはりカナエとは手遊びのようなものだった。童磨の動きが一線を画したように速くなっている。
だが、悲鳴嶼もまた普段より動きが鋭い。気配が薄いのだ。
「きみはちょっと危険過ぎるな」
笑みを消してそう呟いた童磨の氷が悲鳴嶼の脚へと狙いをつける。背後に回っていた錆兎の刀が童磨の頸を斬りつけたが、人形が身代わりとなって錆兎の刀を食い止めた。
「錆兎くん……!」
背後にもう一体。錆兎の背中から血飛沫が舞った。
朝日が差し始め、辺りは更に明るくなった。のんびりしているようで慌てているような童磨の声が聞こえる。
「大変だ。時間もないし、邪魔が入って残念だけど今日は帰るよ。また遊ぼうカナエちゃん」
「帰すつもりはない」
他人の呼吸を見て聞いて連携を取る。それを目的として皆で稽古をしていたわけではないが、手の内を知り尽くしたカナエたちは互いにどう動くかを把握できていた。背中を斬られた錆兎がどう動き、悲鳴嶼が何の型を使おうとしているか。
無理やり止血したカナエもまた立ち上がり刀を構えた。
体に捻りを加えて型を繰り出し、童磨の意識を一瞬逸らすことに成功したが、雫波紋突きで壁に押し留めた錆兎の腕を童磨は扇で一閃した。
視界が赤に染まる。刀とともに飛ばされた腕はカナエの視界から消え、童磨はもう一度錆兎へ扇を振るった。霧とともに象られた人形が鉄球によって潰されていく。人形の奥にいた童磨の鳩尾へと鉄球はめり込んだ。
「うわあ、酷いことするな。ちょっと、嘘だろう。待って待って」
こんなところで。困惑した言葉を口にしながら、手斧の刃先が童磨の頸を斬り裂き吹き飛ばした。
童磨は最期まで理解できないというような様子のまま、朝日の中、灰となって崩れていった。