友人
見上げた先には蝶屋敷。
冨岡は裾を掴むカナヲをそのままにやってきた。蝶屋敷に向かうと隠に告げると怪我をしていたのかと慌てられ、カナヲの相手をしてもらうためだと説明すると、隊服をやめて普段着に着替えましょうと割と無理やり着替えさせられた。鬼殺隊に身を置いてから隊服以外のものは殆ど着たことがなく、それは前回も今回も変わりはなかった。
遊びに行くのなら隊服では休まらないだろうと言い、せっかくの非番なのだからと隠が羽織を奪い取った。溜息を漏らしつつも諦めて袴へ着替え、片身替りの羽織を奪い返し街中を歩いてきた。冨岡が無言ならカナヲも無言で、道中の会話は皆無である。
「いらっしゃいませ。今日はアオイを紹介したいんです」
出迎えたカナエは隊服で、少々気が引けながらも冨岡は上がり框へと足を下ろした。倣うようにカナヲもついてくる。
「うちに在籍する神崎アオイです。アオイ、こちら水柱の冨岡義勇様」
出された茶に口をつけた瞬間、自分の名に敬称をつけられて紹介され、冨岡は思わず吹き出しかけた。水柱と呼ばれることもそれに敬称をつけられることも一応容認してはいるが、名前につくのだけはいただけない。眉根を寄せてカナエを見るが、どうかしたかと気にした様子がない。
「……様はやめてほしい」
「でも柱ですから。序列は大事でしょう」
「今日は非番だしそもそもカナヲの付き添いだ」
困ったような表情をして、カナエはアオイへと目を向けた。さすがに鬼殺隊の最高位である柱を気軽に呼べないと慌てるアオイを許してほしいとカナエは口にして、どうしても無理だというので、せめて名前に様をつけないことで妥協した。
友の少ない冨岡には、気軽に呼んでもらったほうが有難いのだ。むすりと不機嫌になったのが伝わったらしく、カナヲを連れて庭に出るようアオイへと伝えた。
「すみません、でもやっぱりこういうのは大事だと思うので」
「不死川には使わなかった」
「それは、柱じゃない時から知っていたからです。私が水柱様を知った時はもう水柱様だったから」
庚だった時噂を聞いた。新しく任命された水柱は十五歳の少年で、歳若くても信頼に足る強さを持っている。良く耐えたと声をかけてくれるのに他の会話はさっぱりで、悪い人ではないが冷たくて一匹狼のよう。
「ふふ、初めて蝶屋敷を頼ってこられたのは怪我とは全く違う理由でしたけど、珍しくて嬉しかったんです」
ここに来るのは苦悶の表情、呻き声、泣き声ばかり。それが収まって元気に去っていくのを見るのは嬉しいが、それでも死地に向かう隊士を見送るのは心苦しい。だから冨岡たちが怪我と無縁の話をしに来たことが嬉しかったのだという。
「すまない。休む間もないだろう」
「そんな、休める時に休んでますから。それに、カナヲちゃんがしのぶやアオイと仲良くしてくれるなら、あの子たちにとっても貴重な時間となります」
わざわざ着替えさせられたことに文句をいうつもりはないが、冨岡は隊服を着たままの忙しい蝶屋敷の主人の手を止めていることに申し訳無さを感じるのだ。ここに来るなら手伝いくらい申し出れば良いかもしれないが、医療に明るくない冨岡では足手まといにもなるだろう。止血も応急処置も自分でできるが、それは自分の体だからだ。他人の体を同じように扱うのは少し躊躇するくらいには、冨岡はすでに自分の処置が荒いことを理解している。そんなこともいっていられない戦地ならば迷わず施すが。
「そんなに気を遣わないでください。私たちは遊びに来てくれて嬉しいんです。ほら、アオイも嬉しそうでしょう?」
カナエの妹より歳下というアオイは、庭の花を指してカナヲに教えているようだった。どこか姉のように振る舞っているようにも見える様子は確かに微笑ましく、冨岡はぼんやりと二人を眺めた。
「……同い年と言ったな」
「ええ、凄いなっていつも思います。不死川くんも」
神崎アオイは前回も、鬼舞辻無惨を討った後でも冨岡に敬称をつけるのをやめなかった。今回冨岡は早々に名前に様をつけるなと言ったわけだが、あの頑固さのままであれば彼女はずっと水柱様と己を呼び続けるだろう。もうそれに関しては諦めたほうが良い。それならば。
「敬語をやめてほしい」
「うーん。それも難しいです」
「お前は、いずれ柱になる。同い年で階級が対等ならば敬語も必要ない」
「……そんな、私は柱には」
驚いたらしく息を呑んだカナエは一瞬黙り込み、今までよりも小さな声で答えた。前回柱になっていたのだから、順当にいけば今回もそうなる。悲鳴嶼が嘆いていたのはカナエの階級の高さだ。そしてその妹の非力さを心配していた。
「……そういう話が出たんでしょうか」
「お前の階級が甲であることは聞いていた。治療に長けた隊士がいることも。どんな組織だろうと貴重な存在だし、その取り纏めに一人を柱に置くこともあるだろう」
今回において蝶屋敷に来なかったのは大した怪我をしていなかったのもあるが、手間を増やすことをわかっていたからだ。自力や近くの藤の家紋の家での治療で済むのならそれで良いと考えてのことだった。いつ来ても満員状態だった寝台を、冨岡が一つ埋めるのは忍びない。
「……お前のことは良く知らないが、甲なら実力もあるのだろう。鬼殺隊にとっては無二の存在だ」
そういう存在だからこそ、柱に任命して忙しさを増やすことは悪手であるとも考えられるが、今鬼殺隊にはそれしかできない。妹の非力さに対しての措置として、まだ毒を開発できていないようだし、できる者に負担をかけるのは仕方ないと冨岡は思う。
だからその分を補うために、冨岡は一足飛びで強さを求めた。前回よりも早い十五という年齢で柱となり、夜ごと駆け回る時間を増やしたのだ。
どこか己と同じなのではないかと垣間思えるような宇髄と不死川が前回よりも早く柱になった時、冨岡は言い知れぬ喜びと恐ろしさを感じた。
何かを変えた時、どこかで別のものが壊れてしまうのではないか。不死川の友のことも、カナヲのことも。自分だけならば良い。生き残るはずの不死川と宇髄が、まだ会えぬ弟弟子が逝ってしまうのではないかと、ずっと不安を抱えている。
事象が変わることを諦めたとはいえ、その不安はずっと付き纏っているのだ。
「……そんなふうに、思われてたなんて」
庭から視線を戻してカナエを見ると、どこか困ったような今にも泣きそうな顔を一瞬見せ、やがて小さく笑みを向けた。
「一度も会ったことがなかったのに」
「……噂は耳に入ってくる。悲鳴嶼さんからも聞く」
「そうですよね。悲鳴嶼さんも、あなたと音柱様のことは、話してくれました」
最年少で柱に任命された少年と、更に二つしか違わない一年で柱になった少年。どちらも実力はある。二人から感じる気は練り上げられており、まだ少年であることを疑うほど。
それでも子供であることに変わりはなく、炎柱などは難色を示したと教えてくれたのだそうだ。息子のいる彼なら気にするのは道理だ。内儀を亡くし自暴自棄にさえなっていなければ、彼は尊敬に値する柱である。冨岡とて前回も尊敬していた。
「あの人は子供が鬼殺隊に入るのを止めたがる人ですけど、その守るべき子供の手を借りてでもいないと鬼を狩りきれないこともわかっています。最初から認めていた。それが羨ましくて」
何を言いたいのか、ぼんやりと思い当たったような気がして冨岡はカナエから目を逸らさなかった。自分がずっと抱えていた自己嫌悪と後悔、非力さを、恐らく皆が抱えていただろうことはもう理解している。己と違うのは、それを抱えながらも自分らしく歩み寄ろうとしていたことだ。冨岡は前回それができなかった。全て終わってからやり始めてしまった。だから今回は、自分なりに距離を縮めていきたいと思っていたのだ。
「私、水柱様も不死川くんも羨ましくて。きっと誰より努力をしていたからこその強さなのに」
呼吸を使える身体能力があろうと、女である故にどうしても男より腕力が足りず、最初上手く頸を斬ることができなかったこともあるという。何度も助けてもらって何度も死地を脱していた。そんなことは隊士の誰もが経験しているだろう。
「鬼と仲良くなれたら、頸を斬ることもしなくて良いのにって。逃避だと言われたこともあります」
そんなことは無理に決まっている。何も知らない頃ならばそう答えただろう。家族を殺された者が言うには余りに夢物語で、それを聞いた者が怒ることも道理だ。それでも冨岡はすでに知っている。
「……いつか、そんな鬼が見つかるかもしれない」
目を丸くしたカナエを眺め、この先現れる、己が手引きをするはずの二人を思い浮かべた。前回カナエが出会えなかった鬼の存在を冨岡は知っている。鬼舞辻無惨を討ち取るためにも、失敗は許されない生かさなければならない存在。
「だからといって見誤るな。鬼は頸を斬るものだ」
「……本当にいそうな言い方」
緩んだようにカナエの目から雫が零れ落ち、冨岡は驚いて目を丸くした。何事かとひっそり慌てていると、目元を拭いながらカナエは笑った。
「ふふ、そんなに慌てるなんて思いませんでした。大丈夫です、嬉しかっただけで。妹は賛同してくれなかったから」
カナエの妹であるしのぶは、冨岡の知る限り鬼を心底憎んでいた。口では仲良くすれば良いと言いながら、腹の底は煮えくり返っている。それは姉を亡くした時から一層顕著で、笑顔の下に憎しみを隠して日々を過ごしていたのを知っている。
カナエさえ無事ならば、鬼を許せなくともしのぶは今のように喜怒哀楽を全面に出していられるだろう。自分らしくあることがどれほど大事なことだったか、今なら冨岡は理解できる。現在冨岡は感情を抑え込んでいるわけだが、それでも前回よりは表に出ているはずだ。少なくとも宇髄や不死川の前では。
「敬語を使うな、だっけ。ふふ、それならこれから私もあなたを冨岡くんと呼んでも?」
「頼む」
どうやら冨岡の言動はカナエと仲良くなれるものだったらしく、ようやく敬語を外してくれた。前回敬語を使っていなかったのは、一般隊士だった頃を知っているからというのもわかった。そういう線引きをしていたのかとぼんやり納得した。
「失礼します」
「ありがとう、しのぶ。そうだ、カナヲちゃんは何して遊ぶのが好きなの? 色々あるのよ、冨岡くんは何が好きだった?」
突然敬語を取っぱらい親しげに話しかけるカナエを驚愕の目で見たしのぶは、そのまま冨岡へと目を向けた。信じられないような目を向けられている。
「し、失礼でしょ。何を」
「良いのよ、敬語やめてほしいって言ったの冨岡くんだもの。しのぶも手が空いたら遊んでもらいなさい。今日非番だって言うし」
「日暮れまでには帰る。緊急時に備える」
非番であろうと招集がかかれば動けるよう備えているのが柱だ。私用で出かけることなど殆どない冨岡にとって、今日の外出は珍しい以外の何ものでもない。
「アオイ、カナヲちゃん! おいで、シャボン玉があるの」
未だ慌てるしのぶを置き去りに、カナエは年若い二人を呼んでシャボン玉を手渡した。