近づいてくる
カナエの文に書かれていたことは、しのぶ自身もおかしいと感じていたものだった。
妙に歩くのが遅い、緩慢とした動きは実弥にしては珍しい。指摘するととぼけたように誤魔化すが、しのぶの目は誤魔化されなかった。
眉根を寄せて文を握り、涙で滲んだ箇所をなぞる。
皆わかっていたことだ。寿命の前借り、二十五を超えて生きていた剣士はいなかった。例外はただ一人、始まりの剣士だけ。
それが柱だった彼らでないことはしのぶにも想像がつく。例外がこの世代にもあるとするならば、日の呼吸であるヒノカミ神楽を扱う炭治郎、直系の子孫だという時透の二人なら可能性はある。
しのぶは楽観するような性分ではない。前回痣で死んだというのだから、実弥が例外になることはないだろう。そもそも不調が目に見えているのだから例外など有り得ない。治るようなものでもない。
そんなことはわかりきっていたことだ。
だが感情はおいそれと納得できるものではない。カナエ自身も覚悟の上で後悔しないと義勇と一緒になったけれど、こんなに早く来るとは思っていなかっただろう。苦しまずに逝くのなら救いもあるのに、義勇は苦しげに顔を歪めて倒れたとまで書いてある。
暴れたいような気分を抑えて文を畳み文机に置く。
あの意地っ張りはしのぶたちの前では何でもないように振る舞うが、誰もいないところで胸を押さえているところをしのぶは見ていた。恐らくは実弥も義勇と同じように痛みを感じている。もしかしたら煉獄や時透にも同じように二十五よりもっと早く死が迎えに来るかもしれない。
老衰じゃなかったの?
苦しむなんて聞いていない。眉間に皺が刻まれるのを自覚しながら、不調であろうと実弥に問い質すことを決めた。
「知っていることを教えていただけます?」
正座をさせた実弥の前に座り、笑みを向けて問いかけた。迫力でもあったのか実弥は少し身を強張らせ、何の話だと口にした。
「義勇さんが倒れたそうですよ。肺に痛みが走ったそうです」
「……知らねェな。前回だってあいつも俺も老衰と診断されたはずだァ」
「でも実際今回は痛いんでしょう。あなたも苦しそうです」
「……痛くねェし」
「そんな意地張っても無意味です。あなたが生きた前回と違いがあると言ってたでしょう。それに関係しているのでは?」
黙り込んだ実弥の眉間に皺が刻まれた。
しのぶは引き下がるつもりはない。余命幾ばくもない者たちの行く末は穏やかなものであってほしいと思ってのことだ。痛みがあるならせめて取り除いて静かに眠ってほしい。
本音は長生きしてほしいと思っているけれど。
「私はあなたに苦しみながら逝ってほしくありません」
「知らねェって」
「そう、知らないのなら構いません。良い加減診察しましょうね」
引き戸を開けて廊下へ顔を出すと、控えてくれていた二人が立ち上がり耳栓を外した。
しのぶが実弥と話す内容を聞かれたくない気持ちを察してか、彼らは耳栓をして少し離れたところで待機すると言ってくれた。だからしのぶは合図として部屋から顔を出すことで彼らを呼んだ。その間に逃げられる可能性もあったが、煉獄ならば捕まえるだろうと考えて。
「診察の時間だ不死川!」
「失礼します!」
「げェっ!」
思いきり嫌そうな声を発した実弥が窓から逃亡を図ったが、まだ不調はないと言っていた煉獄はすぐに首根っこを掴んで引き戻した。その間にアオイが寝台の用意をする。暴れようとする実弥が少し体を固まらせた時、煉獄は躊躇なく寝台へ実弥を押し倒した。
「何遊んでるの?」
「診察だというのに不死川が暴れるのでな!」
騒がしかったのか車椅子から部屋を覗いた時透が顔を出し、納得したように実弥へ目を向けた。気になっていたと呟きながら部屋へと入ってくる。
「何か違和感あったんだよね。順番的に不死川さんたちが先でしょ? もしかして痣の影響出てるんじゃないかって」
「彼らのためにも診察は必要です。あなただけの問題じゃないんですよ」
「………」
大人しくなった実弥の肩を押さえ続ける煉獄に、逃げる気がなくなったことを察してしのぶは礼を告げた。手を離してそのまま時透とともに部屋の隅へと移動する。
「何で見てんだよ」
「俺も気になるからな! 何かあるなら父や千寿郎には伝えておかねば、きっと心配をかけてしまう」
煉獄のように物分り良くしてくれれば楽で良いのだが、これはこれで家族も複雑な気分になるだろう。これほど明るく死を待つ人はそうそういない。
惜しんでいてもからりとしていても、どちらにせよ残される側は思うところはある。
「……あなたを思う人たちのためにも、きちんと教えてください」
感情を抑えた声で呟くと、実弥は観念したように体から力を抜いた。
*
カナエとしのぶからの手紙には大体似たようなことが書かれていた。
伴侶である冨岡と不死川の容態を聞いて顔を見に行った帰り道、宇髄は胸の奥が煮えくり返るような気分だった。
早えよ。前回あいつらは二十五の目前まで生きていたはずだ。老衰で痛みもなく逝っていたはずだ。それが今回は苦しげに息をしては何でもないように振る舞おうとするのだという。宇髄が見たのは布団から起き上がった冨岡と車椅子に乗った不死川だったが、時折表情を歪めるくらいには我慢できない痛みが走っているのだろう。元柱が多少の痛みを覚えたところで顔を歪めなどしない。常に死の隣で闘っていたのだ。
何でそうなんだよ。俺に代償はねえのか。宇髄は憤りを覚えながら帰路を歩く。悪態をついて通りかかった通行人に怯えられながらも、そんなことに構っている余裕はなかった。
それともこれが代償か。
痣を発現させたあいつらを全員見届けろということか。闘った奴らを全員見送れということか。前回宇髄は殆どの同僚の最期を見届けることができなかった。知らぬ間に死んで行く者や最後の闘いで命を落とした者は死に目に会うことはなく、痣の影響で死んだ者だけを見送った。
自分に痣が出せなかったことを悔やんでも仕方ない。出せば女房たちは悲しんだだろうし、長い余生を生きることは宇髄としても良かったと思う。同僚たちが生きているならば。
その時突然握り締められたような痛みが肺を襲い、息を詰めた宇髄は思わず胸を押さえて立ち止まり、我慢できず道端の隅でしゃがみ込んだ。何だこれ、痛え。同じ痛みを抱えているのか、それとも比ではないほどの痛みを感じているのか。そんなものは当人たちに聞いてもわからないが。
「そんなもんで良いのかよ」
宇髄の生きるこの先もこの痛みと付き合っていくことが代償だというならば、そんなものはいくらだって引き受けてやれる。元々頑丈に造られた体は、少しの痛みなどに屈しはしない。
誰かを救った命の分、痛みを引き受けてでもいるのか。
それなら名誉の勲章のようなものだ。宇髄に痛みがあるのもおかしくはない。他の奴らももしかしたらあるかもしれないが、それは今回を全力で生きた結果の産物だ。奇特な経験をしている宇髄たち三人のみに降りかかるのなら。
「……だからって早まらせなくても良くねえ?」
痛みが代償なら死期を早めなくとも良かっただろうに。誰に何の苦言を呈しているのか宇髄にもわからなかったが、とにかく文句を言いたくて仕方なかった。
*
一歩、また一歩と足音が近づいてくる。それは真っ先に己に向かって歩いてくると思っていたら、まだ猶予があると思っていたはずの者へと向かっていった。
少し前には不調を訴えていたが、数日で壁伝いに歩くほど悪くなっているとは思わなかった。伴侶からすれば突然体を悪くしたようなものだ。愚痴のようなものを聞かされた伊黒ですらそう感じるのだから。
「父はあの姉妹を案じていてな。特に身重のカナエ」
珍しく静かな声で煉獄は呟いた。父である槇寿郎は妻と死別し、諸々重なり塞ぎ込んで酒浸りになっていたと聞く。明るく振る舞っていても心中は計り知れない悲しみが渦巻いているだろう。死までの猶予がある分、その先のことを想像してしまう。死期がわかるというのは良いのか悪いのか、彼もわからないと口にしたという。
勿論カナエやしのぶが槇寿郎のように自暴自棄になるとは考えていない。母とは強いものだと彼は言ったというし、カナエは覚悟を持って冨岡に嫁いだはずで、それはしのぶにも当てはまる。それでも感情はどう制御することもできないだろうが。
子が産まれるのが先か冨岡が先か。恐らく病状は本人が一番良くわかっているだろう。
「まあ、そうだろうな。身重の女と足元の覚束ない男だ、二人で生活するには不便だろうし。蝶屋敷はまだ人手もあるが」
「ああ、竈門夫妻が通っているそうだ。後は冨岡の同期という男も」
「存外人を嫌っていない男だ、嬉しいんじゃないか」
「そうかもしれん! どちらも夫婦水入らずはなかなかできないだろうがな!」
身動きが取れないとはいえ彼らの親族が顔を見に来る頻度は割と多いようだし、退屈はしないだろう。後は母子ともに健康に過ごせるならカナエにとっての問題は冨岡の死期だけだ。
「せめて安らかな時間を作ってやりたいところだな」
「……そうだな」
皆これまで休む間もなく闘ってきたのだ。最期くらいは静かに休ませてやりたいと伊黒でなくとも思う者はいた。
*
顔に思いきり投げつけられた薬袋が布団の上に落ち、投げた相手は肩で息をして悔しげに表情を歪ませた。
布団の上で体を起き上がらせ、のんびり会話をしていたところだった。ふいに息を詰めた冨岡の口から赤い液体がぼたぼたと滴り落ちて、本人も驚いたのか目を丸くしていた。慌てて手拭いを渡すと奥方は冨岡の背を擦り、大丈夫かと問いかける。
大丈夫、問題ない、布団を汚してしまったと、口から吐いて寝間着も手も汚した血を気にしながら、痛ましげに眉根を寄せて寄り添う奥方と村田に謝った。自分の体調など何でもないように扱い、見苦しいところを見せたと言う。
それを屋敷に訪れて聞こえてきたらしい蝶屋敷の主人が冨岡に投げつけたのが痛み止めと止血の薬。存外短気で喜怒哀楽が激しい女主人は、歯を食いしばりながら怒りを抑えたような声音で言葉を漏らした。
「あなたたちはどこまで仲が良ければ気が済むんですか? それだけ血を吐いて問題ないわけないでしょう」
蝶屋敷で処方した薬を冨岡は苦いと言いつつも全て飲んでいるという話だが、奥方が安心するならと口にしているだけで、恐らく効いていないのだろう。でなければこれほど豪快に血を吐くだろうか。
痣の寿命というものは薬で緩和できるものではないのだろうが、こうして見せつけられると何と言っていいのかわからなくなった。
「それは性のようなものだ。諦めろ」
不死川は薬を飲みたがらないらしく、問題ない、痛くないの一点張りだそうだ。同じように口にした冨岡に頭に血が上ったのかもしれない。
「特定の相手の前では格好をつけたがる」
自分は薬を飲んでいると不死川とは違うことを一応主張して、口元の血を拭いながら冨岡は笑みを見せた。思い当たることでもあったのか、一瞬頬を染めた女主人は言葉に詰まったものの、眉根を寄せて溜息を吐いた。
血を吐いていても格好良いなこいつ。ぼんやり考えながら奥方の顔を眺めた。複雑そうな表情ではあったが、やがて口元が綻んで照れたように笑みを見せた。嬉しそうだった。
「男の見栄だか何だか知りませんが、私には関係ないことです。機材を持ってくるか蝶屋敷に来るか選んでください」
「どっちも嫌だ」
怒りに染まった顔が冨岡を睨みつけた。どれだけ美人でも怒ると怖い。柱の頃から胡蝶しのぶは少々怖かったが。
「……少し考え方を変えた。痛みは勲章のようなものだ」
薬でどうにかなるものじゃない。お前たちに任せるものでもない。そう口にした冨岡に寂しげに目を伏せた奥方と悔しげに顔を歪めた蝶屋敷の主人。
やはり効いていないことはわかったが、何故冨岡はそんなことを言うのだろう。柱だったからだろうか。それなら痣を出した柱全員に痛みがあるということか。何故一部の人間にそんな痛みが贈られるのだろう。鬼殺隊の隊士は全員が頑張っていたのに、それなら皆に勲章が贈られるべきではないか。良いように言っているが勲章なんてものじゃない。ただ体を酷使した結果の産物だ。
「俺が足掻いた証だから良いんだ。たぶん、不死川もそうなんだろう」
自分もあまり見られたくないからと、苦しんでいるところはできるだけ見せないように気をつけると言う。そういうことではないのだが、冨岡はきっと以前の能面を張り付けて本当にわからなくなるだろう。きっと炭治郎や善逸のような鋭い感覚を持つ者か、ずっとそばにいた奥方にしかわからない顔をするはずだ。
そんなふうに我慢する姿を見せられても、村田にとっても奥方にとっても、きっと蝶屋敷の主人にとっても、何もできない自分に悔しさを募らせるだけの結果になりそうだということを、冨岡は考慮してはくれないようだったが。