上弦の陸

 上弦の陸と相対するための戦力を引きずり出すには、前回と同じことをするのが手っ取り早いと考えていた。
 少々申し訳なくはあるが、一応蝶屋敷の周辺に気配があることを確認してから諍いを起こしたのだ。神崎アオイが泣きそうな顔で逃げ出そうとするのも、しのぶに滾々と説教されることも一応甘んじて受ける気はあった。カナヲが前回同様宇髄を引き止めたのも、微笑ましい気分になったりもした。顔には出さなかったが。
 画策したおかげで無事竈門炭治郎たち三名の隊士を見繕うことができたわけである。前回との違いはある程度あることは理解しているが、蕨姫花魁は今回も名を馳せている。今回は女房たちに潜入させる必要もないと判断し、宇髄が隊士を引き連れて遊郭へ向かおうとする今、女房たちには別行動で忍び込ませることを指示していた。上弦の鬼がいることを知っていて女房たちを行かせるのは忍びなかったが、炭治郎たちはまだ階級の低い隊士であり、使う気はないとはいえ神崎アオイのような闘えない隊士すら使おうとした宇髄は、女房たちを危険に晒すくらいはしなければならないとも思っている。情けない話だが、何より彼女たちがいない状態で討伐がうまくいくとは限らなかったからだ。それら全てを守り切るつもりで臨んでいるのだ。
 宇髄にとっての難関はここだ。何としても五体満足で、誰も死なせず上弦の陸の討伐を成功させる。そうでなければ弟を見捨てたことすら意味のなかったものになってしまう気がしたし、贋作などと言い放った煉獄槇寿郎の言葉に言い返せなくなってしまう気がした。
 死なせはしない。贋作だろうと何だろうと、命を救い上げられるなら何だって良い。それは言い換えれば、救えなければ意味のないものであると感じていた。
 一歩間違えば宇髄も槇寿郎のようになっていたかもしれない。宇髄には槇寿郎の気持ちは理解できてしまっていたのだ。
 飲んだくれの耄碌親父になるつもりも、そんなことを誰に言うつもりもなかったが。

*

 宇髄が炭治郎たちを連れて行った後、カナヲはずっとこれで良かったのかと不安だった。
 アオイを抱えて連れて行こうとしたことに、やめてほしいと言えずに固まってしまった。上官が任務のための招集だと言うし、部下であるカナヲはどうして良いのかわからなかった。指示を仰ごうにもその場に義勇はおらず、ふいに思い出した炭治郎の言葉につい宇髄の裾を引っ張った。
 それが良かったのか悪かったのか、カナヲにはわからなかった。ただアオイはほっとしていてカナヲに礼を口にして、なほやすみ、きよはカナヲに抱き着いて泣いていた。代わりに行くと言った炭治郎たちを見送って、カナヲは任務が終わった後も気が気ではなかった。
 大変なことを仕出かしてしまったのではないだろうか。任務のためという上官を引き止めて、アオイが連れて行かれることを拒んだ。不安がずっと押し寄せていて、それが表面にも出ていたのだと思う。
「考え事があるのか」
 滅多と口を開かない義勇が声をかけ、その時に起こったことをカナヲは伝えた。
 宇髄はどこかの任務にアオイを連れて行こうとしていて、嫌がり縋るアオイを連れ去られないよう引き止めた。柱である義勇にも、上官に楯突いたことを怒られるかもしれない。だが話せと言われたことは話さなければならない。顛末を口にした後義勇を見ると、庭を眺めながら一言そうかと呟いた。
「神崎を行かせたくなかったんだな」
「……助けて、と言っていたので」
 心に従えと炭治郎は言った。これが従えたのか、良かったのかはカナヲにはわからず、義勇は隠が淹れた茶を口に運んだ。
「胡蝶が怒っていたのはそれの件だが、あいつが怒る程度には宇髄の行動はやり過ぎている。お前は間違ったわけじゃない」
 宇髄にも何か考えがあったはずだが、と義勇は付け足した。
 安堵したカナヲが大きく息を吐き出していると、こちらを見ていた義勇の目が少し和らいだように見えた。

 救援要請が来たのは一つの任務を終えてすぐだった。
 任務先に赴くと珍しく同じ指令だったらしい義勇がいて、従うようについて回っていた。早々に頸を斬って灰になる様子を眺めていた時、派手な飾りをつけた鴉が上弦の陸との戦闘への救援を叫び、義勇の鎹鴉が指令を脚に括り付けやってきた。少し驚いた義勇はそれでもすぐにいつもの冷静さに戻り、カナヲへと向き直って問いかけた。
「宇髄の鎹鴉だ。行けるな」
 場所は遊郭。義勇に別の司令が届いた今、救援要請を受けて向かうのはカナヲだ。義勇の代わりをカナヲが務める。
「はい」
「死ぬなよ。それから死なせるな」
 指令を受けた義勇が背中を向けて駆けていく。一時カナヲはその背中を引き止めたくて仕方なかった。今だってそうだ。だが彼はきっと戻ってくる。義勇がカナヲを送り出したのだから、自分も応えなければならない。派手な鎹鴉の後を追ってカナヲは走り出した。
 遊郭が見えた頃、鴉はカナヲに真っ直ぐと伝えてまた反対側へと飛び立った。救援に応えてくれる柱を探すために向かったのだろう。早々に義勇を見つけたは良いが、彼は別の指令を受けてしまった。
 一般隊士であるカナヲと柱では戦力が違う。義勇も眉根を寄せてカナヲに顔を向けていた。もう階級は乙まで上がっているけれど、それでもまだ不安になるのだろう。
 見渡せるよう屋根の上を走っていると、女性が誰かに捕まっているのが見えた。
 顔を掴んで力を込めているのが見え、女性の顔を握り潰すつもりだと勘付いた。人に仇なす鬼。あれは斬るものだ。誰かのやめろと叫ぶ声が聞こえた。
 水の呼吸、肆ノ型、打ち潮。即座に技を出す時、カナヲは水の呼吸を多く使っていた。花の呼吸よりも馴染みが深く、カナヲにとっては花より威力が劣ろうと力量を測る最初の攻撃として良い。それはカナヲがそう思っているだけだが、任務地での判断で技を選んで出すのだから、どれが正解というのはない。そう聞いている。見えている動きから攻撃を避けて反撃するために技を出す。それだけだった。
 鬼の腕を斬り落とし、女性を抱えてその場を離れて着地した。炭治郎が闘っているのならそれは悪鬼で間違いない。
「カナヲか、ありがとよぉ!」
 屋根へと飛んだ宇髄が感謝をカナヲへと向ける。背中側から頸へ刃を向ける宇髄に合わせるように、カナヲも刀を鬼へと向けた。
「お前らが俺の頸斬るなんて、無理な話なんだよなあ」
 双方から向けた刃を止めた鬼に宇髄が更に項を狙った。だがそれも頸を回転させて止められ、鬼は血を武器にして操り始める。
「血の斬撃だ、避けろ! 毒が、」
 宇髄が鬼に飛びかかり斬撃を避けさせようとしたが、それはカナヲへ向かってきた。咄嗟に刀を構え、カナヲはそばに倒れる女性を庇った。致命傷になるようなものは刃を向けて止めたものの、細かい傷がそこかしこにできている。
 水の呼吸の拾壱ノ型。義勇が編み出した凪を使えれば、誰かを背に守りながら闘えるのだろう。だがカナヲは型を見て原理を知ることができていても、凪を扱えるようにはなっていない。
 間合いに入る全てを凪いでいくなど到底できない。どれだけ頑張っても全てを斬り伏せるなどできず、カナヲにはただ見えているだけだった。
 これが適正ではない故の不可能なのか、カナヲにはわからない。
 宇髄が鬼を抱えて屋根から離れ、女性は身を隠すと言ってカナヲから離れた。安全を確保する隙もなく、今にも倒れそうな炭治郎の手当ができる状況ではない。カナヲは先に鬼を斬らなければならないと宇髄を追った。
 炭治郎があの怪我でももう一体の鬼を追うのを見届け、宇髄が鬼の頸を狙う隙をついて花の呼吸の肆ノ型を繰り出した。血の鎌がカナヲへ襲いかかってくる。既のところで避けたのに、腕から血が勢いをつけて弾き出る。もっと速く避けなければ、もっと見極めて鬼を斬らなければ。
 死ぬな。死なせるな。
 人に仇なす鬼を斬る。死なない、殺させない。大事なことだと義勇は言っていた。言っていたのに。
 血の鎌を目の前に目が眩む。大した怪我を負っていないはずなのに、これが毒を食らった代償なのだろう。殴られなくても避けていても攻撃はカナヲを斬りつけ、呼吸を使って巡りを遅くさせても毒が体を蝕んでいた。目の前の鬼を斬らなければ、炭治郎たちがもう一体の頸を斬ろうとしているのに。
 いずれ使わなければならない時が来る。
 それは今だったのだろうか。迷う時点で、カナヲに見極めができるとは思えなかった。今使ったとしても毒に蝕まれた体ではどうしようもない。
 血の鎌がもう一度目の前で展開される。見えているのに体が動かない。死なずに帰らなければいけないのに。カナヲは失敗してしまったのだと悟った。

「何だ、お前まだ生きてんのか。運の良い奴だなあ」
 ふと聞こえた声にカナヲは意識を戻した。視界の先に刀が転がっていて、動こうとしても体が思うように動かない。毒を食らい血を流し過ぎたのだと思い出し、視線だけを動かして声の主を探した。
 そこにいたのは血鎌の鬼と倒れていた炭治郎。鬼の言葉通りならば嘴平伊之助は心臓を一突きにされ、我妻善逸は瓦礫に埋まって抜け出せない。カナヲを指した鬼は毒を食らって瀕死だと状況を口にした。
 そう、毒の鍛錬はしたことがない。子供の頃にも受けたことがなかった。見える暴力や刃物は避ければどうにでもなったけれど、辛うじて避けた攻撃が更に見えない攻撃を仕掛けてくる。少しでも当たれば終い。それがカナヲの失敗した理由だ。
 宇髄は忠告してくれていた。避けろと言っていたのだ。斬撃だけではない毒があると。避けたら後ろの女性が毒に晒されることになっただろうから、カナヲはそれだけは失敗していないと考えた。
 話を続ける炭治郎たちの様子を伺いながら、一撃だけでも振り絞れるよう呼吸を整える。表が出るまで硬貨を投げようと思っていた、なんて言っていた炭治郎が諦めたとは思えなかった。だからカナヲも死なせないために、生きて帰るために動こうとした。
 鬼の背後に立つ影を、カナヲはたった今認識した。
「は? ……てめえ、いつの間に、」
 視界に入っていたはずなのに、カナヲは気づくのに一拍かかった。炭治郎が頭突きを食らわせたと同時に宇髄の刀が振るわれる。背後に立っていた宇髄に今の今まで気づかなかったらしい鬼は、驚愕したように目を見開いていた。
 宇髄の動きはまるで無であるかのような、カナヲの目にも認識しきれず殺気も気配も持ち合わせていないようだった。
 宇髄は男鬼の頸を斬り落とすと確信した。ならば女鬼を斬らなければ終わらない。
 炭治郎が立ち上がって頸を斬ろうとした時、瓦礫から飛び出した善逸が女鬼の頸へ斬りかかった。今動かなければ頸が斬れない。血鎌が襲い炭治郎は弾き飛ばされたが、気配のない宇髄がそのまま頸に刀をめり込ませていく。あれは宇髄が必ず斬る。カナヲは動かない体を無理やり動かした。
 飛び出した善逸の援護をするために、死にかけのはずの伊之助が女鬼の動きを止めるために帯の攻撃を斬り裂いた。善逸の振るう刃の反対から頸を斬るためにカナヲは力を振り絞り振り抜いた。二つの鬼の頸が宙を舞う。重力に沿って落ちてくる頸はごろりと地面に転がった。

「……成程、ふうん。陸とはいえ上弦を倒したというのは実にめでたい」
「あー、ありがとよ」
 面倒そうに呟く宇髄を見下ろしながら、柱の一人である伊黒が褒めてやっても良いと口にした。
 文字通り死屍累々というのはこのことなのだろうとぼんやりと考え、カナヲはちらりと毒を消してくれた禰豆子のことを考えた。
 人を助けてくれる鬼。義勇は禰豆子のことをいつから知っていたのだろうか。兄を庇い二年間眠り続け、こうして鬼殺隊とともに救助をしてくれる。そんな鬼がいることをカナヲは知らなかった。カナエもしのぶも知らなかったと言っていた。
 カナヲに見えないものが義勇に見えている。何が見えているのか聞いたら教えてくれるだろうか。ぼんやりと考えながらカナヲは宇髄と伊黒のやり取りを聞いていた。
「カナヲも良く頑張ったな。お前がいたおかげで俺の腕無事だし。ああ、神崎の件は悪かったな」
 救援に良く応えてくれたと宇髄が笑う。毒が消えたおかげでましにはなったけれど、宇髄も満身創痍なのに嬉しそうだった。
「水柱様が来られるはずでしたが、指令が来てしまい」
「あー、まあ良いよ、凄え助かったし。お前もう二つの呼吸極めたら良いだろ。前見た時より精度上がってんじゃねえか、水の呼吸」
「………? もしや冨岡の妹か?」
「おう、カナヲな。手本が冨岡だからか知らねえが、随分な技使うぜ」
「ほう、若手の中ではそれなりということか。それより貴様、どうするつもりだ片目を潰されて。上弦はまだ何体もいるんだぞ」
 腕は無事だと宇髄は笑ったが、血鎌の鬼の攻撃で宇髄は左目を傷つけられ見えなくなっていた。復帰までどれほどかかるのかと伊黒が問い詰める。
「どれだけかかろうが戻るよ、失くしたのは片目だけだ。五体満足で辞めようとも思わねえ。俺はまだ闘える」
「ふん、そうか。片目が無かろうといないより良い。ただでさえ若手は死に過ぎるからな」
「いいや、若手は育ってるぜ確実に。お前の大嫌いな若手がな」
 カナヲの肩を叩きながら宇髄は同意を求めるように笑みを向けた。固まった伊黒はしばし動きを見せず、やがて驚愕したように声を絞り出した。
「……おい、まさか、生き残ったのか? この闘いで」
 竈門炭治郎が。
 そう呟いた声は、瓦礫だらけの遊郭の中に消えていった。

*

「労って差し上げたいんですけどその前に。一応言い訳を聞いておきましょうか」
「連れてく気なんかなかったって。神崎が闘えねえのは知ってたし」
 派手な風体のこの男が、常軌を逸した行動を取るのは実は珍しい。今までアオイに無体を働いたこともなかったし、今回が妙な行動だったことは理解していたわけなのだが。
 それでもしのぶの許可も得ず勝手に任務に連れて行こうとするのは許し難い所業だ。何やら宇髄には思惑があったらしいが。
「遊郭に連れていける隊士を探してたんだよ。ちょうど近くにあいつらがいたし、実力共々どう出るか気になったんでな」
「炭治郎くんですか」
「ああ、冨岡が引き入れた奴の監視も兼ねてってところだ」
 鬼を連れた隊士がどんなものかを見極めるためか。まあ確かに、柱としては気になるところだろう。宇髄が目を覚ました時アオイには謝ったと言うのだからとりあえずは納得した。
「全く、説明もなしに下級隊士に妙なことをしないでください。あなたのことは尊敬してるんです。毒の助言も体術も、私一人では上手くできなかったでしょうし」
「そうか? ありがとよ。俺もお前のことは尊敬してるよ」
 こうして憚らずしのぶを尊敬すると口にしてくれる宇髄はしのぶにとっても有難く、理解してくれる師であり、いたこともない兄のような存在だ。今まで隊士からどれほど邪魔者扱いされてきたか、宇髄は知らないだろうと思うのに。
「……あなたの奥方たちは幸せ者ですね」
「だろ? 四人目の嫁になりたいってんなら面倒見てやるぜ」
「はあ。そういうのは結構です」
 軽口とはいえ宇髄の嫁になる気はしのぶにはない。いくら尊敬していようと三人も嫁のいる男に嫁ぐ気は、鬼殺隊に身を置いておらずとも更々ない。そもそも色恋に興味など持つ暇はないのだ。
「結婚に興味ありませんし」
「今はそうだろうが、やることが終わったら少しは考えても良いだろ」
「終わったら、ですか? 終わることなんてないでしょうに」
「さあな。鬼の娘を引き入れるなんてことが鬼殺隊の歴史の中でも異質なのは確かだ。何かが起こる前触れかもしんねえだろ」
 何かの前触れか。確かに人は鬼に殺され続け、鬼殺隊は鬼を斬っていくだけだった。上弦の鬼を倒すくらいの変化が起きていることは間違いない。それが禰豆子を引き入れたことが原因であるかもしれない。炭治郎も鬼舞辻無惨と遭遇していたのだ、何か変わろうとしているのかもしれないが。
 時折宇髄は何かしのぶには見えないものを見ているような素振りを見せる。この男が何を見ているのか、同じく柱となった今も察しきれないものがあった。
「まあ、もしもの話でしたら。それでもやっぱり宇髄さんには嫁ぎたくないですね」
「何でだよ。こんな色男が他にいるか? お前の目は節穴だな」
「何でちょっと乗り気なんですか……三人も奥方のいる人なんて私は嫌です」
 一夫一妻で充分。考えたことのなかった結婚というものに今初めて思考を巡らせたが、やはりしのぶは一人を大事にしてくれる人が良い。両親がそうだったから、カナエもきっとそうだろう。ふいに脳裏に過ぎったのはカナエと片身替りの羽織の同僚が、客間で二人話している後ろ姿だった。
「ははは。お前なら派手に一妻多夫でもいけそうだけどな」
「嫌ですよ、全く」
 誤魔化されたような気はしないでもないが、宇髄の目論見はとりあえず成功して彼ら三人を任務に連れていけたし、無事とはいえないがきちんと帰ってきてくれた。あのまま誰かが死んでいたらアオイも悔みきれなかったところだろう。
 全く、どいつもこいつも。好き勝手なことばかりして皆を困らせるのだ。冨岡といい宇髄といい。
 それでも冨岡は上弦の弐を退け、宇髄は隊士たちと共に上弦の陸を打ち倒した。誰かを守り帰ってきてくれたのだから、宇髄はアオイに謝ってくれたのだから、一先ずはそれで矛を収めることにした。