上弦の参
「遅かったんだよォ。来た時にはもう殆ど終わってた」
駆けつけた時目に入ったのは片目を潰され腹に拳がめり込んだ煉獄。強い力が腹をぶち破ると気づき不死川は自身の腕を斬りつけ、相手の鬼の腕を斬り離した。血を吐いた煉獄の腹は辛うじて風穴が空いたわけではなかったようだが、どうやら内臓はやられたらしい。
上弦の参。体術のようなものを使う鬼だ。前回冨岡はこの鬼が頸を斬ってもしばらく消えなかったと言っていたが、不死川の稀血でふらつき始めた鬼は夜明けを気にして逃げ出そうとした。ここで殺せば無限城にこいつはいなくなる。一足飛びで近づいた背中に向かって刀を振り下ろすと、酩酊しているにも関わらず間一髪で避けられた。舌打ちをしてもう一度型を繰り出そうとした時、地面を踏み鳴らした鬼の足下から羅針のようなものが出て一瞬意識を向けてしまい、その場から飛び上がって木の中へと消える鬼を斬り損ねた。不死川の影が地面に映る。夜明けだった。
「待てやゴラァァ!」
鼬の最後っ屁、窮鼠猫を噛む。それは鬼に狙われた人間側の反撃でもあった。だが不死川は逃げていく後ろ姿を追い詰めるために走りながら、木陰に隠れて走る鬼へ飛び込んだ。早く逃げたいのだろうに、不死川の技を紙一重で避けていく。頸を斬り落とすには踏み込みが足りず、半分斬れてもすぐに繋ぎ合わせてしまう。
こいつを殺せば上弦の壱との戦闘に人数が割ける。そいつは良い。冨岡一人でもいれば玄弥の生きる確率も上がるし、時透も動きに幅が出るはずだ。不死川は刺し違えてでも殺させないつもりがあるが。
「がっ……!」
ひと際大きな木の近く、立ち止まった鬼が足を踏み鳴らしたと思った瞬間、不死川は拳の連撃を体で受け血を吐いた。崩れかけた体勢を瞬時に戻して刀を振るう。もう少し時間があれば存分にやり合えたのに。聞く気などなかった鬼が言葉を発していた。木陰のせいで余裕が少し戻ったらしい。死ね。
律儀に挨拶をして去ろうとする鬼を、不死川は逃がすつもりなど更々ない。もっとこいつを追い詰めて、陽の下に引きずり出すのが早いか、頸を斬るのが早いか。考えるより先に体は動いていた。己に静けさなどないと自分ですら知っているのに、その時ばかりは何故か自然と同化したような感覚を抱いた。
「至高の領域に近い者がもう一人か、素晴らしいが……遅かったな、またやり合おう。名を聞いておきたいが仕方ない。さらば」
「聞かれても誰が言うか、殺す……」
何かが見えそうな感覚と同時に不死川の体が吹き飛ばされた。稀血にふらついていたくせに、不死川から逃げることを第一に考えてでもいたか。木陰の下から見えなくなった後ろ姿に歯噛みして、不死川は燻る怒りを発散させるかのように腹の底から叫び声を上げた。
「っくそがァァ! あそこで仕留め損ねるとか何やってんだァ!」
隠に運ばれていく煉獄と三人の隊士たちを見送ろうとしたが、不死川も無理やり担架へ乗せられ蝶屋敷へと向かった。
「犠牲者ゼロとはさすが煉獄だな。お前が来たおかげで煉獄も死なずに済んだし、最善ではないかもしれねえが充分だよ。冨岡ん時もそうだったろ」
煉獄を死なせずに蝶屋敷へ向かわせることができたのは判断として間違っていなかった。もっと深追いすることで上弦の参を討ち取れた可能性は否定できないが、不死川はしくじり取り逃がした。冨岡は上弦の弐と充分やり合ったし傷も深かった。自分はまだ余力があったはずだ。吹き飛ばされてさえいなければ絶対に殺していたのに。
「煉獄が生きてるなら良いよ。柱として復帰は難しいかもしれねえらしいが。お前も良くそんな怪我で収められたもんだ」
「……そうかよ。大してやり合ってねェからな」
打撃の重みで内臓が潰れているらしい。やはり前回死んだ奴は今回も違う形で鬼殺隊から離れるのだろう。命があるならと思うがやりきれない。
冨岡の弟弟子、竈門炭治郎は地べたに這いつくばって泣いていた。まだ弱いだけの野郎じゃねェか。さっさと強くなれよと不機嫌さを隠しもせず不死川は舌打ちをした。
不死川は竈門炭治郎に対して悪い感情はもう持っていない。だがあの柱合裁判で、柱は皆あいつらに憤っていた。自分がその筆頭だったのだから良くわかる。あの場ですぐに証拠が出せなければ、あの妹の頸などすぐに飛んでいた。
ここで証拠が出せなければ柱は納得しない。だから不死川は率先して箱に刀を突き刺し稀血を浴びさせ本性を晒すよう仕向けた。さっさと顔を背けろと考えながら。
竈門炭治郎は鼻が利くらしい。それも警戒して不死川は怒りだけを考えるようにしていた。おかげで何とか凌いだが、やはりこんなことは兄弟子様本人がやるべきではないかと後から考え舌打ちをしていたのだ。
まあとにかく、現時点で常中はできていてもてんで弱い竈門炭治郎は全く戦力にはならない。いつになったら強くなるのか、もう冨岡が継子にして扱いてやれば良いのでは、とぼんやり考えていた。
「よお、冨岡。お前の弟弟子も生きてるぜ」
「そうか」
不安など感じていないような愛想のない顔が現れ、不死川は頬杖をついた。別室で眠る煉獄の様子はカナエから聞いたらしく、不死川も運ばれたことを聞いてこちらへと足を向けたらしい。
「上弦の参か」
「おォ、体術を使う鬼だァ。俺が来た時はもう夜明けだったし結局逃がしちまったが」
「妙な感覚にならなかったか?」
言葉足らずの質問に不死川は訝しんで片眉を上げた。首を傾げた宇髄が質問の意図を問いかけた。
「皮膚の下が透けて相手の動きが見えてくる感覚」
「……皮膚の下ってのは、内臓ってことか?」
「骨格、筋肉、血管、内臓。自分も透明になるような感覚だ」
何それ。いや待てよとしばし考えた不死川は、吹き飛ばされる直前確かに不可思議な感覚を受けたことを思い出した。
透明。相手の動きを見通して先読みできる。上弦の弐は冨岡を認識できていない瞬間があった。殺気が消えていたのかもしれない。それまでに負っていた怪我で集中が途切れたか見えなくなってしまい頸を斬り落とすには至らなかったという。
見え続けていたら倒しきれた可能性もあるのだろうか。
あの自然と同化するかのような感覚がそれなのか。不死川が見ようとしていたら、この全身迸る殺気が消えるというのか。宇髄が険しい表情を不死川へ向け、見えたのかと一言呟いた。そのような感覚に近いものを感じたとだけ口にしておいた。
「……それはあれか。心身極めた者が辿り着くっていう領域」
「てめェの訳わからん立ち回りはそれかァ?」
「……たまに?」
戦闘中の極限まで集中した状態で、頭が無になったような感覚を抱いた時透けて見えたのだという。それが上弦の弐との戦闘から見え始め、上弦の鬼との戦闘が冨岡以降なかったから聞くに聞けなかったということだろうか。疑問符をつけるな、たまにの詳しい頻度はどの程度なのか。言いたいことはあるがとりあえずまあ良い。
「煉獄が見たかどうかだな。不死川はその領域に足を踏み入れたってわけか」
はっきり踏み入れたとはいえないだろう。冨岡が言うには体の下が透けて見えるのだから、不死川が感じたものより更に先がある。強者との命の取り合いがその境地を見せてくれるということか。日々の鍛錬でどこまで見えるようになるかは疑問だが、見なければ強くなれないのなら不死川は見ると決めた。あの上弦の参を殺せるまでやり合っていればもっとはっきり会得できたかもしれないが、まあ仕方ない。
「透けて見える、ね。便宜上透き通る世界とでも呼んどくか。極めた先にある境地ってことはまあわかった」
前回不死川は痣しか出せなかった。その領域に踏み込めたのが誰かいたのかはわからないが、……いや、そういえば。
あの上弦の壱との戦闘で、悲鳴嶼は何か見えていたのではなかったか。
現時点では恐らく見えていないような気がするが、その透き通る世界とやらに踏み込める者は柱の中にいる。冨岡が前回これを見ていたかは知らない。こうしてたまにでも透けて見ているという今回の立ち回りをする冨岡は恐らく、いや間違いなく前回よりも強くなっているしやばいものだ。無性に腹が立つ。まあとにかく、前回でも見た者はいるはずだ。
「起きたら煉獄に聞くのが良いか。上弦の参の話聞くついでに竈門炭治郎に聞いてこいよ」
最後の闘いで見た可能性はあるかもしれないが、現時点であれは少しの戦力にもなりはしないのに聞くのか。まあ今以上の鍛錬を積んで見える可能性を上げることはできるだろうが。
目を丸くした冨岡に宇髄が首を傾げる。ついでに見舞って来たのではないのかと問いかけると、どうやらあの裁判から顔を見ていないのだそうだ。蝶屋敷に来るのも久しぶりらしい。
「冷てえ奴。いつ腹切るかわかんねえんだから見とけよな。あの世で見る気かよ」
「成長はしてるようだ」
「端から見てねえで話してやれよ」
恐らくカナエやしのぶからも話は聞いていたのだろうが他人行儀である。鬼殺隊に関わらせたくなかった不死川は前回は玄弥に他人のように振る舞ったが、こいつは手ずから育手の元へ行かせ鬼殺隊に入るよう促していた。それなのにこれは何なのだ。少しの取りつく島はあってもやはり中身は変わらない奴だ。
「まだ起きてない」
「ふうん。なら仕方ねえけど、一回くらい見舞ってやれよ」
眉根を寄せた冨岡が額を押さえた。部屋の外に感じていたこの気配、さてはカナヲか。少し考えた後あ、と口を覆った宇髄は申し訳なさそうに顔を歪めた。
継子ではない、弟子ではない。妹であるというカナヲ相手に、冨岡が切腹を懸けていることを伝えることはないと言っていた。こいつならばその辺りも言わなさそうだと思ってはいたが、こんなところでばれるとは。まあ宇髄だけが悪いわけではないとは思うが。
話してこいよ、とでもいうように宇髄は扉へ顔を向けた冨岡の背中を押し、椅子から立ち上がらせて見送った。予想通り廊下には立ち尽くしたカナヲが冷や汗をかいていて、腹を切るなどという言葉に混乱しているのだろうことが窺えた。
そのまま扉は閉められ、冨岡はカナヲとともにどこかへ行ったようだった。
「言葉足らずもここまで来ると害悪だよ。家族にしたんだから言えっての。お前もだぞ」
「うるせェな」
生来世話焼きな性質なのだろうが、今回において宇髄も案外丸くなっている。鬼殺のためなら女子供であろうと隊士ならば容赦なく使うし怒るし扱きもする。死なせたくないのは変わらないが、今回は目に見えて優しいような。
何が原因の違いかはわからないが、現状不死川が害を被るようなものではない。冨岡も違うのだから大したことではなかった。鬼舞辻無惨に届く力とその先を見ることができるのなら別に。
*
人を襲う鬼だったか。いいえ。なら俺は腹を切る必要がない。ふいに聞こえた会話に気づいた時、善逸は顔を上げた。
腹を切るとか穏やかじゃない。どこで誰がしている会話だろうかと考え、いいえと答えた鈴の鳴るような声に聞き覚えがあった。
この声は蝶屋敷の手伝いをしているという、機能回復訓練にも参加してくれた冨岡カナヲだ。可愛らしい声に善逸の頬は自然と緩む。
さて、話し相手は誰だろう。盗み聞きをしたくてするわけではないが、耳に入って来るし内容を聞いてしまうのだ。あの子が休憩している時は大抵縁側にいたから、今も縁側で話をしているのかもしれない。口を開くところをあまり見なかったので、誰かと話していることも少し意外なのだが。
静かな声だ。落ち着いていて穏やかで、冷たくも思える沈んだ声。それが善逸の知る名を呼んだことについ集中して聞き入ってしまった。
禰豆子が人を襲わなければ、俺も責任を取る必要がない。
そこまで聞いて善逸は思い当たった。嬉しいし悲しいと思い出しながら教えてくれた柱合裁判での内容。柱の一人である炭治郎の兄弟子と育手が、炭治郎と禰豆子のために命を懸けてくれている。申し訳ない、嬉しい。何があっても禰豆子を人殺しにはしないと誓ったと言った時のことだ。他人のために命を懸ける人がいるんだ。その時善逸は信じられないような気分でそれを聞いていた。
機能回復訓練で会ったカナヲがその兄弟子の妹だと聞いた時、炭治郎はとんでもない音を出していたのだが。
炭治郎はお前に良い影響を与えているようだ。彼女の顔を見てわかることがあったのだろう。善逸の耳もカナヲから以前とは違う音を拾っていた。あれは人を裏切らない。俺は信じる。そこまで言えるものを炭治郎は見せたのだろう。家族のいない善逸にはわからないが、それでも兄が誰かの責任で腹を切るというのは、妹にとってどんな気持ちになるだろうか。炭治郎と禰豆子のことは善逸だって信じているけれど、どうしようもなくやりきれない気分にならないだろうか。
廊下を歩いた客間の先の縁側をそっと覗くとカナヲの後ろ姿と、その隣には半々の柄の羽織が見える。
あれが水柱だろうか。ちらりとこちらへ目を向けたものの、肩を震わせた善逸には何も言わず視線を戻した。
安定したように一貫している静かな音。波打つこともなさそうな、穏やかで水の底にいるような気分になる。こんなに静かな音の人を初めて見た。
信じる。信じるかあ。良いな。
炭治郎は皆に信頼されて優しくしてもらえる。本人が見返りなど必要とせず人に優しくできるから皆絆されて好意を持つ。善逸にはない人徳だ。それが柱にも通用するのが凄い。兄弟子か。
羨ましいな。寂しくなったけれど、善逸は素直にそう考えた。