夜明け

 ⚠ダイジェスト注意

 終わった。終わったんだ。涙声と安堵の声が耳に聞こえるようだった。倒れた隊士に必死に声をかける隠の姿がカナエにも見える。泣いてしまった輝利哉たちを抱き締めながら、カナエも安堵の息とともに涙が零れ落ちてしまった。
 鴉の目はカナエたちにその場の空気を見せてくれる。蝶屋敷の準備と、アオイたちに報告をしなければ。そう思って札を外しかけた時、血を流しすぎたのか蒼白になった冨岡の顔が妙に目に止まった。
 空を旋回していた鴉が動こうとしている不死川を視界に入れた。炭治郎に近づこうとする隠に手を伸ばした冨岡と同時に何かを叫ぶ。聞こえなくても理解してしまった。
「離れろ——!」
 輝利哉が泣いていた顔のまま茫然とした。何が起こったのか彼も見てしまったのだろう。立ち上がれない不死川の顔が悔しげに歪められ、また何かを叫んでいた。冨岡も炭治郎に何かを叫んでいた。
「何があった!?」
 輝利哉とカナエのただならぬ様子に槇寿郎と桑島が札を掴み、戦況を確認して息を呑んだ。別室で控えていた鱗滝も慌てたように室内へと現れ、状況を把握したらしく言葉を失った。
「鬼舞辻無惨が竈門くんに血を与えたのか!?」
「恐らく最後の足掻きです。でも……」
 誰が立ち上がれるというのか。冨岡は押し留めようとしているけれど、片腕のない状態でもう動くこともできないはずだ。これ以上血を流せば命に関わる。
 そうでなくとも、誰も炭治郎に刃を向けることができないでいるのだ。
「炭治郎……!」
「善逸……! 獪岳はどこだ!?」
「待て、冨岡くんは何をしてる?」
 槇寿郎の目に映った冨岡の様子が妙だったのか、不審げに声を漏らした。
 鬼になってしまった炭治郎を顔を歪めながら押し留めているが何かを叫んでいる。一体何を。
「……呼びかけてるの? 炭治郎くんに」
「義勇が……? 自我を取り戻させようとしてるのか?」
 輝利哉が言葉を口にした時、止めるためだったのだろう冨岡の刀が炭治郎の腹部を、急所を外して貫いた。善逸と伊之助も何かを叫んでいる。炭治郎に向かって何かを呼びかけていた。
 柱である冨岡が、戦地で判断を間違えることなどなかった冨岡が、炭治郎へ必死に叫んでいる。
 自我を取り戻すと確信しているのか、それとも最後の足掻きなのか。カナエにはわからないけれど、彼は禰豆子を殺さなかった。鬼である禰豆子を、人を喰わないと信じて冨岡は生かしたのだ。唇を噛み締めて必死に祈りを込めた。どうか声を聞いてほしい。誰も殺さず戻ってきてほしいと。

*

 カナヲはどこだ。
 炭治郎が鬼にされた。どこにいる、無事でいるのか。
 誰も彼も炭治郎へ呼びかけて引き留めても止まりはせず、禰豆子を噛んだことが冨岡を焦らせた。
 このまま救援に来なければ、冨岡は炭治郎を殺す他ない。押し留めていられる時間はそう長くない。宇髄も不死川も助太刀に入ってくれたが、もはや立っているのがやっとのはずだ。冨岡自身もう体がいうことを利かず、気力だけで押さえ込んでいた。
 鬼舞辻無惨が炭治郎に全てを賭けたことも止められず、まんまと鬼にさせてしまった。陽の光が効かなくなった、頸を斬っても意味はなくなった。殺す手立てがなくとも人を殺す前に必ず息の根を止めなければ、炭治郎の尊厳を守りきらなければ。そうなる前に来てもらわなければならないのだ。炭治郎にとっての救いはカナヲしかいない。
 薬は手に入れているはずだ。しのぶは上弦の弐との戦闘でカナヲの闘いを見ている。冨岡もカナヲの身体能力のことは伝えてもいたし、稽古は蝶屋敷でしていたこともあった。しのぶならば彼女に薬を託しているはずだ。
 早く、早く。皆満身創痍であることは百も承知だが、最後の大仕事が残っているのだ。相対していた伊之助や善逸も限界を越えてもう立ち上がれないらしく、倒れ込んで声だけはしかと張り上げていた。
 お前だけが頼りだ。
 一瞬でも遅ければ、冨岡は彼らの仲間である炭治郎を殺す。どうやって、と手立てがないとしても、柱として冨岡が判断を下すのはその一択しか出せなかった。

*

 あなたに、これを渡しておきます。
 予備の薬。珠世と作ったものではなくしのぶが作った人間に戻る薬。手のひらに乗せられた小さな容器を眺める。上弦の弐との戦闘後、応急処置を施していた時のことだ。笑みを向けるしのぶにカナヲは少し狼狽えた。
「必要ないかもしれませんが、万が一を考えて。私よりあなたが持っているほうが良い。いざという時に速く動ける」
 誰に使うのだろうと不思議だった。壊れずに肌身離さず持っていたものを取り出したカナヲはそのままふらふらと歩き出した。
 意識を手放したしのぶが動けるはずもなく、こうなることを予期していたのかと考えた。
 やめて。やめて。駄目だよ。誰も殺さないで。鬼へと変貌した炭治郎を満身創痍の義勇たちが押し留めている。もう動けるはずがないのに、まだ救けようとしている。
 今度こそ終ノ型を使えば目は見えなくなるかもしれない。だが今使わずに皆を救ける隙はない。他の柱はもう殆ど意識がなく、宇髄と不死川はふらつきながらも炭治郎の攻撃を掻い潜って動きを止めようとしていた。
 先のことは知らない。命があればどうとでもなる。死ぬな、死なせるな。死なせない。殺させない。禰豆子を噛んだ炭治郎へ走り出した。
「禰豆子ちゃん泣かしたら駄目だよ」
 炭治郎の攻撃を掻い潜ったカナヲは、項に薬を打ち込むことに成功した。
 地面に倒れ込んだカナヲはそのまま手当を受けながら、動きが止まって目を覚ました炭治郎が戻ってきていることを理解した。禰豆子が泣いて皆が泣いている。カナヲへと泣きながら笑いかけた炭治郎に、カナヲも同じように笑みを向けた。
 心底安堵した義勇の顔が見え、ぐらりと体が傾げる。
「カナヲちゃん、動いちゃ駄目」
 隠の声を無視して体を無理やり動かした。終わった。終わったんだ。鬼舞辻無惨は倒されて、もう闘わなくて良い朝が来た。地面に倒れ込みそうになる義勇の体を抱き締めて、カナヲは縋るようにして啜り泣いた。隠が手当をするからと肩に触れられるまで、カナヲはずっと義勇から離れなかった。

*

「置いていけよ。もう動けねえから」
 言葉を無視して背負った体が地面を擦り、引きずったまま村田は倒れ込んだ。
 泣きながらも笑みを見せた炭治郎に心底安堵して、気を失った冨岡に縋りつくカナヲをそのままに隊士を抱え上げてここまで来たが、村田の体力は限界を越えていた。
 村田が抱えても身動ぎすらできないらしい善逸の兄弟子。そもそも鬼舞辻無惨に立ち向かうことなどできないほどの重傷を負っていて、失血し過ぎていたのだ。休んでいれば生き延びたかもしれないのに、この男は。医療に詳しくない村田でさえ、もう長くないことが理解できてしまっていた。
 二人で地面に突っ伏したのが見えたらしい善逸が走り寄って来る。近くには安らかな顔をして眠る悲鳴嶼がいて、隠が俯いて泣いていた。
「ごめん……謝っても、どうにもなんねえけどな……」
 小さな掠れた声が呟くのを耳にして、何に謝っているのだろうと疑問を持った。仲は良くないと口にしていた善逸に対してか、それとももっと違う相手か。
「獪岳ー!」
 いつもより泣き喚く善逸の声にも、小さくうるせえと呟いて獪岳はゆっくりと口を開いた。
「漆ノ型……てめえにしちゃ上出来だったな」
「ううっ、うああっ……!」
 善逸がしがみついて泣いても、振り払うこともできなくなっていた。せめて夜明けを見たことが救いとなってくれれば良い。拗れていた仲が歩み寄れることを期待していたが、結局獪岳はそれきり口を開かなくなった。
 周りの泣く声が辺りに木霊する。顔見知りのこうして泣き縋る姿は見ていて苦しい。でも。
 村田は村田で、最初に目標とした生き残ることを達成できてしまっていた。
 あの最終選別で助けられた命が、無事にここまで生き残った。今はまだ周りの悲しみが包んでいるけれど、下級の隊士である村田にとってはとんでもない偉業だったのだ。

*

 結局、何のための二回目だったのかはわからない。宇髄のためのやり直しか、それとも死んだ者たちの救済か。どこが救済になったのか、こんなことが二度もあってたまるかと、満身創痍で死にかけになりながら独りごちた。
 こんな闘いを二度もさせてしまったことにも気分は良くなかった。いつかそうなるのだろうと思っていたが、この死闘の中宇髄の片腕はいつの間にか落ちていた。命があるならそれで良い。誰が何と言おうと、生に勝るものはない。
「悲鳴嶼さんは」
「……自分は助からないからと」
 痣を出していたのだろう。痣の弊害だけではない、失血と死闘の末の殉死だ。だが二十五を超えていた悲鳴嶼がどうなるかなどは想像に難くない。
 痣を出した奴はどいつだろう。冨岡と不死川は今回も出ていたし、煉獄にも発現していた。結局父は泣くことになるのかと気の毒になった。宇髄もまた皆を見送ることになる。死なせないよう救いたかったのに、寿命の前借りには抗えない。抗えるのは選ばれた者だけだ。
「しぶとく生き残って何よりだよ」
「うるせェ、結局俺はまた……」
 呟く言葉が不死川の口から消えていく。何だよまたって、と少し笑うと、不死川は宇髄に向かって睨みつけるように見上げてきた。玄弥は鬼を喰って生きているらしいが、忌々しいはずの鬼喰いなどという所業で生きていることに素直に喜べはしないだろう。そんな話を不死川にするつもりはないが。
「てめェは頑丈すぎるなァ」
「お前も大概だよ」
 結局自分のしたことは決まった死をほんの僅かにずらすだけで、何のために画策したのかもわからなかった。前回と外れて生きている者がいても、運命に抗ったつもりでも、きっと決められた道を辿っていただけ、自分は引っ掻き回せたことすらないのだろう。ただ翻弄されていただけだったのだ。



  • 言い訳
  • 悲鳴嶼さんを生き残らせるには痣を出させないようにしないといけないと思うんですが、刀鍛冶の里を原作どおりの流れにするともう回避不可だろうと考えました。
    ただ、獪岳が立派に隊士してたのを知って迎えの子どもたちも喜べばある意味救済かなと自分は思ってます。死は救済ではないと思う方もいると思いますが。
    しのぶは片腕落として途中離脱で生存。
    煉獄、時透、玄弥生存してます。
    おばみつは原作の死に際が美しいとは思うのですが、もう少しだけ生きてもらうことになります。
    自分の想像力では書けませんでした。