蝶屋敷
「まあこれは、初めまして、胡蝶カナエです。水柱様と音柱様お揃いでいらっしゃるなんて。不死川くん、お知り合いだったのね」
記憶にある通りの笑みを向けながら、蝶屋敷の主人は通された客間へ現れた。その後ろから妹も盆を持って現れる。
「柱合会議でなァ」
「あ、そうか。もう気安く不死川くんなんて呼べないわね。お勤めご苦労様です」
「やめろ。んな柄じゃねェ」
冨岡の隣に座らされた栗花落に向かって笑みを向けつつ、カナエはそれで、と顔を上げた。
「預かってほしいというのは?」
「……拾っておいて何だが、俺は屋敷にいないことが多い。ここなら人もいると聞いて頼めないか聞きに来た」
「そんな、犬猫の世話じゃないんだから……」
「しのぶ」
「犬猫なら拾わない」
「はは、お前苦手だもんなあ」
じとりと見上げるしのぶの言葉を窘めつつ、突っ込んできた冨岡の言葉にもカナエは笑った。それはそれとして少し悩むように手のひらを頬へと当てる。今回は初対面、しかも怪我とは関係のない頼みごとだ。そしてカナエは医療従事者としても忙しい。子供の面倒を見るのも難しいかもしれない。
ちらりと冨岡に視線を向けると、何やら考え込んでいたらしい顔が宇髄へと向けられた。
「……言ったことがあったか?」
「何が?」
「俺が動物苦手だと」
ぎくりと肩を震わせそうになり、宇髄は何とか耐え抜いた。しまった、この話は前回に聞いた話だったか。時折こうしてごちゃまぜになってしまうのは気をつけていたはずだが、のんびりとした空気にあてられたようだ。
「え、言わなかったっけ?」
「……いや、知ってるなら言ったんだろう」
忘れているだけかもしれない。そう呟いて冨岡は栗花落と会話をしようとするカナエへ目を向けた。誤魔化せたのかどうなのか。無を貫くと相変わらず考えていることがわからなくなる。
「ふふ、噂に聞くよりお二人とも親しみやすい人ですね。水柱様なんて何を考えているのかわからないなんて言われていて。不死川くんは会ったことがないって言ってたし」
「ちゃんと話したのは今日が初めてだァ」
「それでもう十年来の友人みたいな空気なの? よほど波長が合ったのね」
そんな空気は出していなかったはずだが、胡蝶カナエは人が喧嘩していれば仲良しだと喜ぶような奴だ。まああまりに酷い本気の取っ組み合いならば慌てて止めようとするが、基本的にじゃれ合っているのだと思っている。そしてじゃれ合いをする程度には心を許しているのだろうとでも思われていそうだ。まあ宇髄としては確かにそうなのだが。
「それで、この子のことですけど。彼女は水柱様と一緒が良いみたい」
羽織の袖をぎゅうと掴んで離さない栗花落の手を見て、カナエは微笑ましそうに笑みを深めた。優しくしてくれたのね、と理解したような言葉を紡ぎ、栗花落の頭をそっと撫でる。静かに体を強張らせたことに気づいたのは恐らく全員だ。
「……俺は屋根を貸しただけだ」
「そうですか? なら居心地が良いのかもね。衣食も提供しているんでしょう?」
「……隠が」
「それはあなたが指示をしたからですよ」
にこやかに冨岡の所業を指摘していくカナエは、笑っていてもどこか勝ち目を見出だせない。冨岡ならば尚更してやられるだろう。現に何も言えなくなった冨岡は黙り込んでしまった。馬鹿。
「まあ、面倒見ても良いんじゃね。相性は悪くなさそうだし、現に今も隠が見てくれてんだろ。生活に関しては問題ねえ。ここには遊びに来る名目でどうだ」
「ああ、良いですね! アオイも喜ぶかと」
「話せるようになるかが問題だなァ」
「そこは冨岡が頑張れよ、隠に頼んでも良いけど」
当事者を置いて話を進めるのは、冨岡を含んでも良い方向には変わらないだろうと判断したからだ。現時点で栗花落は冨岡に懐いているし、これを無理やり引き剥がすのは子供に良くない影響を与えそうだった。冨岡自ら稽古でもつけてやれば、もしかしたら前回よりも伸びるかもしれない。まあ使う呼吸が違うのだが、花の呼吸は水の派生なのだからどうとでもなるだろう。何なら派生しているとわかったら今度こそカナエに頼めば良いのだ。
「弟子か継子だな」
「どっちも取らない」
「そういうなって。お前の拾壱の型は後世に残すべきだと思うぞ。質の良い隊士が増えればそれだけ生き残る機会も多くなる。俺様みたいな一代限りの呼吸もな」
「拾壱……あれかァ」
「………。見たことがあったのか?」
「や、見たことはねェ、けど。水の呼吸の隊士が知らねェ型使ってたって言ってた時があって」
訝しげに見える目を不死川に向けながら、表面上は納得したように冨岡は相槌を打った。正直宇髄も己のように何か知っているのではないかと疑わしい目を向けてしまうが、まあ前回不死川は冨岡に並々ならぬ敵対心を燃やしていたので、その関係かもしれない。
宇髄は今回も見たことがある。まだ完全ではないと言っていた拾壱の型。前回がいつ完成させたものかはわからないが、あれは正しく守りの型だ。未完成とは信じ難い、実力主義とはいえ、まだ十六の子供のくせに。
「型ともいえない防御技だ。誰にでもできる」
「あんなんが全員できりゃ苦労しねえよ」
少なくとも一般隊士に軽々やってみせろとはいえない。こいつがやればできるのはできるまでやるからだ。隊士とて血の滲む努力をしていないわけではないだろうが、柱である自分たちに匹敵するとは思っていない。ほら見ろ、胡蝶の妹の機嫌がみるみる悪くなっている。
宇髄としてもできるまでやれという冨岡の思考は間違いはないと思っているが、それはそれとしてどんな努力をしてもできないことがあることもわかっている。その点について冨岡も理解はしていても、本人の自己評価の低さが周りにとんでもない無理難題を示すのだ。己にできているくらいの簡単なことをできないはずがない、などと。
「まあその辺は追々だな、こいつが呼吸法を会得できるかどうかもわかんねえんだ。そもそも鬼殺に対してどうするかも決めてねえだろ」
栗花落がいなくて最後を生き残れるわけはないが、それでも今回闘うことを拒否したら、冨岡が無理やり覚えさせるとも思えない。むしろ女児である栗花落に呼吸法を使わせることを冨岡が嫌がるかもしれない。
まあ強くなることを推奨していることも知っているが、それはそれとしてというやつだ。
どう見ても情が湧いているのは栗花落だけではない。何だか知らんが冨岡とて栗花落に対して甘いところが滲み出ている。いくら孤児だからといって衣食住を提供し、あまつさえ抱っこして手を繋ぐのだから。こいつこんなに子供好きだったのか、いや前回は関わりがなかったと言っていたはずだ。
「勿論何かなくても来てくだされば、私やしのぶが対応します」
人手のいる蝶屋敷ならそこで働いても良いと思うが、本人が行きたくなさそうならカナエも無理強いはできないらしい。
「きっと彼女も水柱様とお出かけしたいだろうし、ただ会いに来てくれる人は貴重なんです。是非」
冨岡と栗花落の膝に置かれた片手ずつに自らの手を添えながらカナエは笑みを二人に向けた。
確かに怪我人の呻き声も響くだろう蝶屋敷では、見舞いも何も関係なく会いに来る者など少ないだろう。それが嬉しいというのもわかる。
「……そうか。ならもう一つ頼みがある」
「はい、何でしょう」
すでに色々と頼み事をしている身分だ。ついでのように口にした冨岡は、頷いて話を聞こうとするカナエの手を握り込んで呟いた。
「胡蝶にこいつの名前をつけてほしい」
カナエの動きが止まった。
どこで習った手管だよと宇髄は呆れたように二人を眺めていた。
自ら触れていたとはいえ、手を握り込まれ真正面から目を覗き込まれ、動きの止まったカナエの頬がじわりと赤くなるのを見た。
そこらの免疫のない町娘ならば簡単に落ちてしまいそうではあるが、まさか胡蝶カナエにも効くとは。色街にでも連れて行ったら面白いかもしれないとへらりと笑みを浮かべて頬杖をつこうとした時、不死川としのぶの表情がほぼ同じく唖然として驚愕に染まっていることに気がついた。
妹はともかく不死川は何故。知り合いがときめいた瞬間でも見て驚いたか。驚愕から怒りの滲んだ表情に変わっていく。ああ、成程。それはそれは。
「ちょ、ちょっと、姉さんから離れてください」
「まだ返事を聞いてない」
「そんなの手を握らなくても聞けるでしょう!? 早く離してくださいよ!」
しのぶが無理やり二人を引き剥がし、巻き込まれた栗花落が体勢を崩して転がるように倒れ、慌ててしのぶが謝るという騒がしい場面を見た。その間不死川は拳を震わせていながら何も言わなかったが、色々と言いたくて堪らなかっただろう。これほどわかりやすいとは知らなかった。
「え、ええと、名前をつけるのは良いんですけど、それは水柱様がつけたほうが良いのでは?」
「………、……名付けはできない。そういう学がない」
自身の姉のことでも考えたのか、何故そうも頑なに名付けをしないのかはわからない。宇髄にとってもカナエに栗花落の名をつけさせなければならないとは思ってはいるが、今回のこの流れは冨岡が名付け親となるのが自然なのだ。どうにも理由はわからないが、前回のことを考えると冨岡はまず間違いなく正解を踏んでいるし、カナエも冨岡が引かないことを察したようだ。
「わかりました。しのぶ、半紙を持ってきてくれる?」
「はい」
客間を出ていきしばらくして戻ってきたしのぶの手には半紙数枚と筆があった。
「いくつか候補を書くからこの子に選んでもらいましょう。しのぶも書く?」
「え、でも、姉さんに頼まれたんですよね」
「いや、考えてくれるなら助かる」
少し悩みながらも候補ならばとしのぶは筆を取り、彼女の書き込む姿を眺め、黒く染まっていく文字を見て、宇髄の目にもわかりやすくカナエは笑顔のまま冷や汗をかき始めた。
「………! し、……しのぶ」
「え? ……何でしょう」
姉以外の三対の目からも良からぬ感情を感じ取ったらしいしのぶは、眉間に皺を寄せて不機嫌そうに宇髄たちを眺めた。名前として使えるのか些か疑問の残る文字が半紙に綴られているが、これを何故諾としたのか問い質してみたくなった。怒るだろうことは予想しているので実際に口にはしないが。
「……あの、やっぱり皆さんも名前を……」
むしろしのぶに頼んだことが間違いであったとでも言いたげに、若干泣き笑いにも見える表情をカナエは見せた。何かおかしいかと姉に問いかける妹の様子が本当に自覚していないことを物語っている。ちらりと冨岡を確認すると、いつもの能面よりも目が死んでいるような気がした。
カマスととびこかあ。なかなかに攻めている名前候補だ。というか人ではなく海の生物の名前だ。駄目かと段々不安げになってきているしのぶの表情に少々罪悪感を覚える。笑みを浮かべたままカナエが半紙へと文字を書き始める。
「しのぶは生き物好きだもんね。エがヲになるでカナヲ。私は名前のもじりしか思い浮かばないわ」
良かった。ついに出た。内心でずっと待ち侘びていた名前が書き起こされ、宇髄は心中脱力するほど安堵した。まだ選ばれるかわからないのだが、何としてもこれを選ばせなければならない。しのぶには悪いが。
「それで、柱の皆さんは?」
「………。家族の名前くらいしか思い浮かばない」
「まあ俺もそうだな。命名って難しくてよ」
「だなァ」
口裏を合わせたわけではないが、ぼんやりと誤魔化した宇髄たちにどうやら深読みしてくれたらしく、カナエはしのぶと目を見合わせてほんの少しだけ寂しげに笑った。
この姉妹もそうだが、鬼殺隊に所属するような連中は大抵家族を鬼に殺されているし、その殺された者の名前を使うのはどうにも縁起が悪い。死した彼らが悪いのではなく、わかっていて子の名前に使うのは気が引ける。そういう塩梅を察したのだろう。
冨岡も不死川もここにいるということはそういうことだ。宇髄としても死んだ弟妹の名を騙らせたくはない。まあ二人は知らないが宇髄に至ってはただの断る口実だ。いうなれば胡蝶姉妹も冨岡や不死川と同じ思考になった可能性もあったが、前回名付けたカナエを知っているからわざわざ提案してここまで来たのだ。無事出てくれて安心した。
「よし、まあ三つもありゃ良いだろ。選ばせろ」
正直一択でしかないが、しのぶに書かせた手前却下するのも申し訳ない。栗花落の前に紙を並べ、一つを手に取るように指示をする。じっと見比べているような、どれも選ぼうとしていないようなぼんやりとした動きのまま、栗花落はそっと一つの紙へと手を伸ばした。
「……それが良いの?」
両手で持ち上げ直した半紙の文字はカナヲ。宇髄は心底安堵したが、しのぶは少々不満げである。カナエは嬉しげに笑った。
「カナヲか、良いじゃねえか。じゃあ次は名字だな」
「え? 水柱様の名字を名乗るんじゃないんですか」
つい視線を向けると冨岡は一つ瞬きをして固まった。カナエはそう思い込んでいたらしく、選ばれなかった半紙を折り紙にして遊びながら、しのぶにも同意を得るように笑いかけた。
「そうですね。水柱様の屋敷に住むならそれが一番ではないですか?」
「まあそれもありかもしんねえけど、どうせなら選ばせようぜ」
冨岡の屋敷に寄ってからこっち、宇髄は冨岡が自分と同じく栗花落を知っているのではないかと疑いをかけてしまいたくなるほど、今日の冨岡は様子がおかしかった。
こんな奇妙な体験など宇髄一人で良いとは思うが、もし同じように二回目の人生を歩んでいるのなら、蝶屋敷に来て名付けてもらうと決めたこともおかしくはない。誘導したのは宇髄だが、それでも冨岡は何かを逡巡していたのだ。
死んだであろう家族の名前を使いたくなかったのも事実なのだろうが、それにしても怪しく思える。前回の冨岡との乖離が余計にそう思わせるのだろうし、ただの希望の混じった憶測でしかないこともわかっているのだが。
「そうねえ。じゃあ、ええと……本宮、神崎、栗花落、……冨岡で」
「何故俺の名字が」
「必要だと思いますから」
再び栗花落の前に紙を並べて選ばせる。ぼんやりしていた一度目よりも、今度はすぐに手を伸ばした。冨岡と書かれた紙へ。
「………、待て」
「決まりね、冨岡カナヲちゃん。可愛いわ。覚えのない名字を呼ばれても返事ができないものね、きっとこの子も同じ名字が良いのよ。……駄目ですか?」
普段の能面よりも見開いた目が揺れたのを確認し、複雑な表情が栗花落を眺めていた。
おかしなことではない。前回などという普通ならば想定外のことを踏まえなければ、孤児を拾い裾を掴まれる冨岡の名を選ぶのは理解できるものだ。それほど驚くようなことではない。
だが冨岡の驚きようは宇髄の目には過剰に見えたし、カナエの目にはどうやら表情を翳らせるくらいのものだったようだ。
「血の繋がりがなくたって兄妹にはなれますし、きっとカナヲちゃんにとって良い影響もあります。妹ってとっても可愛いんですよ、ほらしのぶはこんなに可愛いし」
「姉さん」
頬を撫でられ不満そうにしのぶが窘めるために姉を呼ぶが、構わずカナエはしのぶを撫でる。照れてむすりとしている妹も可愛い可愛いと喜ぶ姉の姿も、いっそ清々しいくらい微笑ましい。
「……妹……」
「物静かなところも何だか似てるし、きっと優しい子になりますよ」
思っていたより話してくれたとカナエは冨岡の印象を語っているが、確かに似ていなくもない。冨岡は家族を失ってから、栗花落は恐らく家庭環境がそうさせたのだろうが。
「………。……そうか」
ふと口元を綻ばせた冨岡につい微笑ましさを感じ、宇髄もまた自然と口角を上げていた。家族が増えることを喜ぶような、気恥ずかしく感じているような笑み。口元に手を当てて冨岡を凝視したカナエは、小さく声を漏らして笑った。
「隊士の人たちから笑わない、喋らないって聞いてましたからどんな人だろうと思ってましたけど、良く考えれば任務中に笑えないのは当たり前よねえ」
「俺様は笑うけどな」
「てめェのは煽る笑い方だろォ」
疑惑は晴れたわけではないが、冨岡は栗花落が家族になることを喜んでいる。家族を亡くして新たな家族を得ることに抵抗があったのだろうとも思う。それでも栗花落の選んだ名を嬉しく感じたはずだ。
前回と変わってしまうことがどれほど影響を及ぼすかなどわからない。不死川の友も生き残っているのだ、栗花落がどうなろうと今更だった。鬼殺隊に関わるところに存在するのだからどうにでもなる。どうにでもしてやる。そのために前回よりも早く強くなったのだ。