任務とカナヲと

 地面に何かが落ちるような音を耳に拾い、冨岡は顔を向けた。
 任務への復帰のために一度屋敷へ戻ろうとしていた時のことだった。快復して歩き回れるようになったカナエが、買い物でもしているのか複数あるうちの荷物を一つ落としたらしい。呼吸を使っていた時の名残りで持ち過ぎていたらしく、慌ててしゃがんで拾おうとしていた。
「冨岡くん」
 カナエが持ち上げる前に冨岡の手が風呂敷を掴み拾い上げる。ついでに腕に抱えているものも奪い取った。
「やだ、大丈夫よ。お勤めあるでしょう」
「日暮れまで時間がある。帰るまでに何度落とすつもりだ」
 ぐ、と黙り込んだカナエを一瞥し、蝶屋敷で良いのかと一言問いかける。やがて小さくそうだと呟いたカナエの前を歩き始めた。
「自覚してなかったけど、常中をやめるとこんなに体力に差があるのね。今更きちんと力があったことを理解したわ」
「肺は」
「大丈夫、ありがとう。走るとまだ少し苦しいけど、呼吸を使わなければ問題ないわ」
 息が切れるという感覚を日常で得たことに懐かしさを感じたり、色々と発見があるらしい。
 カナエが最後に出た柱合会議は、冨岡も同じく包帯だらけの状態で参加した。まだ覚束ない足取りで少し辛そうなカナエを、悲鳴嶼は泣きながらも黙って眺めていた。己が救けたうら若い娘が傷だらけでそこにいて、無理のできない体となったことを嘆いていた。だからといって上弦の弐の情報は聞かなければならず、悲鳴嶼は無理をするなと口にしつつも情報に耳を傾けていた。
 宇髄は連れてくると言ったが、会議に煉獄が姿を現すことはなかった。悪いと悔しげに呟いたものの仕方がないと悲鳴嶼に肩を叩かれ、屋敷を出た時、見知った影が視界に映り不死川と目を見合わせた。来ていたようだと呟いた悲鳴嶼と、乱暴に頭を掻いた宇髄は呆れたような声を漏らした。
 会議に参加しなければ意味がないとはいえ、煉獄がここまで様子を見に来たのは大した変化だった。宇髄のおかげで前回よりは確実に聞く耳を持っているのだろう。
「そこのカステラが美味しいのよ。寄っても良い? カナヲちゃんも好きかしら」
「出されれば食べる」
 最近カナヲは一人で蝶屋敷へと顔を出し、本日も変わることなく訪れていた。カナエが隊士を辞め蝶屋敷に常駐するようになっても、人手はさほど足りていない。カナヲは指示を受ければ手当をしようとはするが、まだ上手くできているとはいえないらしい。そして隊士たちの怪我が少なくなるようなことはなかった。
「奥さん美人だからこれおまけ」
「え? あ、ありがとうございます。……いえ、奥さんって私まだ」
「パンケーキとか食べるかい? この巣蜜美味しいから是非使って。料理に使っても美味しいから旦那さんと食べな。毎度!」
 口を開いた時次の客が店に入ってきたところで、カナエは口篭りながら手の甲で暖簾を持ち上げた。変なことを言うと少し困ったように笑みを向ける。冨岡も面食らったものの、以前聞いた話を口にした。
「ああいうのは聞き流しておけと宇髄が言っていた」
「そうなのね。……間違われるようなことがあった?」
「カナヲと歩いていると兄妹に間違われる」
 成程、と頷いたカナエは納得したが、その後間違いではないと訂正した。家族になったのだから兄妹で合っているということらしい。言われてみればそうかもしれない。
「……カナヲの、髪飾り」
「ああ、あれ。じっと見てたから一つあげたの。可愛いわよね」
 見覚えのある髪飾りをつけているのを見た時は、ついに蝶屋敷預かりに戻ったかと思ったものだ。蝶を模した髪飾りを厚意で貰いはしたが、これについて冨岡が礼を告げるのは少しおかしいのではないかと首を傾げた。それでも今は冨岡の屋敷にいるのだからとカナエへ伝えると、嬉しそうな笑みを向けてどういたしましてと口にした。
「髪の結い方も教えたの。いつも襟足で一つにして、……今思ったけど冨岡くんの真似かしら」
「鍛錬に邪魔だったからだ」
 そもそも拾った当時は毛玉のように長くぼさぼさだった頭を、隠が切り揃えたから今の長さになっている。風呂に入り身を整えて現れたカナヲに目を輝かせ、冨岡には馴染みのない椿油を自分の懐から取り寄せ、保護してからしばらくするとカナヲの髪は毛玉だった頃が嘘のように艶ができていた。達成感を抱いたのか、隠は満足げに目元を綻ばせていたので、今回結い上げる位置を変えて髪飾りをつけたカナヲを手放しで褒めていた。女の子は華やかで良いですね、と喜ぶのだ。普段の髪型も変えてみたくて仕方なかったのだろう。
「ちゃんと可愛いって褒めてあげてね。きっと喜ぶわ」
 はて、女性に軽々しく褒め言葉を贈ってはいけないと聞いたのはいつだったか。姉が生きていた頃、好意の言葉は特別大事だと思う女性だけに伝えるものだと言い含められていた。そういうものかと考えて、冨岡は確かに一度も口にはしなかったのだが。
 今回カナヲは冨岡の元にいるいわば家族。特別といえば特別かと考え、笑みを向けるカナエの顔を眺めながら小さく頷いた。
「おかえりなさい、冨岡さん。散歩の調子は如何でしたか? 今日から復帰だそうですけど」
「問題ない」
 本当か、と訝しむ目を向けてくるしのぶに、冨岡は溜息でも吐きそうになり静かに目を逸らした。
 カナエに言われて助言ともいえない言葉を聞かせたおかげかはわからないが、いつの間にか呼び方が変わっていることに気づいた時は内心仲良くなれたと喜んだものだ。前回も今回も良く話しかけてくれるしのぶの存在は有難い。カナエが生きているおかげか、喜怒哀楽が良く見えるのも微笑ましかった。
「姉さんもまだ治りきってないのに買い物になんて行って。結局冨岡さん連れ戻してきてるじゃない」
「途中でばったり会って、荷物持ってくれたのよ。今までと同じ感覚でいちゃ駄目ね」
 失敗、と呟きながら厨へと向かうカナエの後ろ姿をたっぷりと見送り、冨岡へと向き直ったしのぶは謝りながら頭を下げた。
「つい最近まで使っていた呼吸が使えないから、上手くこつを掴めないんだと思います。すみません、病み上がりは冨岡さんもなのに」
「問題ない」
「ありますよ。いつもすみません」
 謝られるほどのことはされた覚えがないが、しのぶに言っても利かないだろうことは理解している。しのぶの中で許容できない何かを冨岡に任せてしまったのだろうが、そこまで気にしなくても良いと思うのに。
「カナヲのことを頼んだのは俺だ。できることがあるならする」
「い、いえ。カナヲさんは蝶屋敷の手伝いですから。お給金だって受け取らないで……」
 カナヲには金が要るかどうかを一応聞いたのだが、その行動もどうやらしのぶは気に入らなかったらしい。正しく金銭の価値や意味を理解しているかがわからないのに、たった一言で質問を終わらせた冨岡が駄目だという。
 まあ、その代わりにカナヲは菓子をじっと見つめていたので、給金代わりに昼食と珍しい菓子を渡してほしいと言って今に至る。蝶屋敷では代わる代わる色んな菓子を手渡され、一人で食べれば良いのに毎回残りを持ち帰ってきていた。どうやらカナエが冨岡の分もと厚意で渡しているようで、一緒に食べたいのだと隠に言われてからはできるだけ食べるようにはしていた。
「あら? おかえりなさいませ、水柱様」
 奥から声をかけたアオイとともにカナヲが顔を出す。今日は比較的静かで寝台も空きがあるのだという。
 いつもは日暮れ前に一人で帰るカナヲだが、今日はカナエを蝶屋敷まで送ったのでともに帰ることとなった。すでに黄昏時、空は半分闇に覆われ始めている。夜はすぐそこだった。開け放った蝶屋敷の玄関から空を見上げた時、冨岡へと向かってくる鴉を見た。老齢の鎹鴉が肩に止まる。
「義勇……」
「余裕があるなら泊まらせてもらえるか。難しいなら今すぐ帰れ」
 カナヲたちにと菓子を買っていたカナエを思い出し、このまま蝶屋敷に泊めてもらえるのならと脚に括られた指令書を解きながらしのぶへ打診する。
「それは構いませんけど、」
「助かる」
 しのぶの続きのありそうな答えを耳に入れ、会話を打ち切って冨岡は任務先へと駆け出した。

*

 消えるように走り去った冨岡を見送ったカナヲの手が宙を切る。
 正確には見送ったわけではなく、間違いなく引き止めようとしていた。不安そうに揺れた目が見つめたのに、冨岡は気づかず任務に行ってしまった。
 アオイも心配そうにカナヲを見つめ、行き場のない手がそのままゆっくりと下ろされるのを視界に収めた時、しのぶはカナヲの肩を抱いた。
 上弦の弐との闘いで致命傷にはならなかったものの、冨岡は大怪我を負い初めて蝶屋敷へと運ばれた。鎹鴉の知らせで隠とともに現れたカナヲは、治療を終えて眠る冨岡のそばを離れなかった。
 血塗れの冨岡を初めて見たのだろう。快復して任務に向かうのは今日が最初、不安になるのは仕方のないことだ。
 冨岡は水柱だ。一般隊士よりも活動区域も広く、膨大な任務量をこなす柱。指令があれば迷いなく向かう姿は救援を待つ者たちには救いであり、いなくてはならない存在だ。
 それをわかっていても、いやカナヲはわかっていないかもしれないが、やはり一言でも言葉をかけてから向かってほしかった。
 夜ごと駆け回る鬼狩りの任務は、いくら強くてもどこで命を落とすかわからないのに。
「アオイー、療養中の子にもカステラ、あら冨岡くんは?」
「……任務」
 しのぶの不貞腐れたような声音の呟きにカナエは少し寂しげに笑みを見せ、未だ玄関先の外を眺めるカナヲへ近づいた。
「夜も近いから泊めてほしいと」
「ああ、そうね。いつもはもう少し早く帰ってたから」
 寝台は空きがあるし、しのぶやアオイの部屋に泊まってもらっても構わない。急患の可能性を考えるとそれが良いだろう。
 任務を終えた後蝶屋敷へ寄ってくれると良いが、あの男にそんな気は回らないかもしれない。
「カナヲちゃん、カステラ食べるでしょ? いつもみたいに冨岡くんの分持って帰ってね」
「夕飯の用意はできてます」
「ありがとう、アオイ。カナヲちゃん手伝ってくれる?」
 ようやく外から視線を戻したカナヲはカナエの言葉に頷き、手招きされるままについていった。

*

 朝日を浴びて一つ息を吐く。今宵の任務が終了し、冨岡はほんの少し鈍った病み上がりの体に溜息を吐いた。
 今回において長く療養するようなことがなかった冨岡は、上弦の弐との闘いを経てそれを経験した。そうだ、いつも療養から復帰した直後はこうして体が鈍くなっていた。蝶屋敷で行われる機能回復訓練もあるにはあるが、どうにか休む間に勘を忘れないよう医療従事者の目を盗んで体を動かしていた。それに怒髪天を衝く勢いを見せたしのぶに文句を言われなかなか難しかったのだ。
 治りきっていない体で無理をしては治るものも治らなくなる。きちんと機能回復訓練を受けてくれれば大丈夫。それもわかるのだが、冨岡としては動いていないと不安に駆られる。怒られた後もひっそり鍛錬していたのを気づかれているだろうこともわかっている。それでも彼女たちの前では寝台の上にいるよう心掛けていたし、何かを言いたげにしても何も言われなかった。すぐ治せないのは冨岡の未熟さ故だ。精進が足りない。
 少しの疲労を感じながら、そういえば蝶屋敷にカナヲを預けていたことを思い出した。そのまま住み着いても一向に構わないというより、冨岡にとってそれが自然ではあるのだが、保護権は今冨岡にあるので迎えに行くことにした。
 夜も明けたのだしすでに一人で帰っているかもしれない。そのまま手伝いをし始めているならば、冨岡も一人で帰ろうと考えていた。
「お勤めご苦労様です」
 水柱様だ、と廊下の奥で玄関先を気にしている隊士の声が聞こえ、がしりと拘束するように抱き着かれた冨岡はただ驚いて目を丸くした。不機嫌そうなしのぶの目がじとりと冨岡を眺め、大きな怪我がないことを悟ったのかご無事で何よりですと呟いた。
 冨岡に抱き着いているのは他でもないカナヲで、上がり框から眺めるしのぶは聞かせるように溜息を吐いた。
「復帰後最初の任務なんですから、一言くらいあっても良かったのでは?」
「……泊めてほしいと聞いたはずだが」
「それは私たちにでしょう。カナヲさんにですよ」
 誰だ。家族らしい。そんな隊士たちの声が聞こえてくるが、腕を組んで仁王立ちしているしのぶの奥にいて姿は見えない。離れようとしないカナヲの旋毛を見下ろし、冨岡はつい小さな声音で問いかけた。
「……カナヲがこうなっている理由は」
「あなたが、カナヲさんを置いて、任務に行ってしまったからですよ!」
 隊士でもない者を任務に連れて行くことなどしない。眉を顰めた冨岡にしのぶは更に言い募る。
「蝶屋敷に重傷で運ばれたのは初めてでしょう。昨夜は復帰直後の任務です。ちゃんと帰ってくるか不安になるのも仕方ありません」
「………。成程、すまなかった」
 カナヲの頭に手を置くと、一つ頷いてからカナヲはようやく離れた。こんなに心配性だったのかと驚きはしたが、そういえば蝶屋敷で目が覚めた時も不安そうにしていたのを思い出した。
「……今日は手伝いは良いですから、一緒に帰ってくださいね」
「呻き声が聞こえるが」
「家族水入らずを邪魔するほど野暮じゃありません!」
 蝶屋敷を追い出され、鼻先で引き戸を閉められた冨岡は隣に立つカナヲとしばし目を見合わせ黙り込んだ。閉められたはずの戸が再び開き、今度はカナエが顔を出した。
「ごめんなさいね、しのぶが。これカステラ、カナヲちゃんと食べて」
「……すまない」
「良いのよ、しのぶの言うことは私も思っちゃったもの。……わかってくれてると思うけど、やっぱり心配するからね」
 家族は無条件に心配するものだとカナエは笑う。家族というには前回の隊士としてのカナヲを見ていたこともあり、冨岡にとっては蝶屋敷の栗花落カナヲという前提があった。今回カナヲは冨岡の家族なのだ。それをあまり意識できていなかった気がする。
「……そうだな。悪かった」
 羽織を掴む手にできるだけ優しく触れると、カナヲはようやく普段のように小さな笑みを見せた。
「それから、……髪飾り、似合ってる」
 瞬いた目が冨岡を凝視した後、少しばかり困惑しながらもカナヲは頷いた。引き戸の奥から様子を見ていたカナエに目を向けると、嬉しそうに笑みを向けて二人を見送るために言葉をかけた。