上弦の弐

 欲をいうならば頸を斬り落としてやりたかったが、それでも今この場において生き残ったのは間違いなく僥倖といえる。己の怪我が今回初めて蝶屋敷の世話になる程の有様だろうと、カナエが息をしたまま屋敷に運ばれたのだから。
 上弦の弐との邂逅が、明確にいつだったかを覚えていなかった。前回冨岡はカナエが死んだ時、そこから距離のある地域で鬼を斬っていた。さすがに任務の際の場所までは適当なのか、それともいくつも変えてきてしまった弊害だったのかはわからないが、とにかく今回冨岡はカナエがいた場所からさほど離れていない地域に赴いていた。助けを呼ぶ鎹鴉に驚き駆けつけた時、カナエはすでに血を吐いていた。肺が凍らないよう庇っていたが、それも間に合わないほど鬼は広範囲に血鬼術を広げていた。
 弱らせて逃げ出させることに成功したのは、息も満足にできないはずのカナエが粘ったからだ。一人で受けていたはずの攻撃を冨岡が現れたことで分散し、生き長らえることができたのだと思う。それだけで己が強くなった意義があった。
 誰かの命を繋ぎ止めることができた時こそ、冨岡がここにいる意味があるといえる。守りもできない命を救えないのなら、強くなどそもそもなれていないのだ。
 気づいた時、見覚えのある天井を眺め、いつ見たものだったかとぼんやりと考えた。やがて蝶屋敷であることに気づき、前回見ていたものと変わりないことにも気づく。傍らに気配を感じて視線を向けると、滝のような冷や汗をかいたカナヲが冨岡を凝視していた。
 包帯まみれの手をただ黙って冨岡を眺めるカナヲの頭に乗せると、カナヲは両手で握り返してきた。
 治療をしたのはしのぶか、アオイか。以前カナエにはカナヲに治療をさせるつもりかと怒りを見せられたことがあったが、もしや見せてしまったかとぼんやりと考える。主に治療をしていなくとも、恐らく驚かせたのだろうとは思っている。
「……心配してくれたのか」
 案外強く掴まれた手に更に力が篭もる。どうやら相当心配したようだ。言葉はなくとも何となくわかる。
「………っ、起きてる!」
 静かに扉を開けて入ってきたはずのアオイが、冨岡を見て心底驚いたように声を荒げた。踵を返して部屋を出ていき、大きな足音を複数連れ帰ってきた。
「水柱様! 気分は如何ですか」
「……問題ない」
 眉を釣り上げたしのぶがアオイに連れられて戻ってきたことで、何か怒られるのだろうかとほんの少し気構えた。人付き合いについて怒られることはあっても、任務を遂行したことで怒られることはなかったと思うが。
「……良かった……、姉も起きてます。本当に……姉を助けてくれてありがとうございます」
「……招集を受けたからだ。鬼は取り逃がした」
「よおよお、生還ご苦労! 上弦の弐とやり合ったそうだな」
 怒っていたわけではなかったらしい。泣きそうな顔で礼を告げるしのぶの後から騒がしく入ってきたのは宇髄だった。その後ろには不死川もいる。
 意識が戻ったことで経過を診察し、安静にと言い含めてしのぶは柱二人を部屋に残した。動かないカナヲをどうすべきかとアオイと目を見合わせたが、少しの間離れるよう口にするとカナヲは立ち上がってアオイに連れられて出ていった。
「後で甘やかしてやれ。ここにいたまんまずっと起きてたらしいからな」
「そうか」
 怪我の具合を確認しつつ、宇髄は不死川にも座るよう促した。
「童磨と名乗っていた。氷を操る鬼だ。肺をやられた胡蝶はどうしてる」
「起きて早々人の心配とは見上げた奴だ。生活する分には問題ねえってよ。ただまあ、呼吸を使うのは難しい。隊士として闘うことはもうできねえな」
「……そうか」
 不死川の友の話を思い出す。命があるならばと思っても、本人にとってはそうもいかないこともわかっている。自分自身腕を失くした時、ままならない体に憤りを感じていたものだ。誰かが闘っているのを傍目からしか見ることができないのは歯痒いだろう。前回の宇髄は一度だけそれを漏らしていたことがあった。
「引退だ。だが継子として妹は力不足。柱は一人減る」
 階級も全く足りていない。カナエの代わりに柱になるのは今のしのぶには難しい。それは本人が一番良くわかっているはずだという。
 鬼に効く毒が完成したと報告をしてくれたのは少し前だが、鬼の討伐数は柱になるには足りていなかった。
「まあ継子のいない柱も多いし、その辺は順当に階級が上がる奴が補充されるのは構わねえ。柱合会議は二週間後だ。出られるか」
「出る。……煉獄さんは」
「あの人は俺が連れてくる。必ず」
 声音は固く厳しいものだった。宇髄は決めていたように冨岡の問いかけに答えた。
 息子とは任務で顔を合わせはしたが冨岡は結局煉獄家へ行く機会がなかった。宇髄は何度か足を運び、冨岡と同様任務中にも共闘することがあったという。強くなると太鼓判を押した宇髄の予想通り、あの男は父親の代わりに炎柱となる未来が待っている。上弦の参との死闘で命を落とす煉獄杏寿郎。
 命の芽を摘ませるわけにはいかない。今回カナエを救けたことで、どんな展開が起こるかもわからない。それでも煉獄にも死んでほしくない。希望の光のような男を亡くすわけにはいかないのだ。
「時間も鬼も待っちゃくれねえ。立ち止まってる暇はねえんだ」
 煉獄槇寿郎は、ある日を境に任務にも来ず、柱合会議にも出なくなった。悲鳴嶼はただ黙って泣いていたが、冨岡は彼がそうなった理由を僅かながら知っている。最愛の妻を亡くして自暴自棄になり、息子たちにも辛く当たるようになったと聞いた。他にも要因はあったようだが、それを冨岡は聞いていない。恐らく宇髄は知っているのだろう。
「駄目だってば、姉さん!」
「冨岡くん!」
 またも廊下が騒がしくなり、扉を開けたのはしのぶに支えられながら立っているカナエだった。目を丸くした後歯を食いしばり、悲しいような泣きたいのかと思うような表情をして部屋へと足を踏み入れた。
「良かった、生きてくれて。ありがとう、冨岡くん」
 宇髄が立ち上がり椅子を空けると、しのぶは渋々カナエを座らせた。殆ど無理やり部屋から下がるよう声をかけたカナエは、しのぶが去っていくのを見届けてから口を開いた。
「呼吸は使えねえらしいな」
「……はい。上弦の弐は氷の血鬼術を使いました。扇で霧の氷を発生させて呼吸の邪魔をして、肺を壊死させていく。相性は最悪です。……常中なんてしたらそれこそ寿命は終わるって、しのぶに泣かれてしまいました」
 街で見かけるような娘と変わらない呼吸しかできなくなり、柱として最低限のことができなくなった。置いていく覚悟を決めていたはずでも、必死に泣いて懇願する妹を見て隊士を続けようと思えなかった。例え見放して続けても、カナエの容態では隊士の足を引っ張ることになる。
「二週間後の柱合会議を最後に私は柱を引退します。悲鳴嶼さんが常々勧めていたように、蝶屋敷での医療だけに専念するわ」
 胡蝶姉妹を鬼から救ったのは悲鳴嶼だということは冨岡も聞き及んでいる。悲鳴嶼が憂いていた死をカナエは回避したが、冨岡は決して最善を掴み取ったわけではない。命があるならと思う反面、何をおいても頸を斬るべきだったと口惜しくもあり、そしてできることなら十全の状態で帰すべきだったのだ。
「……しのぶを、お願いします。あの子の毒は強力なもの。戦場で全ての鬼に効く調合ができるよう改良してます。柱になるのはきっと早いわ」
「……だが現時点で階級は足りてねえ。お前がそれとなく嵌めてたか」
 カナエの表情は固く、宇髄は図星だったかと呟いた。
 しのぶが頸を斬れないことを差し引いても、未だに下から数えるほうが早いほどに昇級が妙に遅かった。カナエが率先して階級を上げさせないよう手を引いていた。言い方を悪くすれば手柄の横取りだ。
「お見通しですね。勿論毎回同じ任務に行けるわけがないから、自分が斬れる時はできるだけ、もっと強い人がいたらそれとなく隙を作らせて斬ってもらえるようお任せしてしまっていた。毒殺が討伐数に数えられてしまうようになって、私にはもう止める術がない」
 あの子を見送る未来だけは見たくない。身勝手であることを自覚していると続け、カナエはもう一度頭を下げた。
「守らなくても良いんです。ただあの子が強くなるよう手助けがほしい。私はもうできないから」
「……だからこんなところにいるべきじゃなかったんだよォ」
「それ隊士である俺らは人のこと言えねえから」
 軽口が宇髄から聞こえ、カナエは小さく笑みを見せた。
「お前が付き添わなくてもあいつはうちの女房に会いに来てる。暗器もだが、忍として毒にも覚えがあるからな。研究に活かしてくれたんだと思ってるが」
「はい。ためになる話を聞けたと言っていました」
 対人においての毒には明るいが、鬼相手の毒など専門外だという宇髄は、しのぶに毒を少しばかり提供してもらったのだという。これから試すと口にして、期待しているとも続けた。
 カナエが不安になっていたとしても、すでに冨岡にとっても宇髄にとっても、しのぶの力は絶対に必要なものになってしまっていた。