機能回復訓練にて

「冨岡?」
「え? ええ、あなた方の機能回復訓練、薬湯訓練を手伝ってくださいます。冨岡カナヲさんです」
 聞き覚えのある名字は珍しいものではないけれど、炭治郎にとって恩のある人物の名字と同じものだ。アオイの言葉に驚いた炭治郎を不思議そうに善逸と伊之助が眺めていた。
「ええと、柱の冨岡さんと同じ名字なんですね」
「そうですね。彼女は水柱様の妹さんです」
「ええっ!?」
 驚愕してつい大声を上げた炭治郎に構いもせず、カナヲは薬湯の乗る卓の前から笑みを見せたまままんじりともしなかった。代わりにアオイと幼い三人の少女がびくりと肩を震わせる。
「す、すみません。冨岡さんには俺恩があって……」
 禰豆子を見逃して育手の元へと手引きしてくれた。禰豆子が人を襲った時自分の命を懸けてくれた。鬼殺隊に入り現状を知ると返しきれないほどの恩があることに気づいたのだ。
 彼女は知っているのだろうか。自分の兄が他人である炭治郎と禰豆子のために命を懸けていることを。知っていたとしたら、もしものことがあればカナヲには申し訳が立たない。
「きちんとお礼ができていないんです。言葉では伝えきれないくらいの恩があるけど、ちゃんと言いたい。でも柱は忙しいと聞いてるので」
「カナヲは手の空いている時は蝶屋敷の手伝いをしてくれています。カナエ様やしのぶ様とも仲が良いので、たまに水柱様もいらっしゃいますよ」
「えっ! そうなんですか!? じゃあ来られたら教えてもらうことはできますか!?」
「水柱様に窺うのは構いませんが……主にカナエ様たちとの用がありますので、時間が取れるかは」
 時間を取ってもらうのは炭治郎がすることだ。それだけでも良いとアオイに約束を取り付け頭を下げ、炭治郎は訓練へと意欲を出した。
 しのぶが申し出てくれたことで炭治郎たちは蝶屋敷で療養することとなり、今は治療後の機能回復訓練に挑んでいる。
「冨岡さんて?」
「鬼殺隊の水柱、冨岡義勇様ですよ。ここに来る時はいつも私たちにもお菓子をくれるんです」
 蝶屋敷の主人は必要ないといつも断っているのだが、貰う菓子が美味しいからと三人の少女は嬉しそうだった。静かで喋らないけど優しい。カナヲは彼に良く似ているのだそうだ。
 歳も炭治郎とそう変わらないカナヲは冨岡の元で鍛錬を積み、炭治郎たちより二年早く鬼殺隊へと入ったらしい。
 その経験の差は大きい。アオイとの鬼ごっこや薬湯訓練は勝てても、何度挑戦しても炭治郎たちは一度としてカナヲに勝てなかった。
 早々に訓練を放棄した善逸と伊之助を一先ず置いておいて只管負け続ける炭治郎を見兼ねたらしい三人の少女は、蝶屋敷の主人であるカナエに聞いたことがあるという話を教えてくれた。
 四六時中呼吸を駆使し、常中を身に着けることで基礎体力を向上させる技。
 カナヲはすでに常中を身に着けていて、蝶屋敷にある大きな瓢箪を破裂させたことがあるらしい。更には水と花、二種類の呼吸を使うとも。能力の違いに炭治郎は目眩がしたくらいだった。
 結局頑張ることしかできない炭治郎は地道に訓練を続け、何週間もかかったものの何とか常中を会得することができたのだ。
「良かったわねえ、しのぶも褒めてたわ。炭治郎くんが強くなるのは私も嬉しいし」
 診察を受け完治の太鼓判を押され、刀も何とか手に入った炭治郎はようやく任務へと復帰することができる。
 診察ついでにヒノカミ神楽の話を聞いてみると、カナエは困ったように知らないと口にしながらも煉獄に聞くと良いと助言をくれた。
「煉獄くんは由緒ある鬼狩りの跡取りだから、私たちが知らないことも知ってるかもね。手紙を送っておくから話を聞くと良いわ」
「煉獄さん。ありがとうごさいます、カナエさん。お世話になりました!」
「いいえ。頑張ってね」
「はい、頑張ります! あ、そうだ。冨岡さんは次にいつ来られるかはわからないですよね」
 炭治郎が訓練に明け暮れていた期間、冨岡は一度も来ていないとアオイから聞いている。頻繁ではない上忙しい身の上だから仕方ないこともわかっているのだが、やはり顔を見て礼が言いたかった。
「そうね。冨岡くんも任務があるし、カナヲちゃんが来ない時は一緒にいるんだと思うけど。お礼が言いたいんだったわね」
 ふいにカナエから悲しみの匂いが薄っすらと感じられた。笑みを見せてはいるが寂しさのような匂いもする。何か失言をしたかと炭治郎は気になった。
「あの、どうしました? 何だかカナエさんから、悲しんでるような匂いがして。俺何か言ってしまったとかですか」
「……ううん、何でも。あなたたちがいなくなって寂しくなるなあって思って」
 ほんの少しだけ嘘の匂いが入り混じる。事実と少しだけの方便を混ぜた時に匂うその感情が、真実を隠しているような気がして炭治郎は眉尻を下げた。
 聞かないほうが良いのかもしれないが、気になってしまうと黙っていられなくなる。どうしようかと逡巡しながら顔を覗き込むと、カナエは困ったように笑いながら口を開いた。
「あなたたちがいて私は嬉しいのよ。鬼と仲良くなるのが私の夢だったから」
「そうなんですか?」
「ええ。……どこにもそんな鬼はいなかった。私は見たことがなかったの。でもあなたたちがいたから。……二人とも死んでは駄目よ」
 炭治郎も禰豆子も。カナエの言葉に炭治郎はしのぶの話を思い出した。夜に瞑想していた時に話しかけられた時のこと。あの時しのぶは怒っていた。怒りながらも炭治郎に期待していると言ってくれた。
「……しのぶさんからも言われました。禰豆子に人を襲わせるなと」
 きみには酷な話かもしれませんが。そう前置きして口にしたのは鬼殺隊の現実を直視したものだったのだろう。
 炭治郎と禰豆子のために二人の命が懸けられている。柱である冨岡がいなくなるだけで、鬼殺隊として戦力に大打撃を被る。一般隊士以上に闘える柱が一人減るだけで鬼との戦局は一気に不利になる。禰豆子が一度でも我を忘れ人を襲ってしまったら、襲われた者、腹を切る三人、そして柱は必ず禰豆子の頸を斬る。少なくとも五人の命が一気に消えてしまう。炭治郎に懸かっているのは柱と育手の命だけではない。それを肝に銘じておくようにと。
「……冨岡くんは古株なの。宇髄さんと同時期に柱になって、悲鳴嶼さんの次に長く務めている。今いる柱の半分は何年も顔ぶれが変わらない。これがどういうことかわかる?」
「……それだけ長く生き残れる強い人たちということですか?」
「ええ。鬼舞辻無惨を討つために必要な人たち。鬼殺隊の歴史の中でも特に強いといわれているわ。その強い人たちを鬼舞辻無惨の元まで連れていかなければならないの。誰一人欠けてほしくない。……私も、友達だから」
「………、頑張ります」

 縁側で休憩をしていたカナヲを見つけ、炭治郎は駆け寄り声をかけた。
 色々とありがとうと礼を口にして、歳も変わらないのに継子で、階級もどんどん上がっていくのが凄い。自分の二年前は修業をし始めた頃で、その時からもう選別を受けるくらいには強かったカナヲを尊敬した。
 にこにこと笑みを向けてはくれても口を開くことはない。この状況をどうしようかと焦り始めた時、カナヲは硬貨を取り出して指で弾き飛ばした。手の甲で掴んだ硬貨を確認すると、カナヲは炭治郎へと顔を向けて口を開いた。
「継子じゃない。私は水柱様の妹、指示されたので手伝っただけ。お礼を言われる筋合いはないから。さようなら」
「あ、そうなんだね。弟子だとも聞いたからてっきり。今のは? 何で投げたの?」
 喋ってくれた。嬉しくなった炭治郎はカナヲの座る縁側の隣に腰掛け、次々に質問をしていく。兄がそばにいない時、鬼殺以外に指示されていないことは硬貨を投げて決めることにしている。今炭治郎と話すかどうかを決めたのだという。
 何故自分で決めないのかと問いかけると、指示されたこと以外はどうでも良いのだと言った。だから自分で決められないのだと。
 この世にどうでも良いことなど有りはしないと炭治郎は思うが、カナヲは心の声が小さいのだろうと推測した。
 指示に従うのも大事なことだが、直感に従うことも大事だと思う。だから炭治郎は硬貨を使って決めることにした。
 カナヲがこれから、心の声を良く聞くこと。
 心持ち次第で力は無限に湧いてくることだってある。病は気から、人は心が原動力なのだ。心を強く持てばその分鍛えられて強くなる。きっとこの先はもっと強くなれるはずだ。
 言いたいことを言った炭治郎はカナヲに手を振ってその場を離れ、善逸と伊之助の元へと戻ることにした。