軌跡を辿る
十年ほど前のこと。今は空き家となった家には両親を亡くした姉弟が二人で住んでいた。
優しく朗らかな姉は器量も良く町でも評判の美人で、その弟は大人しくはあるものの優しく穏やかな子だった。仲が良く親がいないことを寂しいとも言わず、二人とも良い子だったという。
慎ましく生きていた姉弟を、どこぞの資産家が姉を見初め娶りたいと願い出た。近所の姉弟を見守っていた世話焼きたちはこぞって喜び、祝言を今か今かと待ち侘びては資産家を持て囃した。そんな周りに笑みを向けながらも、姉は弟を気遣いながら、弟は姉の幸せを願って嫁ぐまでの時間を過ごしていたそうな。
そうして祝言を前日に控えた夜に事件は起こった。
心優しく朗らかであった娘がどんな罪を犯したのか、悍ましいほど無残に殺された。獣に襲われたのだろう、首元を噛み切られ手足を喰い千切られ、残っていたのは娘の事切れた首と食い散らされた体の残骸。そして家の中に飛び散るおびただしい量の血痕。放心した様子の弟が一人、娘のそばで佇んでいた。
良い娘だと評判だったから娶りに来たのにと、資産家は殺されたのなら用はないとでもいうように娘との祝言を反故にして去っていき、弟は気が触れ妄言を口にするようになり周囲の大人たちを心配させた。遠い親族が病院で診てもらおうと連れて行こうとした途中で、弟は忽然と姿を消した。
それが呪われた家の話。
カナエは桶を取りに行った義勇を待っていた時、老婆に声をかけられつい話を聞いていた。
人好きする笑みを向けられて話を聞かせてくれると言うから聞いてしまったが、少々背筋の冷える話だった。随分年嵩の老人だから、もしかしたら十年以上前の話かもしれない。実際に起きたことではないかもしれない。だがこののどかな町にそんな恐ろしい言い伝えがあるとは義勇も言っていなかった。
本当に十年前なら義勇はもうここを離れた後だったのだろうか。それなら彼が噂を知らないのも無理はない。老婆は話好きのようであり、色んな人に聞かせてあげているのだと使命のように口にしていた。
どうしようか。義勇が戻ってきたらすぐに別れれば良いが、義勇もこんな話を聞きたいわけではないだろう。今日は墓参りに来たのだし、きっと穏やかな気分でいたいだろう。
「カナエ」
「……義勇くん」
名を呼ばれて振り向くと、義勇は桶を片手にカナエのそばへと近寄ってくる。老婆の存在に気づいて不思議そうにしたが、ほんの少しだけ驚いたように目を丸くした。
「義勇? 義勇。……おお、生きていたのかい。本当に義勇?」
老婆はカナエを通り過ぎて義勇の腕を掴もうとしたが、右腕を掴めず袖をぐしゃりと握り込んだ。ああ、と芝居がかったような嘆きを見せ、すぐに義勇から手を離した。
「腕まで失くして、お前も罪を犯して呪われてしまったのかい。蔦子のことは残念だったが、罪を犯したあの子が受けた呪いを断ち切ることができなかったようだね。残念、残念」
いつかの能面が義勇の顔に乗っている。老婆を静かに見下ろす目は怜悧で冷たい。それなのにどこか寂しげにも見えた。
「ここへは二度と来てはいけないよ。鬼に喰われたなどと言って、現実を受け止められなかった。子供だったのだから仕方ないがね。お前まで蔦子のようになるんじゃないよ。こんな、腕まで失くして。呪いが町に広まってしまうかも」
「お婆ちゃん!」
老婆を呼びに来たらしい若い娘が慌てて走り寄って頭を下げた。娘が掴んだ腕を振り払うこともなく老婆はずっと残念だと呟いている。
「すみません、少しぼけが始まってて。他所から来た人を見るとこうして怖がらせるんです。空き家はあるけど呪われてるわけじゃなくて、」
「他所者じゃない。この子はあの呪われた家の子さ」
「やめなさい、お婆ちゃん。すみません。あまり長くいないほうが良いですよ。きっと気分を悪くさせてしまうから」
老婆の他にもこうして呪いを口にする者は少ないながらもいるのだという。
単純に熊のような獣に運悪く襲われ殺されてしまったのだと娘は言った。人里に降りてくる獣は頻度は少ないながらも全くないわけではない。空き家となった家に住んでいた姉弟というのも、きっとそうして亡くなってしまったのだろうと口にした。
「鬼がどうとか言うけど、呪いも同じくらい信じられないものですし。でも信じる人たちはいるんです。特に年寄りは」
すみませんでした、と深く頭を下げた娘と、すでに興味が失せたのかどこか遠い目をし始めた老婆を置いて義勇は歩き始めた。それを追うためにカナエも足を踏み出す。
会話もないまま歩を進め、やがて一つの墓の前で義勇は立ち止まった。
冨岡家の墓。以前胡蝶家の墓にも挨拶に行き、今度は義勇の故郷へと向かう話をして、今こうして念願叶ったわけなのだが。
ちらりと一歩前に佇む義勇を見上げても表情は見えない。カナエはどう声をかけるか悩んでいた。
あの老婆の話は十年前に義勇が経験した話なのだろう。
獣の仕業と判断された娘の死は、鬼が喰い殺した痕だ。無残で悍ましいほどの惨状だったからこそ、ああして呪いなどと言い伝えているのだろう。事実は老婆が信じない鬼の仕業だというのに。
現実を受け止められなかった。
義勇は姉の最期をその目で見て、周りに伝えようとしたのだ。なのに老婆はそれを信じなかった。親族は病院に連れて行こうとした。忽然と姿を消した後、育手である鱗滝に拾われたかしたのだろう。
カナエとしのぶは悲鳴嶼に救われた後、そのまま彼に保護された。鬼の存在を知る者が保護してくれていた。
墓石に掛け水をして義勇は片手を胸の前で祈り始め、カナエもそれに倣い手を合わせて目を瞑った。
顔も知らない義勇の姉。朗らかで優しく、評判の美人だった。義勇がカナヲを一度も叱らなかったのは、そのように姉から育てられたからだと聞いた。罪を犯したことも呪われるようなこともない人だったはずだ。
鬼は無差別に人を喰う。どんな優しい人でも犠牲になる。そこに選別はなかった。
「……事実を教えても、信じてはもらえないかしら」
「だろうな。昔から思い込むとそれしか考えない」
独り言のように口にしたカナエの言葉に、義勇は静かな声で答えた。あのままで良いと呟いた義勇は、墓参りは時期を外して、あの状態では顔も良く覚えられないだろうと口にした。カナエが口を開こうとした時、静かな義勇の声が耳に届いた。
「カナエが信じたから良い」
瞬いた目を義勇の背中へ向けた。表情はやはり見えなかったが、纏う空気が少しばかり柔らかさを滲ませていた。
「たぶん、……ずっと、信じてもらえなかったことが恐ろしかった。やり直しの話を信じたお前に救われたんだ」
あの一瞬の泣きそうな顔をした義勇が脳裏に過ぎる。どこかでそんな経験があったのだろうかと考えはしたが、カナエの言葉に救われてくれたことに、言い表せないような感情が渦巻いた。泣きたいような笑いたいような、どうして良いかわからなくなるような感情がカナエの心を襲い、考えるよりも先に義勇の背中に頭を預けた。
「姉さんに顔を見せてくれ」
「……今駄目。見せられない顔してるわ」
「綺麗だから大丈夫だ」
更に顔色を変えさせるような言葉を口にした義勇にもっと顔を上げられなくなり、カナエは蚊の鳴くような声で待ってほしいと呟いて、義勇の羽織を皺になりそうなほど力を込めて握り締めた。
*
注連縄のある大岩の前に座る義勇のそばに人影があった。
辺りはぼんやりしているのに、人影だけがはっきりと映る。誰だろうと考えながら周りへ目を向ける。カナエも炭治郎も気づいていない素振りで山を見渡していた。
久しぶりだと口にする炭治郎と、綺麗なところだと笑うカナエ。カナヲはそれを聞きながら義勇の座る大岩の前に視線を戻した。
義勇と炭治郎が過ごした狭霧山。育手である鱗滝の元へ来た四人は、挨拶を済ませた後大岩のことを聞いた義勇が見てくると言うのを聞いてついてきた。近くに修業のための罠があり、苦しめられたと炭治郎が言う。今はもう必要がなくなり、鱗滝は少しずつ回収しているのだそうだ。
義勇のそばにいる誰かは、狐の面を頭につけて頬杖をつき義勇へと目を向けていた。やがてカナエや炭治郎に目を向け、カナヲへと視線を寄越した。目が合ったことに少なからず驚いたカナヲが背筋を伸ばすと、誰かもまた少し目を丸くして驚いたような顔をした。
「二人ともこれを斬ったのね」
「俺は大岩を斬るのに凄く苦労して……カナヲ?」
様子が妙なことに気づいたらしい炭治郎がカナヲに顔を向けた後、視線を追うように大岩のそばにいる義勇へと振り返った。炭治郎の声に義勇もカナヲを振り向き、注視するように眺めた後呟いた。
「……何が見える?」
カナヲが一人何かを見ていることを察した義勇の問いかけに、誰かは義勇へ目を向けて少し困ったように眉を顰めた。その様子を見つめながらカナヲは口を開く。
「……狐の面をつけた男の子が」
「そうか」
炭治郎が驚いたように義勇のそばへと駆け寄り、カナエは目を丸くしたものの小さく笑みを浮かべた。四人しかいないこの場所に誰かの姿があるなど信じられないことだろうと思うのに、皆疑う素振りを見せず、義勇はただ一言相槌を打った。
「義勇さん、俺、お世話になりました。岩を斬れたのは俺だけの力じゃなかったんです。二人が教えてくれなければ最終選別に行けませんでした」
「………、世話焼きだな。まあそういう奴だった」
お前が連れてきたからだよ!
狐面の少年が憤慨したように荒く立ち上がった。
声はカナヲには聞こえなかった。目の前で少年は怒っているかのように表情を変えていて、口元が動いていたからカナヲはそう唇を読んだ。義勇を気安く呼ぶ様子から、きっと仲が良かった誰かなのだろう。
「どこにいるの?」
「兄さんのそばに。炭治郎の前」
「ありがとう、錆兎!」
カナエの問いかけに答えると、聞いていた炭治郎が勢い良く頭を下げた。またも驚いた少年が目を丸くしたが、表情は少し困ったように歪む。カナエが義勇の隣に座ると炭治郎は少し離れ、カナエは大岩に向かって笑みを向けた。
「初めまして、錆兎くん。義勇くんの妻のカナエです」
少し目を丸くした義勇がカナエへ視線を向け、炭治郎は離れた位置にいるカナヲを手招きした。それに従うように近寄りながら、カナエの言葉をただ聞いていた。
「あなたが救った命が私たちを救ってくれた。ありがとう。見送るのはもう少しだけ待っててね。もう少しだけそばにいてほしいから」
少しじゃなくて、ずっと長くそばにいてほしいけれど、それを約束できないことは理解している。義勇はできないことを口にする性分ではないし、カナエもそれをわかっているのだろう。炭治郎の隣に立ち止まったカナヲもまた口を開く。
「義勇兄さんの妹のカナヲです。炭治郎の妻です」
照れた顔を見せた炭治郎を視界に捉えながら、カナヲはカナエに倣うように自己紹介をして頭を下げた。
カナエの言うとおり、カナヲは義勇に拾われなければ親に売り飛ばされたままどうなっていたかわからない。人買いから繋がれた縄が千切れ、逃げてしまったカナヲが蹲ってどうして良いかわからなかった時、義勇はカナヲの前に現れた。汚い子供に誰も目を合わせず近寄らず、誰からも話しかけられず途方に暮れていた時に義勇はカナヲへ目を向けた。立ち止まって困ったように眉を顰めながら、一言来るかと問いかけたのだ。
「私の大事な人たちです。私も兄さんと姉さん、炭治郎のように優しくなりたい。あなたが救った命を大事にしたい」
顔を上げると少し照れたように目を逸らし、少年は口を開いた。
義勇が救った命だから炭治郎に手を貸しただけ。義勇の妻と妹は俺は知らない。礼を言うのはお門違いだ。それは本人に言ってやれ。……義勇と義勇に救われた命を大事にしてくれ。
カナヲに見せた唇の動きがそう伝えてくる。照れた顔が嬉しそうに笑みを見せて義勇へ目を向けた。
「何か言ってる?」
「……礼は本人に言えと。兄さんが炭治郎を救ったから手を貸しただけって」
「……そうか」
まだ繋いでくれていたんだな。
死して尚手助けしてくれたという、義勇のきっと友人なのだろう少年。噛み締めるようにありがとうと呟いた義勇に、少年は一言こちらの台詞だと口にした。
俺はお前の重荷になるために死んだんじゃない。俺ができなかったことをお前が繋いでくれたんだ。
足掻いて足掻いて、こちらに来るのはもっと先にしろよ。そう口にして少年は笑い、カナヲの視界から姿を消した。