兆候

 調子の悪さはただ寒いからだけではない。
 段差を踏み外しそうになった時、肺に違和感を覚えた時、これが死への道を進んでいることを理解していた。
 痣の寿命とは体に影響のあるもので、少なくともある日突然ぽっくり逝くものではない。それは前回経験した義勇にもわかっていた。いずれ来る不調がいつ来るのかと漠然と不安になっていたのは、カナエがそばにいるようになったからだ。
 カナエがいなければ義勇は前回と同じように、周りの幸せを眺めながら一人で逝くはずだった。それは決して不幸だと思ったことはないが、それよりも満ち足りた生を義勇は今経験している。
 肺を押さえて呼吸をする。気づかれないよう慎重にならなければ、すぐにカナエは義勇の不調に気づくだろう。それは義勇の自己満足でしかない隠し事だが、カナエが泣くのは忍びなかった。
 己を救いだと、好きだと言うカナエが、義勇がいなくなることで悲しむことを知っている。笑ってほしいと言えばカナエは笑うだろうが、頼んでまで無理をさせたくはない。
 これでは蝶屋敷への検診も憚られる。まあ行かない時はカナエが触診してくるのだが、おかげですぐにばれてしまいそうな隠し事に、さてどうするかと義勇は悩んだ。
 不死川は大丈夫だろうか。蝶屋敷にいるのだからすぐにしのぶも気づきそうだが、あの男はひと際弱味を見せようとしない。それが例え今回においての伴侶であろうとも。
 二度も生き延び鬼のいない世を見た義勇には悔いなどなく死ぬはずだったのに、どうしても脳裏からカナエの顔が消えなかった。
「おはよう、義勇くん」
 朝餉の用意はできているとカナエが部屋へ顔を出し、義勇は能面に笑みを乗せてカナエへ挨拶を返した。何を考えているのかわからないと言われたこの顔を役に立てようとしたのに、妙な顔をしたカナエはどうかしたかと問いかけてくる。何でばれるんだと少々納得がいかなかった。
「寒くなったな」
「そうね、昨日より寒いわ」
 寒さに堪えているような素振りを見せると、カナエは納得したのか冷めるから早く食べようと義勇を急かした。
 この調子ではすぐに気づかれてしまいそうだが、とにかく今は平静を装っておきたい。能面を被るのは慣れているのだから、ぼろを出さなければどうにかなるだろう。不死川の様子を見に行きたいが、しのぶに捕まれば診察される。あちらには元気なアオイもいるし、煉獄のいる時に行ってしまえば分が悪い。腐っても元柱、簡単に捕まる気は義勇にもないが。
 朝餉を食べた後義勇は文机へと向かい、不死川へと近況を窺う文を出すことにした。
 何ともなければ良いが、同い年である以上時期は義勇とそう変わらない。前回も不死川と同時期に不調を起こし、似た時期に逝った。
 老齢の鎹鴉に文を託し、義勇は宇髄へ伝えるかどうかを悩んだ。前回の人生を何年生きたかは聞いていないが、今回も宇髄は痣を出しておらず、きっと長い余生を生きるのだろう。そんな相手に先に逝く義勇の話を聞かせるのも悪い。だが黙っていると宇髄は怒るだろう。溜息が知らず零れ落ちた。
 炭治郎たちはまだ若く、痣の影響は受けていないだろう。悲鳴嶼の言っていたという例外の可能性もある。痣を克服する者は日の呼吸の使い手、もしくは始まりの剣士の子孫である時透くらいのものだろう。義勇たちが死した後のことは宇髄もあまり話さなかったが、もしもということもある。
 伊黒も同い年、煉獄は一つ下、甘露寺はその一つ下。すでに二十五を超えていた悲鳴嶼は朝日を浴びて嬉しそうに、眠るように逝った。悲鳴嶼が克服できなかったものを義勇ができるとは思わない。自分の死は間違いなく二十五を迎える前だが、前回よりも不調が来るのが早い。
 足掻いた結果の産物、その分早く死が迎えに来るのか。だとしたら不死川も早まっている可能性がある。
 それでも短い余生を過ごせたのは幸せだったと義勇は考えていた。

 不調を感じてから一週間ほど経ったが、わかってはいたが良くなる兆しは勿論ない。朝起きて呼吸を整え違和感を無視しながらカナエの話を聞く。幸か不幸か慣れてきていた。
 不死川からの返事は、問題ないと一言のみ。しのぶからの連絡もないなら本当に問題ないのかもしれないが、隠している可能性は高い。せめて不調があるのかないのかだけでも教えてくれれば良いものを。義勇相手に意地を見せても意味はないと思うのだが、不死川は負けず嫌いである。
 宇髄には連絡することをまだ悩んでいた。
 わかっているのだが、どうにも言い辛い。宇髄が皆を気にかけていることも理解しているし、言わずにいては恐らく殴られるだろう。どう転んでも怒られるな、と義勇は小さく溜息を吐いた。
 少し出てくるとカナエに声をかけ、向かった先は元蛇柱の屋敷。蝶屋敷にいた伊黒は自邸へ戻ることを望み、それに甘露寺もついていったと聞いている。夫婦の契りは交していないが色々と手助けをしてくれているらしい。
「変わりないか」
「大きな不調はない。貴様はあるようだがな」
 目が見えなくなった伊黒は、悲鳴嶼のように空気や音を良く聞くようになったという。今まで通り鏑丸が目の代わりをして教えてくれているらしく、充分不便はないと言った。
「良くわかったな」
「貴様は顔を見ないほうがわかる。わかりやすくはないがね」
 甘露寺は本日夕刻まで実家にて過ごすらしく、都合良く伊黒は一人で屋敷にいたようだ。安堵したような息を漏らし、義勇は縁側を陣取る伊黒から二人分ほど間を開けて腰を下ろした。
「痣の影響か。……こんなに早く来るものか」
「ああ。いや、俺だけだろう。きっと伊黒と甘露寺はまだ先だ」
「そのような根拠のない憶測は要らん。痣者である以上皆平等に起こるものだ。俺もそれは納得している」
 そもそも生き残ったことが奇跡、己は誰かの功績のお零れに預かっている。伊黒はそう呟いたが、その功績とやらは間違いなく伊黒自身が掴んだものだ。皆が甲斐甲斐しく看病してくれたおかげで、すぐ死ぬはずが無駄に元気になってしまったと嘆くように言っているが。
「隠し通せると思っているのか?」
「いや。すぐ気づかれるだろう」
 カナエに言っていないことを察したらしい伊黒は、大きな溜息を吐きつつも何も言わなかった。言い辛い義勇の気持ちを汲んでくれたのかもしれないが、それでも呆れていることは伝わってくる。
「貴様らは本当に似た者同士だな。仲が良いとそんなところまで似るのか? あの宴会の宇髄を思い出せ、あれは除け者にされて怒るだろうと予想がつく程度の馬鹿だ」
「……不死川が来たのか」
「ああ、奴も奥方にばれたくないと頭を抱えていたが、そんなものとうにわかっていたことだ。わかっていて伴侶になったのだから教えてやれと思うが」
 大事ないと義勇には伝えておいて、伊黒には不調を吐露するらしい。いや、義勇も不死川と宇髄には言わずに伊黒の元へ来ている時点で責めることはできないが。
「悲しむだろうが……覚悟をして一緒になったんだろう。なら伝えてはどうかね」
「そうか……」
 わかっている。残り少ないとわかっていてカナエは一緒にいることを望んだし、義勇もそれを受け入れてともに過ごしてきた。何度も足掻いた代償をどこで支払うのかと考えていたが、死期が二年程度早まるだけなら充分破格ではないだろうか。
「そうだな。ありがとう」
「冨岡」
 腰を上げた義勇は声をかけられ、顔を向けると非常に言いにくそうに逡巡する伊黒がいた。包帯で隠れた口元がもごもごとしている様がまるで言い淀む自分のようだと感じてしまった。
「俺の言ったことは全て綺麗事だ。感情がそんなことで抑えられるとは思ってない。だが」
 申し訳なさそうな表情を見せ、伊黒はまた呟くように口にした。
「貴様の伴侶は強い女だろう。あんな大勢の前で後悔などないと言った奴だ。……俺としても、貴様らが痣を克服してやれば良いとは思ってるがね」
「無茶を言うな」
「どうだかな」
 できないことを口にする気はない。伊黒は楽観視するような人間ではないが、それでも口にしたことは本音なのだろう。そう思われていることは嬉しいが、義勇は頷くことはできなかった。

 上機嫌であることが目に見えるくらいの嬉しそうな笑みを浮かべ、カナエは義勇の目の前で腹を擦った。
「ありがとう、私の我儘聞いてくれて」
 子を残すことに少なからず抵抗のあった義勇に、繋いでいくことをカナエは提案した。夫婦になるのだから自然なことだと頬を染めながらも呟いて、後のことは任せてほしいとはっきりと口にしたのは、義勇の屋敷に来た日の夜だった。
 流されたわけではない。義勇もカナエとの子を見られるならと望んだ結果だ。せめて苦労を減らせるよう、残せるものは全て残していく。そのつもりで過ごしていたが、目の前に突きつけられると込み上げるものがあった。
「この子がいれば義勇くんも、……泣いてるの?」
 心が震えるというのはこのことなのだろう。あらゆるしがらみが今後を不安にさせても、新たな命が目の前にあることに感動して涙腺が馬鹿になってしまったらしい。頬を拭うカナエの手が触れると同時に、自分の不甲斐なさに憤ってしまう。
 置いていくのか、家族を。つられて涙を滲ませながら笑うカナエを視界に収めながら、わかっていたはずだとも考える。それが痣の代償、納得してのことだった。間違いなく覚悟をしていたはずだった。
「………っ!」
 目の前の体を抱き寄せた時、義勇の肺が断末魔を上げた。今までに感じたことのない痛みが襲い、隠すこともできず息を詰めてカナエに体重を預けてしまった。
「どうし、……義勇くん?」
 涙を滲ませた笑みが驚愕に染まる。不安げに慌てるカナエが涙声で自分を呼ぶのを聞きながら、義勇は抱き寄せた背中の衣服を握り締めた。
 置いていきたくない。そう思うようになるのは必然だった。ただでさえ好意のあった相手が手の届く距離にいて、義勇を好きだと言ってくれる。手放したくないと考えるのは明白だ。義勇にもわかっていたことだった。
 何がこれほど痛いのか。痣の寿命は老衰のように静かにこの世を去るものだった。前回痛みで気絶することなどなかったはずなのに、義勇は気を持っていられずカナエに体を預けて意識を手放した。

 突然倒れた義勇に動転しただろうことはカナエの顔を見て良くわかった。
 目を覚ますと布団に寝かされており、大きく息を吐いて覗き込んできたカナエの目が腫れていて、随分泣いただろうことが見て取れた。目元を撫でようと手を伸ばすと、カナエは義勇の手を掴んで頬へと擦り寄せた。痛ましげに顔を歪めながら。
「気分はどう?」
「……問題ない」
「今はね。目を覚ましてくれて良かった」
 いつ去っても良いようにある程度身辺を整理してはいたが、カナエにとっては驚いたことだろう。子ができたとわかると同時に家族が死ぬなど忙しい。せめて産まれる頃に死ぬのは避けたいところである。欲を言うならば顔を見たいが。
「痣の影響は老衰のようにという話だったと思うけど」
「……嘘は言ってない。体力が衰えて足を踏み外すことはあっても、前回は痛みで倒れることもなかった」
 覚悟をするためだと言って、どういうふうに亡くなるのかをカナエは聞いてきたことがあった。寿命の蝋燭が二十五以降すっぱりと切り取られ、短くなった蝋燭に長い生を凝縮したのではないかとも感じる。だから老衰のような症状が二十五までに起こるのではないか。
 今回においておかしなことは幾つも起こっているし、義勇は自分の手で変えてきたことが幾つかある。足掻いた代償というならそうなのだろう。
「……大事ないか」
「大丈夫よ、あなたの子だもの。私も守るわ」
 カナエの体調も含めて聞いたのだが。
 妊娠中は体だけではなく、精神的にも過度な重圧をかけるのはご法度であると聞いたことがある。宇髄は奥方に無理をさせないようにしていたはずだし、泣き腫らしたカナエの不安がかなりのものだっただろうことは想像がつく。子が流れるようなことは避けたいのだが。
 動こうとすると慌ててカナエは止めようと手を伸ばしたが、それを制して義勇は上半身を起き上がらせた。
「痛みがあるの?」
「……痣の影響かはわからないが。意識を飛ばしたのはそのせいだ」
 散々怪我をして片腕も失くして、痛みに耐え忍んでいたのは日常茶飯事だったはずだ。我慢しきれない痛みだったかどうか、いまいち判断がつかない。確かに肺を握り潰されたような気分だったが。
「そう。苦しいのね」
 今はそうでもない。倦怠感のようなものはしばらく前から付き纏っていたが、それは特に生活に困るほどのものでもなかった。恐らく前回のように不調の始まりだったのだろう。
「できるだけ楽になれないかしのぶとも薬を探してみるわ。無理しないで」
「お前が無理をするな。俺より腹の子を大事にしてくれ」
 歪な笑みを向けたカナエの顔が苦しげに歪み、眉根を寄せ唇を噛み締めて俯いた。
「無理して義勇くんが楽になるならいくらでもするわ。お願い、助けたいの。生きてほしい。……いなくならないで」
 本音を口にするカナエの目から涙が止めどなく溢れている。頬を拭うために触れると義勇の寝間着にしがみつき、静かに啜り泣き始めた。
「……ごめんなさい。一緒にいてくれるだけで良かったのに。あんまり幸せだから欲深くなったの」
 義勇はできないことを口にする性分ではなく、それをカナエも知っている。しがみついていた体を離し、無理やり目元を拭って笑みを向けた。見たことのないような苦しげな笑みを。
「俺も置いていくのは嫌だ」
 震える口元が笑みを崩す。それでもカナエは涙に濡れたまま義勇へ笑いかけた。
 泣かせるのは嫌だ。無理して笑うカナエを見るのも嫌だ。そう告げると辛うじて笑んでいた口元がまた歪に歪んだ。どんな顔をしていても綺麗だな。そうぼんやりと考えると義勇の口元は無意識に緩んだ。
「……嫌なことばっかりね」
「そうだな。カナエが無理をするのも嫌だ。泣きたいなら泣いてくれ。俺が悪い」
「……そんなことない。皆悪くないのよ。悪いのは……覚悟をしたつもりでできていなかった私」
 覚悟を決めきれていなかったのは義勇もだ。あまりに幸せで欲深くなったのはカナエだけではない。誰かと生きることがこれほど満たされるものだと知らなかった。残していく覚悟を前回は持っていたはずだったのに。
「この先産まれてくる子を、その目で見てあげて」
 見られるだろうか。この腕に抱けるだろうか。自分の体は自分が一番良くわかる。倒れる前まで不調の始まりを感じていた体が、あの痛みの後こうして起き上がった体が、すでに随分衰えを感じていた。この感覚は前回末期に感じたものだ。恐らく半年も保ちはしない。
 何も答えられなかった義勇が笑みを向けると、カナエの目からまた綺麗な雫が零れ落ちた。