柱稽古にて・2

 成程これかと不死川の言伝の意味を理解した冨岡は、だらしなくにやける善逸の顔を見ながら内心で感心していた。
 不死川の扱きを抜けてきたのだから疲れきって余力もなさそうだと思っていたが、悲鳴嶼のところから戻ってきたカナヲを見て善逸はやに下がった顔を見せた。カナヲ自身は普段と変わらぬ笑みを浮かべ、静かに冨岡の隣に立っている。
 女に弱いと炭治郎の手紙に書いてあったし、今回もぶれることなくそうであるらしい。蝶屋敷の病室で見た時はそうでもなかった気がしたのだが。
 隊士の頃から禰豆子に気があったと認識していたが、女性隊士が珍しいのか仲良くしようとしているらしい。まあそれは良い。
 隊士たちが入り乱れる打ち込み稽古の中、冨岡は隙の多い隊士の首を木刀で狙った。一対一で鬼と闘えるわけではない任務において、どこから何が命を狙ってくるかわからない。打ち込み稽古中の隊士の急所を狙う冨岡の木刀を避ける、受ける、切り返す、判断力と注意力を体で覚えるためにと考えられたものだ。戻ってきたカナヲにも隊士の急所を狙うよう言い含めると、華があると嬉しそうにした善逸につられるように隊士の数人がカナヲに目を向けた。まあそのにやけた笑みも容赦をしないカナヲの一撃で一変していたが。
「何だ何だ、乱闘紛いの打ち込み稽古? 不死川かよ」
「一緒にするな」
 不死川の打ち込み稽古は理に適ったものだ。嘔吐して気を失うまで叩きのめすあれは確かに厳しいかもしれないが、休めない戦況で立ち上がるために必要なことでもあるだろう。連れ立ってやってきた宇髄と煉獄が屋敷へと顔を出した。
「狙う側の動体視力も鍛えられそうだ! 俺も参加して良いか?」
「ああ」
「ゲーッ! 危険が三倍に!」
 柱として闘うことは難しいと本人も言っていたが、それでも一般隊士に負けるようなやわな男ではない煉獄は、しかと隊士の急所を狙って扱き始める。冨岡の屋敷で煉獄の稽古が始まった。せっかくなので煉獄とカナヲに隊士を任せ、縁側に腰掛けた宇髄の話を聞くことにした。
「不死川のくせに色気づいた心配してやがったぜ」
「良からぬ考えとかいうやつか」
「おう、まあわからんでもねえがな。隊士の中に女は少ないし、案外派手な顔してやがるから」
 顔の造型の話か。冨岡はあまり考えることはなかったが、こうして見ていると確かに整った顔立ちをしているのだろう。胡蝶姉妹のように華やかさも持っている。隊士が浮き足立つことも理解はしている。
「一にも二にも三にも鬼殺、ってのが多い中、普通の感性は大事だよ。お前みたいな朴念仁がいると不安になるしな」
「俺が朴念仁なのか」
「おお、自覚しろ。どうすんだカナヲに言い寄る奴が現れたら」
 何だか悪口を言われたが、冨岡は宇髄の問いかけに少し眉を顰めて考えた。
 栗花落のその後を知っている身としては、普通に所帯を持って幸せに生きていくのだろうと期待している。だが相手はただ一人、今回もカナヲに良い影響を与えている炭治郎しか考えられない。
「然るべき相手が来るまで面倒は見る」
「そういう責任は持ってんだな。まあお前のとこにいて然るべき相手なんかそうそう見つかるとは思えんけど」
「見つかる。問題ない」
 すでに見つかっているとは言わないが、闘いが終わればカナヲは普通の女性として人生を歩んでいく。少々前回と違ってしまっても、結局カナヲは炭治郎と仲良くなっているのだから問題ない。無事鬼舞辻無惨を討ち倒せば、晴れて穏やかな時を過ごせるのだ。
「これ、どの柱でもそうなってた気もするが。お前、先代すら唸るくらいの剣技を持つ水柱様のそばにいて、まともな男性観になると思うか?」
 首を傾げると宇髄は神妙な顔をして、冨岡の肩を掴み言い含めるように呟いた。
「理想の男像にもしお前が鎮座してたら、並大抵の男は太刀打ちできねえことを理解しろ。カナヲが行き遅れになる可能性だってあるぞ」
 とんでもないことを口にした宇髄を見つめ、冨岡はじわりと不安が滲んで来る気配を感じた。カナヲ自身の強さが相手を選んでしまうかもしれないと思いはしても、炭治郎が仲良くしているのだから問題ないと思っていたのに。
「……俺がカナヲの邪魔をするのか……?」
「お前そんな顔するんだな」
 血の気が引く感覚を抱き、恐らく顔色は悪くなっただろうことを自覚した。
 まあそもそも鬼舞辻無惨をまだ倒していない今そんな仮定は無意味なものではあるが、冨岡は最後の闘いの後を知っている。鬼のいない世が夢物語ではなく手の届く距離に近づいているのだ。何としてでもその先へカナヲたちを連れて行かなければならない。だがその後の穏やかな世になった時の不安を宇髄は指摘してくる。
 理想の男性像というのをカナヲは持っているのだろうか。それは炭治郎でなければならないが、今回はまさか変わってしまうのか。身近な男が理想となるのは良くある話と宇髄は言うが、今回カナヲの兄である冨岡が彼女に一番近い異性なのだろう。
 冨岡は炭治郎とは似ても似つかない。あれほどの男がカナヲの理想とならないわけがないと思うが、そうならない可能性もあるなどと脅すのだ。それは困る。
「……強ければ良いのか」
「え、お前より? 柱しかいねえじゃん。煉獄あたりに頼む?」
「れんご……まあ煉獄は良い男ではあるが」
 煉獄もまた太陽のような男だ。困った、頼んでしまえそうな相手が目の前にいた。いや困る、カナヲは炭治郎と結婚してもらわなければ。まあ冨岡が前回のようになぞってもらいたいだけではあるのだが。
「煉獄良いよな。絶対裏切らねえだろうし」
「……楽しんでるな」
 にやつく口元を隠しもせず宇髄は冨岡へ目を向けながら楽しそうにしている。揶揄われたことを悟り冨岡は溜息を吐いた。
「お前が案外狼狽えたからな。目ぼしい奴目つけてそうな感じだし、意外だわ。小舅かよ」
 小舅だった。そう呟いて一人納得した宇髄が立ち上がり、稽古中の隊士たちへと近寄っていく。
「この際だ、婿殿候補を扱き倒して強くしてやれよ。まあカナヲよりまずはお前かも知んねえけど」
「俺のことはいい」
「はは、妹は妹で心配してるかもよ」
 俺もやる、と口にして隊士を震え上がらせながら、宇髄は随分機嫌良く輪の中に混じっていった。

*

 鬼との共同研究なんて、しのぶの怒りを増幅させるようなものだ。
 鬼は斬るもの、例外は一人だけ。冨岡が何を言おうとそれで充分譲歩している。本人は彼女を殺しさえしなければ何でも良いと思っていそうだが。
 だが本懐を遂げるために必要であると他でもない耀哉が言うのであれば、しのぶは従うことを決めた。ほんの少しだけ静かに考えたくて屋根の上でぼんやりとすることもあるけれど。
「最近はずっと顔色が悪い」
 こうして話しかけられるのは珍しい。いつも誰かから話を振られないと口を開かないというのに、そして注意深くこちらを見ていることにも辟易した。カナエ以外に気づかれていないと思っていたのに。
 もうやってしまったことだからと、カナエは藤の毒について嘆きながらもしのぶのやりたいようにさせることを選んだ。ただ一つお願いと口にして、必ず生きて帰ってきてと泣いた。カナエだってそうだったはずなのに。
 無理よ。何をおいても殺さなければならない鬼がいて、命を捨てる覚悟もない隊士が人を救えるわけがない。帰るために闘うなんて、そんな生半な気持ちで立ち向かえるほど温くはない。
 死ぬな。この男がカナヲに言い含めていた言葉を一度だけ聞いたことがあった。それは誰もが望んでいるはずの言葉で、指示に従うカナヲのために口にしていたものだったのだろう。わかっているけれど、それでも今もしのぶは唇を噛む。
 それができるのは、鬼の頸を斬れる人だからよ。そう喚いて当たってしまいそうだった。
「私の顔色ばかり窺うなんて何かやらかしたんですか?」
 揶揄うように軽口を向けると、しのぶから一人分の距離を開けて冨岡は屋根へと飛び乗った。静かな目が観察するようにしのぶへと向けられるのを感じ、気分は少しも晴れなかった。
「……そういうことばかり気づくんですね。大丈夫ですよ、少しやることが多くて疲れているだけです」
 それだけ。問題ない。事実である。
 鬼と過ごしながら研究を続ける時間に疲れてしまっただけだ。
 わかっている。しのぶ一人の力では一手も二手も足りないこと。毒の研究も鬼の手を借りなければできないことがある。こうして疲れはしても、しのぶはもうあの珠世が凄い人物だと理解していたのだ。そして理性的で信用に足る人物だと。
「仕込みをするのはあなたも助言したことです。だから沢山考えました。何をすれば確実に鬼を殺せるか」
 今回だってそうだ。強力な藤の毒と鬼舞辻無惨を弱らせるための薬。作用すれば確実に鬼舞辻を討ち倒す手助けになる。自分でできることは限界がある。だから皆で力を合わせる。そうして今着々と準備を進めているのだ。
「大丈夫です、私も死にたくはないですから。柱稽古に参加できないのは残念ですけど」
 死にたいわけではないのだ。ただ死ななければ鬼を殺せないのなら、迷うことなく実行する。鬼の頸を斬れない自分が足手まといになるわけにはいかない。どんなことをしても殺しきる。それが命を差し出す結果であろうと。多かれ少なかれ、隊士はそういう気概で闘っている。冨岡とてそうだろう。
「……でも、もし死んでしまったら。姉をよろしくお願いします」
「……何故俺に言う」
「仲が良いですし、姉もあなたを気にかけていますから」
 ようやく言葉を発した冨岡は眉根を寄せ、少々不機嫌そうにも思える空気を醸した。もしもの話をされたのが癪に触ったのだろうが、不快に感じたことくらい口に出してしまっても良いのに。謝る気は更々ないが。
「自分の姉は自分で面倒を見ろ。俺は手一杯だ」
 脳裏に過る彼の妹の姿。手合わせでは幾度も辛酸を嘗めさせられたものだ。静かに的確に急所を狙う正確さ、冷静さ、身体能力の高さ。継子でないことが不思議なくらいの強さを持っていた。
「……カナヲさんが少し羨ましかったんです。充分な身体能力とこれ以上ない師がそばにいて、私が扱えない花の呼吸を使えて、その師はずっと身を案じてくれる。羨ましかった」
「お前には姉がいただろう」
「わかりませんか。……羨ましかったんですよ」
 全てが羨ましかった。自分がカナヲのように闘えたならもっと人を救えたはずで、冨岡とも実入りのある稽古が対等にできたはずで、でもそれは自分には全てないもので。ないものねだりをずっとしてきていた。指示を確実に遂行し、小細工など必要ない身体能力と、それを活かせる環境をずっと羨んでいたのだ。
「……そんなもの、鬼殺の生活の中で必要ない感情ですけどね」
 隣の芝生を妬んだところでどうにもならない。できることをすれば良いと周りは言っていたが、やらなければならないことがある。この自分の小さな体躯で。それがどれだけ難しいかは自分が一番知っているのだ。
「姉をよろしくお願いします。何人も待っている人がいると知っていたら、あなたは無下にはしないでしょう?」
「お前は裏切るのか」
 つい口を噤んだしのぶは睨みつけるように見上げたが、悪びれも狼狽えもせず冨岡はしのぶを見下ろしていた。
 何を知ったようなことを。誰も裏切りたくて裏切るわけではないのに、それを冨岡自身わかっていると思っていたのに。唇を噛み締め、できるだけゆっくりと溜息を吐いた。
「楽観視はしない。駄目な時は死ぬ時で間違いないだろう。だが……生きるという意志が窮地を何度も救うことがある。何でも良いから生きて帰れ」
 怒りに満ちていた感情が歪に歪み、しのぶは泣きそうな表情を晒した。