ナンパ撃退法
* 宇髄家の場合
「あっ、天元さま! 聞いてくださいよ!」
見知らぬ男を取り囲んでいる女房三人を見つけて宇髄が近寄った時、露天商の女が宇髄を見上げて頬を染めた。
良くある光景だ。美丈夫と自他共に認める宇髄のかんばせは女が頬を染めては惚けたように見つめてくる。老若問わずあるのだから罪作りでもあろう。まあそれは今は良い。
「何? 何か欲しいもんあったか?」
「違います! 私たち今声かけられてたんですよ! 美人だねって、どこか行かないかって!」
「ほお。身の程知らずな奴だな」
「え。いえ……はは」
美丈夫であり体躯も恵まれている宇髄がひと回りほども小さい男を見下ろすと、男は恐縮したように大人しくなった。
女房三人は贔屓目なしに美しく良い女だが、そのおかげで街でも良く声をかけられるとは聞いていた。面倒そうにするまきをと気にかけた様子も見せない雛鶴とは裏腹に、須磨だけは毎度喜びながら報告してくる。それはそれで思うところはあれど、喜んでいるのならと宇髄は好きにさせていた。
「ふうん。俺の女房に声かけて連れ込み宿でも連れてこうって?」
「あ、奥さんでしたか。他の方は姉妹か何かで?」
「全員俺の女房だけど?」
「え、全員!?」
相当衝撃だったのか、男は唖然としたまましばらく動かなかった。別に言わずに去っても良かったのだが、宇髄としては女房に声をかけた男に多少の意趣返しはしたい。見る目はあると思うがそれはそれだ。
「声かけたくなるくらい良い女なのはわかるがな、俺の前ではやっちゃいけねえ」
「良い女だなんて、天元さまったら」
宇髄の言葉に嬉しそうに照れた雛鶴とまきを、飛び跳ねるほど喜んだ須磨が腕へと抱き着いた。引き攣りながらも気に入らないと考えているのが良くわかる男を見下ろしていると、意地の悪い笑みを浮かべながら男が問いかけた。
「片腕と目もないなんて、退役した軍人さんか何かです?」
「まあ似たようなもんだな。今は余生を楽しんでる。何だよ」
「いいえ、以前も片腕のない優男が美人の奥さん連れてたもんだから、この街は元軍人さん多いのかと気になって。羨ましいもんだ」
宇髄の知り合いにもそんなような言われ方ができそうな夫婦はいる。まだ若く見えるのに災難だとか、聞こえないよう見掛け倒しだの腕を失くす程度などと呟いている。残念ながら宇髄の耳には聞こえているが、喜んでいた女房三人も聞こえたのだろう、目がひやりと冷たくなり、面倒な奴だと男を見下ろした。
否定はしない。結局宇髄は痣も出せず、自分が生き残っただけで最後の炭治郎を救ったのは冨岡でありしのぶであり、薬を託されたカナヲだった。大手を振って救えたなどとは言い難い。一般人からの言葉など聞く耳を持つ気はなかったが、思うところがあるのは自覚している。
「知る気がないならわざわざ話題にしなくて良いさ。不愉快だから」
「揶揄うためだけに人の傷を突くような真似をする男性はちょっと、関わり合いになりたくはないわね」
「何なんですかあなた! 天元さまに近寄らないでください!」
三者三様に男を非難する女房に、宇髄もまた目を丸くした。
出しゃばることなく宇髄を立てようとする三人が、宇髄に送られた言葉に憤っているらしい。神妙な顔をしようとしたが妙に歪になっているのが自分でもわかり、にやつく口元を抑えきれなかった。
「ははは。良いかい兄さん、良い女ってのは気づいた時には誰かのもんになってるもんだ。そんで良い女は旦那を裏切ったりしねえ。お前さんに靡くような良い女はどこにもいねえから素直に身の丈にあった女探しな。いるかは知らねえがな!」
「………っ、そうですかい、邪魔したね」
肩を怒らせて去った男ににこやかに手を振りながら、さて、と宇髄は露天商の品を吟味するために向き直った。ぽかんと見ていた女店主に謝ると、また頬を染めて笑みを向けてくる。
「ほら、欲しいもん言えよ、買ってやるから。俺様今凄え機嫌良いの」
「変わってますね天元さま。あたしらはめちゃくちゃ気分悪いのに」
「お前らのおかげでな。女房が良い女揃いで俺は自慢して歩きたい気分だ」
我ながら単純な気もするが、人の倍の一生をともに過ごした女房三人が、紛うことなく宇髄を想ってくれているのだ。これが嬉しくないなら何を喜ぶというのだろうか。これ以上のものを宇髄は知らなかった。
* さねしのの場合
茶屋で少し休憩しているところに現れたのは見知らぬ男で、茶を啜っていたしのぶは不機嫌を隠しもせず眉根を寄せた。
相席を頼まれたから、待ち人が来るまでなら良いかと思い頷いたのだが、これが妙に距離の近い男だった。三人は座れるはずの長椅子にわざわざ皿の置いていない側へと座り、しのぶに体を近づけて話しかけてくる。面倒な輩に絡まれたものだ。
何くれと話題を振り、あくまで自然を装いながらしのぶへと体を当ててくる。無視して団子を食べ終えて残りの茶を飲み干し、立ち上がろうとしたところで男はしのぶの手に触れた。
「いででで!」
この身に叩き込んだ宇髄家直伝の体術がつい男の腕を捻り上げた。鬼殺隊士のように鍛えている者ならそう簡単にはいかないだろうが、見たところ武術の心得もない一般人、更にしのぶ相手で油断している者ならば、呼吸などなくとも捻り上げるなど造作もない。我ながら綺麗に決まったものだと感心した。かつての同僚たちには一度も決まらなかった体術である。
「気安く触らないでいただけます?」
笑みを向けて冷たく言い放つと男は呆然としたまま腕を押さえていた。
何でこんな見知らぬ男に触られなければならないのだとしのぶは内心相当頭に来ていたのだが、店先ということもあり一応は収めようとはしているのだ。この辺りもっと感謝してほしいくらいだった。誰も見ていなければ間違いなく足技も使っていた。
「誰だァそいつ」
「遅いですよ」
待っていた人物へ声をかけると男もまた顔を上げ、その風貌に少々たじろいだ。まあ一般人からすれば恐ろしくも見えるだろう。顔に傷があり人相だってお世辞でも良いとはいえない実弥の風体は、どこからどう見ても堅気ではない。しのぶからすれば、実弥が堅気でなければ自分もそうなるのだが。
「知らない人です。相席を頼まれたので」
「へェ……」
眼光鋭く睨みつける実弥に怯えたように肩を震わせ、会釈をした男はそそくさと店を離れていった。隊士の頃から声をかけられることはありはしたが、今の光景を見て成程と思いついた。
「おい、俺まだ食ってねェ」
「遅れたんだから仕方ないでしょう。もう汽車に乗る時間です」
甘味を欲しがる実弥を無視して精算を済ませ歩き始めると、溜息を吐いてしのぶの隣で歩き出す。そう、これだ。あの手の輩は実弥の風貌に恐れをなすことに気づいたしのぶは、街へ出る時は彼を連れて行けば良いのだと思いついたのだ。
名案である。一人で買い物へ来る度面倒だと思っていたが、解決法は何と簡単なことだった。
「面倒なので実弥さん、街へ出る時は荷物持ちをお願いしますね」
「別に良いけど。ああいうの毎回かァ」
「一人で来るとね。あなたがいれば近寄ってこないことにもっと早く気づくべきでした」
「本当遅ェよ。早く言え」
心配してくれているらしいことに気づき、しのぶは堪えきれず声を漏らして笑った。
一人でもどうにかなりはしていたが、それでも実弥からすれば呼吸の使えないしのぶのことが心配なのだろう。その中には夫婦となったが故の心配も含まれているのだろうことは、しのぶも一応理解していた。
それがほんの少し擽ったくて、何やら機嫌を良くしてしまう程度にはしのぶも嬉しかったのだが。
* 本編
大袈裟に尻餅をついた男が呆然として見上げてくる。顔を見てあの時カナエに擦り寄っていた男であることを思い出し、少々私怨も篭もってしまったかもしれないが、困っていた女性が安堵したような息を吐いたので冨岡は気にしなくて良いかと考えた。
「懲りない奴だな」
路地裏から聞こえた制止の声に冨岡は顔を上げ、馴染みの店となった菓子店から離れた。何事かと店主と女将が顔を出して周囲を見渡す。聞こえた方角へ向かうと路地の細道で嫌がる女を腕に閉じ込める男がいたのだ。
こんな昼間に往来で。夜にひっそりと仕出かされても冨岡は気づかなかったので、まあ止めるには有難いといえるだろうか。どう考えても仕出かすのがおかしいが。
「何だい、見てんじゃねえよ」
「た、助けてください!」
砂利を踏み鳴らして近寄ると、こちらを見た二人が真逆のことを口にする。男の腕を掴んで力を込めると痛いと喚いて女を離し、ついでに掴んだ腕を引き寄せて宙へと放り投げた。少々力加減を間違えた気もするが、投げた男が尻と背中をしこたま地面にぶつけ呻き始めた。追うように路地から出てくると、様子を見ていたらしい店主たちと通行人が冨岡を凝視して固まっていた。
「……すまない、やり過ぎたかもしれない」
個人的には私怨を含めているからやり過ぎではないと思っているのだが、盛大に吹っ飛ばしてしまったしこれほど周りから凝視されては反省する他ない。顔を覚えられたらちょっと、もうこの辺りを歩けない気がしたのだが、カナエの行きつけである菓子屋の店主たちが見ていることを思い出し、今更であることを理解して冨岡は一人顔色をなくした。誰も気づいていなかったが。
鱗滝直伝の体術は人の体を舞わせるほど豪快なもので、それを叩き込まれている冨岡も同じようにしてしまった。
「あ、あの、ありがとうございます」
騒然とした周囲の中、捕まっていた女性が礼を告げた。冨岡としては見兼ねて手を出したのと、顔を見て恨みを晴らしただけのことである。礼を言われるようなことはしていないと口にすると、唖然としていた女将が興奮したように拍手をし始めた。
「凄い! あんた本当に強いんだねえ、惚れ惚れしちゃったよ」
「はえー。線の細い優男かと思ったら、こりゃ相当強いなあんた」
冨岡は隊士であった期間も長く、線が細いなどといわれるような体躯ではないと思っていたのだが、筋力が落ちてそう見えてしまうのかもしれない。確かに宇髄や不死川と比べると冨岡は小さく細く見えてしまうのは自覚しているが。
「あ、あの、お礼をしたいんですが」
「いや、本当に必要ない。それよりこの男は、」
ふん縛ってどこかに突き出せば良いのか、それとも放置しておくのか。呆けたような顔を見せた女性に未だ痛がる男の処遇を問おうとしたところ、疾風のように走り寄って来る人影が見えた。
「てめェ覚悟しろやァ!」
「不死川!」
路地奥にいる女性を手で制して名を呼んだ瞬間、ようやく体を持ち上げた男に思いきり飛び蹴りを喰らわせた。
「何してるんだ! 知り合いか?」
「知るわけねェわこんな奴! うちの以外にも声かけるたァ節操のねェ野郎だなァ!」
うちの。つい反芻してしまった言葉に不死川は固まり、今度は冨岡の胸ぐらを掴んで威嚇してきた。口から漏れたのは自分も言ってみたい気分になったからなのだが、そこまで照れなくても実際そうなのだから構わないと思うのに。手を掴んで引き剥がし、過剰に反応する不死川を宥めようと落ち着けと口にした。
しかし、カナエや背後で冨岡の袂を掴んでくる女性だけでは飽き足らず、しのぶにまで声をかけていたらしい。照れ隠しにまだ蹴ろうとする不死川を引き止めた。
「やり過ぎだ、俺も私怨で加減を間違えた」
「あ? んだよそれ」
「いや、……カナエが」
止めたはずの不死川の足が男の顔の真横に踏み下ろされ、小さく悲鳴を上げた男は身動ぎすらできなかったらしい。
「ほっほお成程なァ。綺麗どころは手当り次第ってとこかァ。てめェもてめェだ、何一人にさせてんだよ」
「俺に当たるな。お前も一人にさせたんだろう」
しのぶが声をかけられるとはそういうことだ。男らしく腕の立つ不死川がいればその場で懲らしめていただろうし、そもそも声をかけられることもなかっただろう。そこは同じ穴の狢である。わかっているらしく不死川が口篭った。
「んだよ、見世物でもあんのかと思ったらお前らか。お? あー、あんたいつかの兄さんじゃん」
そこへ新たに声をかけてきたのは宇髄だった。男を見て知り合いのように振る舞う宇髄に、よもや彼の友人を手酷く痛めつけたのではないかと冨岡は焦った。
「その様子だと身の丈にあった女は見つかってないみたいだな!」
「もしかして友人だったりするのか」
「は? 俺がこんなんと友人なわけねえだろ、馬鹿にすんな。お前の嫁さんから教えてもらった店にカステラ買いに来たんだけど。……後ろの娘は? 嫁には見えねえけど」
袂を掴まれたままだったことを思い出し、振り向くと困惑したように目を揺らして頬を染めている娘が冨岡へ目を向けていた。あー、と何やら宇髄が妙な声を漏らしたが、冨岡は袂から手を離すよう口にした。
「節操なしの仕置きは済んだんだろ? カナエが言ってた店教えろよ」
「……そこの店のことだと思うが」
宇髄が肩に腕をまわしたおかげで袂を掴む手が離れ、安堵しながら店主と女将を指すと、頬を染めた女将と目を丸くした店主が宇髄を眺めていた。
「……なあお前、あの嬢ちゃんに妻帯者だって教えといてやれよお」
「言っても利かんよ、だってもう恋する乙女の目してるだろ? まあ一応窘めてはおくけどね。ところでお兄さん凄い色男だねえ、見惚れちゃったよ」
「あははは! こりゃどうも。あっちの娘っ子は惚れる相手間違っちまったな」
声高に笑った宇髄から腕力のままに背中を叩かれ冨岡は少々痛みを感じながらも、宇髄が店の客であることを店主と女将に告げると嬉しそうに店内へと戻っていった。見目の良い若い男に目がないのだと店主が言うと、宇髄は楽しげに笑みを見せ、店主という旦那がいてくれるからはしゃいでるように見せているだけだと口にした。気を良くしたらしく、店主もまた嬉しそうに戻っていく。
「……お前は軽くあしらっていそうだな」
「何が? つうか結局何だったんだよこれは」
路地から助けを求める声が聞こえたから覗いたら、女を掴んでいた男がいた。カナエに声をかけていた男であることに気づいてつい加減せずぶん投げた。そうしたら不死川が飛び蹴りをかまし、その後宇髄が顔を出したというわけである。へえ、と生温く感じる視線を向けてくる宇髄から顔を逸らしたのは冨岡だけではなかった。
「何だよ、なら俺も殴っときゃ良かったぜ。うちの女房にも粉かけてくるもんだから、ついらしくもなく説教しちまった」
「はァ。お前がァ?」
「良い女探しは諦めろってな。そこのお嬢さんも、こいつには可愛い嫁さんがいるから諦めな」
「ああ、そりゃ冨岡が悪ィ」
不死川へ目を向けると、呆れたように溜息を吐いてこれだから、と呟いている。人助けをしたのに私怨を込めたせいか、どちらも冨岡を褒めてくれはしなかった。
「お前もう面でも被ってろよォ。嫁以外にどんだけ誑かすつもりだァ」
「人聞きの悪い、宇髄と一緒にするな」
「まあ俺様に見惚れるのは子供から婆さんまで幅広いからなあ。お前も買って帰ってやれよ、冨岡が騒がしくした詫びに」
「何で俺が冨岡の尻拭いっ……いやァ、買って帰るわ」
「騒ぎを長引かせたのは不死川だからな」
自覚があるらしく、不死川はぐう、と呻き声を漏らしながらも言葉を噤んだ。冨岡としてももう少し穏便に済ませるべきであったと思いはしていた。見ず知らずの者を助けるだけだったならば。
* 後日のぎゆナエ
「それが本当格好良くってねえ、色々止めはしてるけどあたしも納得できるのよ。あれで惚れないのは無理だって。助けてもらった子なんてずっと頬赤らめてさあ。まああたしはその後に来たお兄さんに釘付けだったんだけど」
むむ。カナエは必死に眉間の皺が寄らないよう躍起になりながら話を聞いていた。
街まで向かえば何やら普段より視線を感じ、というよりやけに義勇に向かう視線が多いと気づいた。今日は買う気のなかった菓子屋の女将から声をかけられ、世間話だけでもと言われ立ち寄ったのだ。この間はどうも、なんて訳知り顔で義勇へ挨拶をして。
この間というのは、恐らくカナエが買い出しを頼んだ時のことだろう。何やら以前カナエが嫌悪を抱いた男性がまたも女性に声をかけていたらしく、カナエの恨みも晴らしておいたなどと言いながらぶん投げてしまったと続けた。この恨みとは義勇が抱いていたものらしく、カナエ自身の嫌悪は晴らしてくれてはいない。まあ義勇が恨んでいたと教えられただけで充分嬉しいので構わないのだが。
興奮している女将を宥めながらも、店主もまた男性の体が綺麗に舞っていたと振り返る。人に教えられはしないが、体術はそれなりに叩き込まれていると言っていたし、確かに義勇ならば一般人を投げるのは造作もないだろう。少しだけ見てみたかったと心中で考えていた。
「女将さん、頼んでたものできてます? ……あっ! こ、こんにちは!」
義勇を見上げて頬を染めた女性が挨拶をすると、小さく会釈をしつつも少し考える素振りを見せた。顔を覚えていなかったのか、女将がこの間の話を女性に振った時、ようやく思い出したらしく目を瞬いた。
「先日は本当にありがとうございました! やっぱりお礼を」
「礼を言われるようなことは本当にしていないから必要ない」
「でも、」
ばちりとカナエと目が合い、思わず身構えてしまった。窺うような視線を女将と店主から感じ取り、カナエは何か言うべきなのかを悩んでしまった。とりあえず目が合ったのだから笑みを向けると、女性も少しぎこちない笑みを見せた。
「ええ、と……そちらの方はもしかして」
「お嫁さんよお、カナエちゃん」
「あ、ど、どうも」
これまたぎこちない挨拶をして、カナエは眉尻を下げて女性を眺めた。
可愛らしい娘だ。恐らくカナエより年下の、綺麗に整えられた艶のある髪が綺麗だった。華やかな色合いの袴が似合っている。
「この間、助けていただいて。凄く格好良かったんです、男の人が宙に舞うのを初めて見ました。見たことありますか?」
「そうですか。いえ、私は」
まあ宙に舞うよりももっと色々見てきたしやってきた経験があるのだが、わざわざ話すことでもない。カナエが首を振ると女性の目が少しだけ光ったような気がしたが、更に話しかけられては切り上げて離れるわけにもいかずカナエは女性の話を聞いた。
曰く、涼しい顔で片手で腕を掴みそのまま引き抜くようにして男性だけを吹っ飛ばした。路地の奥にいたのに男性は往来の道へと飛び込み、強かに尻と背中をぶつけたらしくもんどり打って痛がっていた。人の体がこれほど飛ぶなどと思わず、つい見惚れてしまったのだという。
何だろう。何やら意図を感じるような。カナエに教えるだけではない何かが伝わってくる気がする。その場には実弥も宇髄も来たはずなのに彼女からその話は一つも出て来ず、義勇に釘付けになっていただろうことが窺えた。笑みを浮かべていた口元がひくりと引き攣ってしまいそうで、カナエは困り果てた。
懐から懐中時計を取り出した義勇は時間を確認し、そろそろ向かわなくて良いのかとカナエに問いかけた。
「あれ、どこか行くのかい。呼び止めて悪かったね」
「いえ、また来ます」
「そういや今日は人形浄瑠璃があるって話だったな。お二人さんさてはデートだな?」
揶揄うような声音で店主が口にすると、カナエの手を掴んだ義勇が店の二人に笑みを向けて頷いた。
「そう。邪魔しないでほしい」
「あらまあ! こりゃごめんなさいね、またおまけするから来ておくれよ」
笑みを引っ込めた義勇が女性に会釈をしてカナエの手を引いて店から離れ、カナエも慌てて挨拶をすると、興奮したような女将と微笑ましげに眺めてくる店主、そして悲しげに翳った表情をした女性が目に入った。そんな顔をされては良心が痛んでしまう。
手を繋いだまま街を歩いていく義勇を斜め後ろから眺め、何とも複雑な気分になったカナエは小さく呟いた。
「あの人、義勇くんのこと格好良かったって」
「知らない人間から思われても特に嬉しいとは思わない」
「そう? 可愛い人だったわ」
「カナエより可愛い奴がいたか?」
口篭ったカナエの頬に熱が集まる。空いている手で顔を隠し、何も言えなくなった自分に我ながら単純過ぎる、と考えてしまった。
夫婦になってから、たまにこうして義勇が口にする言葉に照れてしまうようになって、カナエは面白くなかった気分が霧散していくことがあった。わかっていてやっているのか天然かは図りかねているのだが、どちらにしても喜んでしまう自分は相当御し易いのだろう。
「手繋いで目立つの気にならないの?」
「……大捕物のようになってしまったからな。今更隠れても声をかけられることが多くなった。……まあ、あんな男がいるなら目立ったほうがましだ」
義勇にとって看過しかねることを仕出かしたあの男性。聞けばしのぶや宇髄の奥方たちにも声をかけたのだというし、確かにあんなことがまた起こるよりは、目立っていても義勇と手を繋ぐほうが良い。そう、と相槌を打つとカナエを振り向いた義勇は、少しばかり罰の悪そうな表情を見せて嫌なら離すと口にした。
「嫌じゃないわよ。……えへへ、嬉しい」
噛み締めるように言葉を漏らしたカナエから視線を逸らしつつも、笑みを浮かべる義勇は嬉しそうにも見えた。
「あ、義勇さーん! カナエさん!」
劇場前で手を振る炭治郎とカナヲを見つけると、二人は繋いだ手に気づいて照れたように頬を染めた。
人形浄瑠璃を見たいという義妹たちと観劇に来たのだが、義勇はわざわざデートを肯定して店を出てきた。それもまたカナエの羞恥を煽るものであったのだが。
「カナヲちゃんなら私より可愛い子よね?」
「よりということはない。……同じくらい」
感情はきっと別のものが向かっているのだろうが、義勇の中ではカナエとカナヲが一番のようだった。恐らく身内扱いとなる禰豆子やしのぶ、彼の実姉もきっと。
そう考えると多い気もするが、見知らぬ人よりそのほうが良い。カナエにとっても彼女たちは可愛がりたいのだから、義勇の気持ちは良くわかる。
手を繋いで歩けば義勇に懸想する女の子がいなくなるのなら、カナエはいつでも繋いで歩こうと今後のことを考えた。