雲取山
長く細い溜息を吐き出した冨岡はその場でしばし気を落ち着かせ、やがて屋敷へ帰るために足を動かした。
待ち望んでいたあの兄妹との邂逅。あの二人と出会うということは彼らの家族は死に、冨岡は間に合わなかったという事実がある。冬の凍えるような寒さの時期、あの娘が鬼になっていなければならないわけではあるのだが、それでも助けられる命があるならと冨岡は全力で駆けていた。
間に合えば鬼舞辻無惨と相対する可能性も、ここで冨岡が命を落とす可能性も高かった。だが現実は今回も、彼らの家族を助けさせてはくれなかった。
血の臭いのする小さな家。記憶にあるものと違わず、開け放した戸から中を覗くと、そこには血塗れで倒れる複数の人の姿があった。
おびただしい量の血は壁や家具にもこびりついている。
そこに二人の姿はなく、冨岡は足跡を追って二人へと追いつき、師である鱗滝の元へと向かうよう促した。
禰豆子は今回も兄を庇い、それを見て冨岡は安堵した。鼻の良い兄に察されることを案じてすぐに気を引き締め、言葉少なに狭霧山へと急がせたのだ。
炭治郎と禰豆子の手引きは己でなければならない。柱の誰かでは確実に禰豆子の頸は飛び、炭治郎は鬼殺隊へ入らない可能性もあった。カナエならば見逃す可能性はあっただろうが、柱を辞している上彼らを匿ってくれる育手の元へと向かわせることができたかは怪しい。
冨岡を信じ、炭治郎と禰豆子を信じた鱗滝でなければならなかった。
ここから二年。宇髄たちやカナヲのように早まる可能性もなくはないが、今回の任務は前回とほぼ変わりはなく、恐らく鱗滝が最終選別に向かわせる時期もそう変わらないだろうと予想した。
「炎柱を拝命しました! よろしく頼みます」
落ち着き払っていた煉獄槇寿郎とは違い、溌剌と煩いくらいの声で挨拶をする煉獄杏寿郎は初めて柱合会議へ参加した。
先代の教えも打ち切られた後の独学での呼吸の会得。冨岡には信じられないほどの逸材であり亡くしてはならない者の一人だ。息災で何よりと笑い、炎と水の呼吸の歴史を語りながらにこやかに話しかけてくる煉獄に、冨岡は感慨深い気分になった。
先代炎柱に誘われたきり、冨岡は煉獄家に寄る機会がなかった。不死川は二度ほど、宇髄は足繁く通っては先代を説得しようとしていた。
何かに打ちのめされていた煉獄槇寿郎の心を揺らがせるほどのことが冨岡にできるはずもなく、また何を言えば良いのかもわからず、任せておけと口にする宇髄に冨岡は甘えたのだ。
任務先で息子の顔を見る機会は案外あった。今回も会う度声をかけられたので答えるようにしていた。辛い境遇をおくびにも出さず夜を駆ける姿は、冨岡が見てきた尊敬する炎柱を彷彿とさせていたのだ。
「冨岡殿の継子が強いと噂を聞いた! 是非紹介してほしい」
「継子じゃない」
「む、では弟子か! どちらにしろ強いと聞いています」
「弟子でもない」
「あー! もううっせえな!」
堪忍袋の緒が切れでもしたのか、突然叫んで怒り出した宇髄に目を丸くすると、拳骨を食らわされてしまった。
「冨岡ん家に住んでる拾ったガキより弟子や継子、もしくは妹で良いだろうが! 普段言葉数を減らす馬鹿がこういうのだけ頑なになりやがって面倒くせえ! もうカナヲはお前の弟子で説明しろ!」
腹に据えかねていたのか、宇髄は鬱憤を晴らすかの如く喚き散らして肩を怒らせた。不死川は呆れた視線を宇髄へ向けつつも、妥当な提案だと呟く。何やらカナヲ自身も問われると長々と宇髄の言ったような説明をするのだそうだ。良い加減聞くのも面倒らしい。
冨岡としては弟子や継子などと事実と異なる説明はしたくないのだが、まあ妹ならば言っても良いかと納得した。確かに文字数が少なくて良い。事実と異なるわけでもない。家族となっているのだし。
「それで宇髄さんは来なかったの?」
「不死川と食事すると言って連れて行った」
楽しげに声を上げながらカナエは笑った。
蝶屋敷へ挨拶ついでにカナヲを紹介してほしいと煉獄が言い、隊士となってから頻度は落ちたが手伝いに行っているカナヲを迎えついでに立ち寄ったのだ。頼もう、と大きな声が玄関先で発され、隣にいた冨岡は思い切り肩を震わせた。わかってはいても真横でやられると驚く。慌てて出てきたしのぶが煉獄と冨岡を見た瞬間、苦虫でも噛み潰したような顔を見せた。通された客間には現在煉獄と冨岡、カナヲを連れてきたカナエが卓を囲んでいる。
「きみが冨岡殿の妹御だな。俺は煉獄杏寿郎、この度炎柱を拝命した」
「冨岡カナヲです。階級は壬です」
「成程、最終選別を受けてさほど月日は経っていないと思うが、順調に任務をこなしているようだな。素晴らしい!」
「冨岡くんの直弟子だしね」
「弟子では、」
「ふふ、わかったわよ。じゃあ兄さんって呼ぶのはどうかしら」
カナエまでもが見兼ねたように笑みを向け、カナヲへと一つの提案をした。
冨岡はもう妹と認識しているが、当のカナヲから名を呼ばれたことがない。隠が呼ぶように水柱様と呼んでいるらしいことは聞いたことがあるが、基本的にカナヲは自ら話しかけることがなかった。冨岡自身もそうなので、二人でいても呼び合うことも会話が弾むこともなく、鍛錬においてのやり取り以外は殆ど会話がない。
別に構わないのだが、それはそれとして自覚すると少々寂しくも感じる。だがカナエの提案に狼狽したように目を泳がせるカナヲを見て、呼べと強要するのも気が引けた。
「言いたくないなら無理に言わせるな」
「そうじゃなくて、言っていいのか不安なのよ。呼んで良いか駄目かを教えてあげて」
何やら更に衝撃を受けたらしいカナヲが冷や汗をかいている。いまいち反応の箇所がわからない時があり、カナエが助言のように口にすることが冨岡には有難かった。
「まあ、慣れないが駄目じゃない」
「はは、寡黙なところは冨岡殿とそっくりだぞ!」
その敬称をやめろと煉獄に告げると、大きく瞬いた後笑みを見せて頷いた。早速敬称も敬語も取っぱらい気安く話す煉獄を有難く感じる。カナエは何度か渋ったから助かったくらいだった。
「良かった! カナヲちゃんは今度から聞かれたら兄さんですって答えたら良いわ」
「兄君からの教えはやはり鬼の殲滅だろうか!」
揶揄っているかのような煉獄の呼び方に少々眉根を寄せたが、どこかそわそわとしているカナヲを眺めながら湯呑みを口へ運んだ。
「人に仇なす鬼は斬れと」
「妙な言い方だな。鬼はすべからく斬るべきだろう?」
首を傾げる煉獄には悪いが、それに対して頷くことは冨岡にはできない。
すでに鬼となったことを確認した今、冨岡は斬らない鬼が一人いる。前回通り共闘するつもりの冨岡からすれば三人斬らない鬼がいるはずだった。
悪鬼滅殺。それに偽りはない。冨岡が斬らないのは鬼であれど悪鬼ではないと認識しているからだ。このような屁理屈を容認するような者は今柱にはいないが。
しのぶが淹れ直した茶を持って客間に顔を出した時、せっかくだからと庭を借りて手合わせをしたいと煉獄が申し出た。
相手はしのぶとカナヲ。柱候補と囁かれるしのぶと期待の新人だと噂されているカナヲの実力が見たいと言う。カナエは快く頷き、三人は客間から庭へ下りて木刀片手に和やかに話し始めた。
「冨岡くんは信じてるのね。仲良くなれる鬼の存在」
庭を眺めていると聞こえてきたカナエの声は、穏やかで優しいが寂しげにも感じ、冨岡は視線を向けた。
あの二人の優しさと穏やかさに触れた者は皆信じることになる。今それを口にすることはしないが。
「どうだろうな」
「……いるのよねきっと。いつか会えると良いなあ」
カナエの信じたい鬼はいる。この先無事に二年を過ごせば蝶屋敷へとやって来る。兄妹の人柄に触れた前回のしのぶすら絆されたのだ。カナエが好きになるだろうことは明白だった。
*
「良い雰囲気だな。もしや恋仲か?」
「……さあ、存じ上げません」
客間へ目を向けていた煉獄が呟いた言葉にしのぶはカナエと冨岡へ目を向けて返事をした。
最初から見惚れてしまったと口にしたカナエを知っていて、しのぶ自身何度も世話になった事実がある。冨岡が信頼に足る人であることは間違いなく、最初こそ憤ってしまったが彼が悪意を持っていないことは理解している。
正直恋仲でもおかしくはないが、あの二人はまだそういう関係にはなっていない。というより、カナエが冨岡は友人であると主張するのだ。
気にはなっている。なっているが、口を出すのは憚られる。恋を知らないしのぶに言えることなど大してない。カナエが望まないのなら無理に急かす必要もない。
カナエを助けてくれた恩人だ。優しいとも思う。カナヲに対してどうして良いかわからない時もあるようだが、窘めると素直に聞くし、自分なりに歩み寄ろうとはしているようだ。しのぶの非力さを見て隊士を辞めろとも言わなかったし、助言もくれた。人を尊重する優しさを持っていると思う。あまりに寡黙で関わりのない人は知らないだろうが。
正直なところ、カナエが冨岡を好きだと言うのなら応援するつもりもある。姉に近づく不届き者は言葉で一刀両断してきた過去がしのぶにはあるが、最年少で柱となり、長年その階級に留まっている冨岡は強すぎる。少々癖のある人だが、それも人となりを知れば仕方ないと思えるような人だ。しのぶは小姑の如く窘めるが。
冨岡がカナエを好きならば、きっとすんなりと纏まる気もする。そう考えると無意識にむ、と唇を尖らせていたようで、カナヲが不思議そうにしのぶを見つめた。
「すみません。では最初の審判は私が」
「ああ、頼む! 後で冨岡にも手合わせを頼むとしよう」
「炎柱様と水柱様の手合わせは見応えがあるでしょうね。カナヲさんも勉強になりますよ」
すでに口にした話題は脇に寄せられていて、煉獄は嬉々として木刀を手にカナヲと向き合う。どこからでも来ると良い、と溌剌とした笑みを見せた煉獄を眺めながら、ほんの少しだけ妙な気分になったしのぶは思考を追い出して片手を上げた。