無限城にて

 謀られたのか。
 爆発する産屋敷邸を眺め、宇髄は悔しさに歯噛みしながら鬼の棲家へと落ちていった。
 未来を見通している耀哉のことだ。きっと宇髄が何かを見ていることにも気づいていたのだろう。緊急招集を鴉が叫び、他の柱も集結してくる。耀哉からの頼みだと言って宇髄は悲鳴嶼に用を頼まれ屋敷を遠く離れていた。藤の家への注意喚起など宇髄に頼まずともできたはずだ。だから一足遅くなってしまった。
 警戒されたことを悔い、耀哉には全てわかっていたのだろうと考えた。きっとどう足掻いても耀哉たちは自らを囮にすることはやめなかっただろう。それでも助けられなかったことを後悔した。
 天も地もあべこべの城は気を抜けば壁や床に叩きつけられ怪我を負うだろう。前回は招集に駆けつけた柱だけではなく、一般隊士たちも同じ場所に集められていたという。鬼狩りを滅ぼすつもりなのは確かのようだ。
 前回見ることの叶わなかった鬼の親玉、鬼舞辻無惨を初めて宇髄が目にした時、そばには女がいた。あれが胡蝶しのぶと共同で薬を作っていたという鬼だろう。抑えつけている間に弱らせ陽の下へ引きずり出す。必ず。

*

 誰かが闘っている。
 ここには有象無象の鬼、そして上弦の鬼がいる。強い気配がいくつもある。
 カナヲが一番近い部屋の戸を開けた先には、見知った姿が鬼に抱き締められていた。
「しのぶさん!」
 上弦の陸よりも強い気配に肌が粟立つのを感じ、花の呼吸、紅花衣を繰り出し天井近くに浮かぶ二人に斬りかかると同時に天井が爆発した。
 その一瞬の隙をついてしのぶの体を離そうとしたが、鬼は腕を離さず掴んだまま。このまま斬りかかればしのぶの腕を斬ってしまう。躊躇し刀が止まりしのぶの手が鬼の体に埋まっていくのを目のあたりにし、鬼がカナヲへと手を伸ばそうとした時、しのぶは斬れと叫んだ。
「しのぶさん!」
 鬼の腹を蹴りその勢いのまま落ちたしのぶへ声をかけ、カナヲも床へ着地する。両目に上弦、弐と刻まれた、血を被ったような鬼。義勇を殺そうとした鬼であることを悟った。んん、と鬼が唸った時、爆破の元凶が姿を現した。
「大きいねえ。きみみたいな体躯の男はあまり見なかったな。量はあるみたいだけど」
「質も良いに決まってんだろ、喰わせてやるような肉はねえけどな」
 現れたのは宇髄だった。音の呼吸で爆破を伴い繰り出す日輪刀を使う。上弦の陸との闘いで見たそれは原理はわからないが、爆風が起こり氷の霧が霧散した。
「動けるか」
「問題ありません。ありがとうカナヲさん」
 カナヲが斬ってしまった腕を手早く縛りながら、顔色の悪いまましのぶは立ち上がる。負傷した彼女をここから逃がしても逃げ場はない。
 死なせない。何度も何度もカナヲに声をかけてくれた人だ。カナヲにとって姉のように優しくしてくれた。蝶屋敷で過ごした時間は大切なものになっていた。
「良い夜だなあ。次から次へと上等な御馳走がやって来る」
 斬ったしのぶの腕を取り込み量の少なさに不満げにした姿は、いっそ禍々しいくらいだった。冷静さを取り戻そうとカナヲは大きく呼吸をした。
「私が斬れと言いました。あなたは悔いる必要はありません」
 冷静さを保て。自分がしたことは取り返しのつかないことだ。しのぶの言葉はカナヲを落ち着かせるための方便で、現実は蒼白な顔で立ち上がったのがやっとのよう。カナヲが闘える体を傷つけてしまった。
「反省は後だ。しっかりしろ」
「……はい」
 返事をすると同時に上弦の弐が持つ扇が攻撃を仕掛けてくる。しのぶを抱えてその場から飛び退き、宇髄が即座に鬼へと向かう。
「私のことは気にしないで! あなたはできることをして!」
 カナヲから離れたしのぶはそのまま部屋を駆け回る。腕を失くしても走ることはできるようだが、動きが鈍い。恐らく周囲にばら撒かれている氷の霧を吸っている。肺を凍てつかせる血鬼術。怪我もしているようだった。
 頑張れ、と楽しそうに扇を振るう上弦の弐がしのぶへと的を絞る。宇髄が型を繰り出して止めようとしたが間に合わない。床を蹴ってしのぶの前に出たカナヲは、見様見真似の水の呼吸の型を繰り出した。
「………!」
「カナヲ!」
「あれ? さっき違う技使ってたよね? 今の見たことあるなあ」
 致命傷は止められても細かな傷から血が滲む。やはりカナヲには扱えない。会得することができたらしのぶも守れたかもしれないのに。
 水の呼吸の拾壱ノ型。義勇だけが使う技。義勇しか使えない技。水の呼吸の剣士に使えないのだから、呼吸の合わないカナヲに容易く扱えるものではない。そんなことはわかっていた。
「きみの技、あの時の二人のものと同じだね。もしかして友達だったのかな? 優しくて可愛かった女の子、食べてあげられなかったんだよなあ。男の子が俺の攻撃防ぐせいで女の子にも粘られて、危うく頸を落とされそうになってねえ。あれは危なかったな、間一髪って感じだったよ」
 背後のしのぶが怒りを纏わせた。
 上弦の弐との戦闘で義勇は初めて重傷を負い、カナエは呼吸を使うことができなくなって隊士を辞めた。明るく振る舞うカナエはずっと笑っていたけれど、今ならわかる。義勇はずっと気にかけていた。人知れずずっと。彼女はきっと辛くて苦しかったはずだ。
「あの男の子が使ってた技とは随分差があるね。それを使ったのはあの子ときみだけだったけど、ひょっとして使いこなせないのかな?」
 削れてしまうのではないかと思うほどカナヲは歯を食いしばり、上弦の弐を睨みつけた。何度も頸を狙う宇髄を躱しながらも余裕があるようにお喋りを続ける。カナヲやしのぶの心を的確に抉るように。
 その時部屋の外を飛び回っていたらしい鎹鴉の戦況を伝える声が響いた。
「炭治郎、義勇、上弦ノ参撃破ァ!」
 カナヲは目を見開いて鴉の言葉を反芻した。
 撃破。上弦の参を撃破した、義勇と炭治郎が。生きている。生きている。
 込み上げる何かに涙腺を刺激されながらも、カナヲは堪えて鬼を睨み続けた。
「猗窩座殿死んじゃった?」
 目を丸くして驚く上弦の弐は、すぐに仕方ないと口にして笑う。女を喰わないから弱かったのだと呟き、それを許していた鬼舞辻無惨に生かされていたと馬鹿にする。涙を流して悲しむふりをする姿が気持ち悪くて仕方なかった。
 広範囲に渡る氷の血鬼術を繰り出した時、宇髄が開けた穴から騒がしく誰かが落ちてきた。
「天空よりいでし伊之助様のお通りじゃああ!」
 面食らった鬼もカナヲも、宇髄もしのぶも唖然とした。

*

「本当に良く頑張るね」
 何度突いて毒を食らわせたかわからない。斬った腕を取り込んだのに、上弦の弐は少しも衰えることがない。人形のような個体を生み出した鬼は、せめて一人は喰っておこうと言ってしのぶへ近づいた。
 量が足りない。しのぶの体を丸ごと喰わせなければ毒は効かない。いや、効くかどうかも定かではない。宇髄もカナヲも氷の血鬼術に食らいついているけれど、戦況は少しも良くならない。
「残念だなあ。毒も効かない、頸も斬れない、小さくて弱い。きみが一番足を引っ張ってるね」
 目の前に降りてきた上弦の弐が嘲笑うように口にした。
 わかってるわよそんなこと。肺を斬られ血鬼術を吸い、ただでさえ劣る体が悲鳴を上げている。喰わせるために近づこうとしても、宇髄も伊之助もしのぶを守ろうとする。死ななければ役に立てないのに、彼らは生きているしのぶを守ろうと命を削る。
 そんなことは最初から、知りたくもないのに思い知っている。隊士を辞めろと誰もが言うくらいしのぶの力は足りないのだ。
 自分の姉は自分で面倒を見ろ。
 できるならそうしています。あなたができるまでやる人なのはわかっているけれど、あなたと同じことができる人がどれだけいるか。同じ柱でも見えない領域を見て、カナヲにも易易と真似しきれない型を作り出した冨岡にはわからないだろう。悔しくて堪らない。
「そろそろ楽にしてあげるからね」
「しのぶ!」
 扇が腹を斬り裂きしのぶは体勢を崩した。伊之助の刀が鬼を狙うと後方に飛び退き、しのぶは一足飛びに頸を狙った。
 下半身に力があるなら。
 毒も効かない、刀も駄目。なりふり構う死に方を目指していたのに皆邪魔をする。そんなに守りたいならお望み通り生きてやります。腕がもげようと足がもげようと、今この場で頸を斬る。振り上げた脚を真横に振り抜き、草履に仕込んだ刀が鬼の頸から血飛沫を上げた。
「わあ、凄いな! そんなに色々仕込まなきゃいけないんだね。可哀想に」
 浅い。一瞬の隙を狙う宇髄が刃を掴んで刀を振る。しのぶの斬った箇所を更に抉るように頸の斬れ目が露呈する。
 蹴り飛ばしてでも頸を飛ばす。もう一度狙ったその瞬間、上弦の鬼は表情を変えて飛び退いた。
「………? 何だこれ」
 着地した場でぐらりと体が傾く。何度も何度も馬鹿にしながら受けたしのぶの毒が回っている。致死量には至っていないが、動きを鈍らせることに成功していた。
「頸を!」
 人形を新たに生み出し更に攻撃を仕掛けてくる。毒を分解する時間を稼ぐつもりか。
 宇髄に三体、伊之助に二体。更に増えた人形がカナヲとしのぶにも向けられる。失血した量はもはやどの程度かもわからない。しのぶは倒れ込んだ。

*

 いずれ使わなければならない時が来る。
 それはいつ? 今がそうなの? 上弦の弐を倒した先にいる鬼舞辻無惨をまだ倒せる? その見極めは自分でして間違いとならない?
 義勇の指示を、上官や蝶屋敷の者たちの指示をずっと聞いてきただけのカナヲは、自らの判断がどれほど正確で間違いがないのかわからない。それなのに、義勇はできるとカナヲに言った。できる時が来ると。
 動きの鈍った上弦の弐は頸を繋げようとしていた。人形の奥、戸に手がかかる。逃げられてしまう。
 死なずに帰ってこい。
 言い聞かせるように口にした義勇の言葉を思い出し、カナヲは花の呼吸、終ノ型を繰り出した。
 正しいのか間違っているのか、そんなことはわからないけれど、今ここで使わなければ上弦の弐を倒せない。今使わなければ後悔する。
 後悔なんて考えたこともないほどカナヲは何もわからなかった。義勇に拾ってもらわなければ、炭治郎や皆に会わなければきっと何もわからないままだった。
 死なせたくない、絶対に。鬼に命を盗られてたまるか。
 目の前が赤く滲んでいく感覚と、周りの動きが遅くなる感覚。鬼の本体の頸へ刃を向けたカナヲの前に、鬼を挟んだ向かいにいつの間にか宇髄の刃があった。吹っ飛んでくる伊之助の刀が援護するように押し込まれる。
 宙に飛んだ頸が周り、やがて落ちて崩れていった。

*

 散々騒いだ後伊之助は母ちゃん、と力無く呟いた。
 野生児である故に母を知らなかった伊之助が初めて知る事実は悲しいものではあったが、沈んでばかりもいられない。
「鬼に喰わせるつもりが大きく予定が狂いました。ありがとうございます」
「命があるならまだいけるだろ、腕一本で済んだんだからな」
 宇髄自身腕を失くしたことがあるが、今回上弦の弐との戦闘でも五体満足で生きている。疲労に失血、更には血鬼術の肺への損傷もこいつらにはあるだろう。気丈に振る舞ってはいるが、恐らくしのぶはもう闘えない。気を失ってもおかしくない怪我だ。
「ごめんなさい……腕を、私が」
「宇髄さんも言ったように、死ぬ予定が腕一本で助かったんです。上弦の鬼に毒は殆ど効かなかった。私が生きているのはあなたが鬼と切り離してくれたから。命を惜しんだのは私です。……大丈夫、あなたはお兄さんとの約束を守ったんですよ」
 不安だったのか、カナヲはしのぶを眺めて困ったような顔をして、俯いた拍子に涙を溢し、しのぶに抱き締められていた。
 任務で迷う素振りはなかったが、どうやら大技を使う機会を図っていたらしい。冨岡が止めたという目の酷使。眼球の毛細血管が切れ出血により赤く染まっていたのだとしのぶは診断した。
「冨岡さんが使うなと言ったのは正解ですね。右目が殆ど見えていないのでしょう? 短時間だから片目で済んだ。次に使えば両目を失明するかもしれない」
「派手で良かったけどな! 冗談だろ」
 軽口を叩いた宇髄を睨みつけたしのぶは、溜息を吐いてカナヲへ振り向いた。
「……だけど、無惨を倒すのにあなたの目が必要になる可能性は充分ある」
「生きてりゃ良いだろ。俺だって片目ねえぞ。お前だって腕ねえし」
「そう割り切るにはまだカナヲさんは若いですから」
 命があるなら何だって良い。闘えなくなった隊士たちを見てきた宇髄は、当初こそもっと上手く立ち回って五体満足で助けられたらとも憤ったが、死を見てきた身としては充分な戦果だ。隊士はまだ誰一人死んでいない。無惨を倒し朝日の中帰ることができたら、闘えないことなどもう瑣末なことだ。それを知るのは宇髄だけだが。
「向こうも俺らが生き残ったことは知っただろうな。一先ずは安心してるところだろ」
 上弦の参を討ち破った冨岡と炭治郎の怪我の具合は気にはなるが、鬼舞辻無惨を目指せば自ずと鉢合うはずだ。カナヲは心配だろうが。
「人間様の手を煩わせるのも今日で最後だ。何があっても終わらせるぞ。嘴平も立てるか? しのぶ、お前は救護にまわれよ」
「できれば私も鬼舞辻無惨の元に向かいたいんですが……足手まといになるのは間違いありませんね」
「お前の毒がねえと弱らせられなかったんだ、戦果はそのくらいで打ち止めにしとけよ。ちなみに聞くけど、仕込み刀にも毒入れてた?」
「当たり前です。宇髄さんに聞いた仕込みですよ」
「いやあ、敵じゃなくて良かったぜ」
 カナヲが伊之助に肩を貸し、泣きながら歩く様子を気にかけながら進む。泣いても笑っても闘いは今日で終わりになる。終わりにするのだ。