告白

 何度か来たことのある屋敷は家主のいない間、水柱邸を担当していた元隠が管理してくれていたらしい。
 埃もなく庭は雑草もない。きっちりと手をかけられた部屋を見渡しながら、カナエは荷解きをしていた。
 蝶屋敷よりは少ないが、使っていなかった部屋を一室カナエに明け渡した義勇は、そのまま屋敷内を確認しに部屋を出ていった。
 正直なところ、カナエは少し緊張していた。
 本当に残りの時間を貰えると思っていなかったのだ。義勇は頑固なところがあるから、自分が決めたこと、特に痣の影響を受け先のない人生で誰かを娶ることなどないのだろうと思っていた。カナエは確かに一人にならないでほしくてそう説得しようとしたが、カナエの言葉では届かなかった。宇髄のおかげでこうしてここにいる。
 きっと責任という言葉に振り回されているのだろう。こうして部屋を分けられるくらいだし、カナエ自身はそばにいられるなら小間使いでも何でも良いが、義勇の優しさにつけ込んだような気分で自己嫌悪を感じていた。
「お前に一つ言わなければならないことがある」
 食事を終えて湯浴みを済ませ、カナエはどうしようかとそわそわしていたら義勇に呼び止められた。嫁扱いをしてくれるのか、それとも。じっとこちらを見つめる目が静かで、カナエはあまり嬉しいことではないのだろうと察して、少し暗い気分で対面に正座をした。
「カナヲの名付けのことは」
「蝶屋敷に女の子がいるから来たんでしょ? 言ってたわよ、名付けができないって」
 その話か。宇髄が説明を促し周りが騒いで仕方なかった宴会の時のことだ。一目惚れでもされたのでは、なんてはしゃぐ周りの空気を白けさせずに宥めようとしていたが、カナエにははっきりとわかっていた。
 義勇はカナエに焦がれるような目を向けなかったし、ずっとカナヲを第一に思っていた。カナエに目を向ける暇などもなかった。あれはきっと宇髄の策略なのだろう。逃げられないように義勇を口篭らせた。何故そうなったのかはわからないが。
「勘違いなんてしてないわ。冨岡くんは私を特別には見てないこと知ってるもの。だから少しでも、……気持ちを貰えると嬉しいけど」
 難しいかもしれない。それとも残りの時間で情が湧いたりするかもしれない。義勇は優しいから、望めばそのように振る舞ってくれるかもしれないが、やっぱり本物の気持ちは欲しい。ほんの少しでも。
「……俺は、好きでもない者と共に暮らそうとは思わない」
 目を丸くして思わず義勇の顔を凝視した。
 義勇は嘘を言ったことはないが、カナエはその言葉を受け止めきれなかった。確かに友としてなら好意は抱かれているだろうし、友を娶るということにはならないとも思う。押し切られたような状態だったのに。
「……少し、人と違う経験をした」
 目を伏せて思い出すような素振りをしながら義勇は静かな声で呟いた。
「だからもう充分だと思った。必要ないと」
「何が? 生きるのが? 幸せになるのが?」
 どんな経験をしたのだろう。鬼に家族を殺されるよりも、鬼のいない世を見るよりも稀有な経験なのだろうか。義勇はその経験があるから、誰も伴侶を娶らないと考えたのか。幸せになることを放棄しようと。幸せ。
「……私といるのは、幸せなの?」
 視線の先にある義勇の目が細められ、唇が緩く弧を描いた。息を呑んだカナエに少し困ったように笑う。
「……本当に?」
 視界が歪む。カナエは前を見ていられなくなりほんの少し俯いた。膝に置いた手の甲に雫が溢れる。
 他でもない義勇がカナエといることで幸せを感じる。カナエにとってこれほど嬉しいことはなかった。
 ずっと追いかけているだけの、手の届かない存在だったはずなのに。
「俺は言葉も足りないし、大したこともできない。老い先は短い。誰を幸せにできるというのか」
「……できるわよ。私今凄く幸せだもの」
 そういうことは早く教えて。そう涙声で呟くと、義勇は困ったように視線だけを天井へ向けた後、また小さく笑みを見せた。

*

 恥ずかしい。最中よりも終わった後のほうが羞恥を感じるものなのだと知り、カナエは身悶えして布団を被った。義勇は狼狽えて不安そうに大丈夫かと声をかけてきた。
 大丈夫じゃないのは感情だけだ。恥ずかしくて嬉しくて幸せで、カナエは込み上げる気持ちを抑えるのに苦労しているだけである。決して嫌だったとか辛かったとかそういうのではない。義勇は優しかったし、カナエを見てくれていたし。
 だがさすがに布団を独り占めするのも申し訳ない。真っ赤になっているだろう顔を手のひらで隠そうとしながら、カナエは義勇を布団の中へ招き入れた。
「……あの、人と違う経験って?」
 気になっていた話。言いたくないのなら無理に聞こうとは思わないが、と一言付け加えると、義勇は充分黙り込んでから口を開いた。
「……宴会で、宇髄が言っていたことを覚えてるか。人生をやり直しとかいう」
「ああ、宇髄さんもそんなこと言うんだって思ったわ。そんなことがあったら私、皆助けたいと思うだろうなあって」
「俺はそれを経験している」
「え、」
「一度死んだ後、十年以上前の自分に戻っていた。最終選別が終わった後、鬼殺隊に入る時の自分に」
 言葉を発せず涼しげな義勇の顔を凝視し、カナエは心中で混乱していた。
 何、それ。そんなことがあるの? 人と違う経験って、全然少しじゃない。
 カナエがもしそんなことになったら、やっぱり皆を助けたくて奔走するだろう。前よりも強くなろうとして、しのぶを守ろうとして、何とか五体満足で生きられるように画策するはずだ。何度も闘うのは辛いけれど、それでもその先にあるものを掴むために。
 カナエが考え込んでいると、隣の義勇が小さく笑う気配がして目を向けた。楽しそうに細められた目がカナエの反応を見ていたらしい。
「信じたか」
「え。え、冗談なの?」
「そんなことがあると思うか?」
 肩を震わせ声を漏らして笑う義勇を、眉尻を下げて眺めたカナエは騙されたのかと考えた。義勇が楽しそうで何よりだが、カナエはどうしても納得がいかなかった。
「本当なのよね?」
 カナエの言葉に笑いを収めた義勇は、一瞬だけ泣きそうな子供のように表情を歪めた。すぐにそれは鳴りを潜め、口元まで布団を引き上げて目を瞑った。
「何でそう思うんだ」
「……うーん、何となくだけど本当かなって。今なら義勇くんも冗談言うかもしれないけど……」
 本当に何となく、勘のようなものだ。説明を求められると上手く言えない。カナエが義勇と話していてそう感じただけなのだから。
 複雑そうに顰められた表情は、それでも小さく笑みを見せた。それが本当の話であることを、カナエはまた何となく感じ取った。
「ねえ、宇髄さんも冗談じゃなかったのかしら?」
「さあ。冗談じゃなければ頭の病気を疑われるだろう」
 そんなことがあったのだろうか。カナエが信じた時、義勇は一瞬だけ泣きそうな顔をした。誰かに何かを言われてずっとトラウマになっていたのかもしれない。そうでなくともおいそれと口にできない話ではあるだろうが。
「疑わないわよ、私は。宇髄さんもそうだと良いわよね。ふふ、嬉しい。やり直す前の話も聞きたいわ。義勇くんのこと全部知りたいから」
 寂しそうな顔に笑みを乗せた義勇は、少し考えた後怒るなよ、と前置きをした。
 やり直す前の人生で所帯でも持っていたらカナエはきっと悩むだろうけれど、それ以外で怒ることとは何だろうかと考えた。
「カナヲはお前が拾っていた。だから預けようとした」
「……そう。それで名付けを頼んだのね」
「ああ。お前の妹を俺が奪ったようなものだ」
 ようやく納得のいく理由が告げられ、カナエは冗談ではないことを再確認した。
 一目惚れより何よりカナエにとっては自然な理由だった。やり直す前、カナヲはカナエの妹だったから蝶屋敷へと義勇は現れた。それが義勇にとって自然なことだったから。
「でも私義勇くんに嫁いだから、カナヲちゃんは私の妹になったわよ」
 今でも他の者に比べると表情の乏しい義勇が、唖然として驚愕の表情をカナエへ向けた。そんな顔するのね、と密かに感動していると、顔を覆った義勇が絞り出すように声を漏らした。
「………。お前、……凄いな」
「何それ。ふふ、そんなこと気にしてたの? 簡単なことよ、家族になるのって」
 長く大きな溜息を吐きながら枕に突っ伏した義勇に、どうかしたかと声をかける。黙り込む義勇の肩を揺すりながら、気になるから考えたことを教えてほしいと口にした。肩に触れていた手を掴まれ、カナエに顔を向けた義勇が呟いた。
「……お前と話してると、悩んでいたことが全部大したことがないように思えてくる」
 それは何よりだ。義勇の抱えていたことがカナエの言葉で軽くなるのなら何でも話してやれる。言っていなかったと呟いて、義勇はカナエに耳打ちするように囁いた。
 言われるなんて思っていなかった言葉。ぶわりと一気に顔が熱くなるのを感じ、目の前で小さく唇が動くのを涙が出そうな気分で眺めた。
「……私も好きよ。幸せにするから。あなたは私の話を聞いてくれたもの」
 鬼と仲良くするなどという思想を、鬼殺隊に籍を置く身分でと何度罵られたかわからない。しのぶにすらカナエの気持ちを理解してはもらえなかった。異端であることもカナエはわかっていたけれど、それでもそう考えていたのは事実だった。
 異端を受け入れてくれたことがどれほど嬉しかったか、義勇にはきっとわからないだろう。
「俺は禰豆子を知ってたからだ」
「そうね。私を禰豆子ちゃんに会わせてくれてありがとう」
 隊士として闘っていた日々の中で、何度死んだと思ったか数知れない。呼吸を使えなくなった時、自分はあの時死ぬはずだったのではないかと考えたことがあった。救援に来てくれたのは紛れもなく義勇で、彼の全部の行動が今一本の線に繋がったように腑に落ちたのだ。
「私を死なせずに禰豆子ちゃんと引き合わせてくれたわ。あなたが私の救いだった」
 返しきれない恩がある。何度礼を告げても足りないものだ。好きだと言ってくれた義勇に何度でも伝えたくなった。
「私を好きになってくれてありがとう。ちゃんと生きてね」
 必ず幸せにしてみせるから。ほんの少し困ったように眉尻を下げた義勇は、カナエの髪に触れながら、お前もだと口にした。