蝶屋敷のある日

 蝶屋敷に世話になると決めたのは玄弥の世話を見てくれていたのが大半の理由だが、しのぶが戯れに口にした誘いの言葉にこれ幸いと乗ったからだ。
 別に、カナエに気持ちを伝えるつもりなど毛頭なかったし、二人が夫婦になることを喜ばしいとも思っていた。それはそれとして複雑な気分も味わっていたところにしのぶは声をかけてきた。
 振られた者同士のよしみで。
 そもそも不死川は鈍感といわれることがあり、カナエへの気持ちも見た目通りの人生を歩んでいないから覚えていただけだ。惚れた相手を眺めていたら、視線の先に冨岡がいることに気づいてしまっただけである。
 だからしのぶからの言葉がなければ当人の気持ちなど気づきもしなかったし、焚きつけてしまった自覚もある不死川は少しばかり申し訳ない気分だった。
 彼女自身は忘れられない相手を見つめる素振りなど、少なくとも不死川の目には見えなかった。
 短気ですぐ怒るが、存外考えていることが読めなかったりする。宇髄家直伝の体術というものは不死川の手を焼くし、一筋縄ではいかない女だった。
「はァ……」
 輝利哉から受け取らざるを得なかった釣書の表紙を眺めながら、不死川は面倒だと考えていた。
 蝶屋敷で世話になり始めてもう一年近く経つ。荷物持ちや患者を押さえるための男手、更には用心棒紛いのことも散々させられたが、これがまた不死川の気を紛らわせるのに有難かった。時透兄弟も蝶屋敷に留まり、煉獄もたまに顔を出して手伝いを買って出る。玄弥の世話をしながら過ごすこの時間が不死川は嫌いではなかった。
 釣書を抱えてあてがわれた部屋へと戻る。戸を開けた時布団に埋まって動かない誰かが目に入ってきた。干していた布団が気持ち良くて眠ってしまったか。弟妹たちもそんなことがあったな、とぼんやり考えながら肩を揺すった。
「んー……」
「お前かよ」
 蝶屋敷の主人となったしのぶが布団に突っ伏していたとは。不死川が肩を揺すっても唸り声を漏らすだけで起きる気配はなく、しっかりしているように見えてそうでもないのかもしれない、と考えながら羽織を取るために離れようとした。
「うぉっ」
 つんのめりそうになった不死川が目を向けると、しのぶの手が不死川の着物の裾を掴んでしまっていた。先程肩を揺すった時に身動ぎさせたせいか。無理やり手を伸ばして羽織を掴み、しのぶの肩へと掛けた。そのまま寝付かせるように背中を手でゆっくりと叩く。
 疲れているのだろう。闘いが終わってもしのぶの仕事量は膨大だ。怪我人や後遺症の確認、定期検診。カナエに手伝わせるのも気が引けるのだろう。カナエ自身は大変だろうと良く蝶屋敷へ現れるが、不死川だって新婚の二人の邪魔をする気など毛頭ない。しのぶと一緒になって早く帰れと追い出していたくらいだ。
 自分に医療の心得でもあればもう少し楽になっただろうが、しのぶにしかできないこともある。片手をなくし肺を傷つけ、自身も苦しかっただろうに良く頑張る奴だと感心した。安らかに眠るしのぶの顔を眺めながら、つられるように不死川も眠気が襲ってきてしまい、同じように布団に頭を預けた。欲のままに惰眠を貪っても良いが、気持ち良さそうに眠るしのぶの顔を見ていたくなった。
「ん……」
 どの程度見ていたか、しのぶは睫毛を震わせ小さく声を漏らし、ぼんやりと瞼を上げた。焦点の合わない目が瞬きをして、不死川へと視線を向ける。普段の大きな目が更に丸くなり、勢い良く布団から頭を上げた。
「な、何事ですか?」
「いや、戻ったらお前が寝てたからァ……俺相手に照れるんじゃねェよ」
 驚愕に染まるしのぶの顔が焦りと羞恥でも感じているのか、少々顔色が赤かった。頬に両手を当てて隠そうとしているが、不死川は既に見た後なので意味がない。まあ無意識の行動かもしれないが。
「うるさいですよ。そんな、と、殿方が目の前で寝ていたら驚くでしょう」
 顔を隠そうとするあまり、しのぶは不死川から顔を背け、晒された耳や項が真っ赤に色づいているのを目の当たりにした。
 そんなに照れるものか。しのぶのいう殿方とは所詮不死川のことで、結構長く共同生活を送ってきた。その間しのぶは同僚だった頃と変わらず不死川にあれこれと言い含めることも窘めることもあったし、男だからと考えているのは力が必要な時くらいだったように思っていた。
 自分を男と認識していて、更に照れるのか。あまりに驚いた不死川は無意識にしのぶの肩に触れ、ぴくりと反応して困惑したように見上げてくるしのぶへ呟いた。
「お前、可愛いなァ」
 言った後で我に返り、不死川はすぐに手を離した。
 違う、今のはつい口から漏れただけで、決して何か意図があって言ったものではない。しどろもどろになりながら弁解しようとしていると、落ち着いたのかしのぶはおかしそうに笑った。
 それがまた不死川の目に眩しく映り、思考を忘れる程度にはしのぶに見惚れていたのだろうと思う。
 伸ばした不死川の手から逃げることなくしのぶは腕の中に収まり、ひっそりとしがみつくように着物を掴まれた。
 それが予想外に心にきてしまったのは、仕方ないことのような気もする。
「……お見合いされるんですか?」
 その辺に置いた釣書に気づいたのだろう。しのぶは問いかけながら不死川の胸に頭を擦り寄せた。
 さっきから何だよ。そんなことをされたら勘違いしてしまうだろうが。言葉は何でもない世間話だったのに、しのぶを腕に収めたこの状況が非現実のようで、不死川自身も少し混乱していた。
「断りきれねェで渡されただけだァ。行かねェ」
 そうですか、と幾分安堵したようにも思えた声がくぐもって聞こえてくる。ようやく頭が回り始めた不死川は、自分自身にも非常に困惑しながら一言口にした。
「あー……その。……自棄じゃねェよな」
「……そっちこそ。私は姉じゃありませんよ」
 ああ耳が痛い。そう言われることも理解しているし、しのぶならば言われても仕方ない。互いの気持ちがどこに向かっていたかはすでに知られているし知っている。
 まあ、少なくとも不死川相手に照れる程度には意識されたようだし、してしまったのだが。
「構いませんよ、お見合い避けでも。好き好んで片手のない女を貰ってくれるような奇特な人もいませんし」
「お前ならいくらでも来るだろォが」
「来てないから独り身なんですよ」
 嘘吐け。輝利哉はしのぶにも見合いに頷いてもらえないのだと言っていたし、しのぶの分だと見せられた釣書が山を作っていたのを知っている。片手が無かろうと藤の花の毒塗れだろうと、しのぶなら是非と言ってくる男は山程いるのだ。
 藤の毒などはもう大半は体から抜けているというし、義手を使うしのぶは日常生活に支障などない。肺を切られた後遺症で呼吸は使えなくなっても、そんなものはもう必要ないし。
「家庭に入れるような女じゃないんですよ。お試し数年くらいなら良いかもですが」
 揶揄うような笑みを見せられ何も言えないでいると、窺うように見上げたしのぶは小さく呟いた。
「……嘘ですよ。長生きしてほしい」
 誰もが祈った言葉だろうと不死川は理解している。自分が関わりを持ち悪くない関係を築いた者たちは、皆が気にかけてくれる。
「会ったこともない男性よりは、不死川さんが良いです」
「そうかよ」
 恋い焦がれるような想いを持っているかと言われれば、恐らくどちらもそんなものは持っていない。それが悪いというわけもないはずだ。不死川はしのぶのまるで世間話のような言い方に、間違いなく気分が軽くなったのだから。
「なら玄弥に言うかァ。言ったらもう逃げ場ねェからな」
「不死川さんがでしょ。私は逃げも隠れもしません」
 減らず口を叩くしのぶに溜息を吐きながら、不死川はしのぶの手首を掴み部屋を出ていった。

「ああ……うん。まだかなって思ってた」
 管を繋がれたまま玄弥はぼんやりと呟いた。
 半年保ちはしないだろうと宣告されていたにも関わらず、点滴生活になった玄弥はもう一年経とうとしている。全く良くならなかったこの期間、玄弥は嫌がることもなく点滴を受け入れ生き長らえてくれていた。不死川の自己満足でしかないのではないか、本当は辛くて苦しくて、今すぐ死んでしまいたいのではないかと何度も考えたが、それでも玄弥には生きていてほしくてずっとしのぶに治療を頼んでいた。
「兄ちゃんは……意地っ張りだけど誰より優しいから……」
「ええ、知ってます。見てましたから」
 軽い気持ちで一緒になるかと話したことは、不死川にとっては楽になれるものではあったが、玄弥はきっと幻滅するだろう。しのぶも気を利かせてくれたのか、その辺のことは方便を使ってくれるようだ。
「へへ、しのぶさんが姉ちゃんか……良かった……夫婦の二人見られないとこだった」
「縁起でもねェこと言うんじゃねェよ」
 心残りがなくなったなどと不穏なことを口にする玄弥に、不死川は身を乗り出して玄弥を覗き込んだ。そんな寂しいことを言うなよ。すでに随分余命が延びていることはわかっていても、自分より長く生きていてほしいのだ。
 それが無理なことくらい思い知っているけれど。

 心残りのようなものがなくなって気を張る必要もなくなったのか、報告をした数日後には玄弥は息を引き取った。
 何度呼びかけても返事をしなくなった玄弥に不死川はみっともなく泣き縋っていたが、しのぶは何も言わず不死川に寄り添うように抱き締めてくれていた。
 死闘の末の夜明けを拝んだ玄弥は、陽の光を浴びるのが怖いと呟きながらも、不死川が生きていることに泣いて喜んでいた。そのためだけに鬼殺隊に入り、嫌われても憎まれても守りたかったのだと口にしていた。それは不死川こその思いだというのに、同じことを考えていて嬉しいと玄弥はそれも笑っていた。
 玄弥の思いは不死川と同じだ。己が幸せを掴むかどうかだけを知りたくて耐えてくれていたのだと気づいた時、報告しなければもっと生きていたのではないかとすら考えたが、きっと苦しかっただろうとも思う。亡骸が残っただけでも良かったと思うようになった。
 それは結局自己満足でしかない。それでも不死川の我儘に振り回され続けた玄弥に小さく謝ると、暗く翳った表情を見せるしのぶは黙ったままだった。
「……ちゃんと仲良く過ごしてやるよォ」
 せめて悪いものではなかったと思ってもらえるくらいには。しのぶの数年を不死川にくれたのだから、それを玄弥は喜んだのだから。